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piano  作者: 永島大二朗
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謎の調律師(八)

 木の温もりに包まれた店内は、奥へ行く程暖かい。電球の赤い光が木を照らし、コツコツと響く足音が心地よい。

 そう思うのは一般の客で、今の真由美には周りが見えてなかった。足音を楽しむ余裕もなかった。ただ店員の後に付いて、大きなテーブルの奥、店の一番奥にある古いピアノの所へ向かう。

「私、増田雄大と申します。この店の、マスターをしています」

 ピアノの前で、店員はそう名乗って振り返り、お辞儀をした。

「新田真由美です。よろしくお願いします」

 真由美も名乗って挨拶をすると、増田は目を見張り、両手の指を外側に反らせる程驚いた。そして、斉藤が教えを断った理由が判ったし、真由美の何が足りないかも判った。何から何まで全てを察し、鬼の様な顔をする。


 しかし、お辞儀中の真由美にはその様子が判らなかった。頭を上げた時、増田の顔は穏やかな表情に戻っていたし、とぼけた調子で話しかけられる。

「あのぉ、一応、確認しておきたいのですが、新田響子先生の、お嬢さんですか?」

 その問いに、真由美は笑顔で答える。

「はい。そうです」

 真由美は増田を知らなかったが、増田は母響子を知っている様だ。やはり母は有名だ。次の一言については見当が付く。

「だとしたら、私にピアノのことをあれこれ聞いて、文句を言われませんか?」

 正解。真由美はにっこり笑って答える。

「それはありません。私もプロです。母は先生でもありますが、今はライバルです。ライバルを出し抜いて音の探求をしても、文句を言われる筋合いはありません」

 真由美はそう答えたが、確証はまったくない。響子はトッププロなのだ。それなりの自覚もある。他のプロと音楽で語る時だって、相手を尊重したりもする。


 目の前の増田が、しかめっ面でいる。響子の何に気を使っているのかは判らないが、気にすることはない。だろう。多分。

 増田は黙ってじっと真由美を見ていた。何やら頭の中で、情報を整理している様にも見える。真由美は更に一言追加する必要があるのかと思って、息を吸った。

「なるほど。それなら良しとしましょう」

 増田はくるりと振り返ると、鍵盤の前に立ち、さっき閉じた蓋をもう一度開ける。真由美は息を止めてその様子を見ていた。増田は二、三回ポンポンと叩くと真由美の方を見た。

「このピアノはちょっと気難しいんですけど、弾いてもらえますか?」

「はい。判りました」

 真由美は止めていた息を返事に変えた。そして何言ってるんだと思いながら了承する。増田と入れ替わるように鍵盤の前に来ると、椅子の高さを調整して腰掛けた。

「何を弾きましょうか?」

 増田の方を見て質問すると、首を傾げて考えている。

「そうですね。では、斉藤が弾いていたという『エリーゼのために』をお願いします。なるべく似せてください」

「判りました」

 そう言うと真由美は、その時を思い出す様に弾いた。最初は鬱病の様に。中間部は極端に速く。そして最後は力強く。


 弾き終わって、真由美は再び増田の方を向く。増田は表情を変えず、褒める訳でもなく、ダメ出しをする訳でもなく、真由美に質問をする。

「曲想を確認されたのですか?」

「はい。以前読んだ本で『テレーゼのために恋が終わったと解釈した』とのことでした」

「なるほど。貴方はその本を読みましたか?」

「いいえ。本の題名までは聞かなかったので……」

「え、読んでないんですか? 貴方、人の曲想を真似ようとしているのに、その本を探したり、しなかったんですか?」

「そ、そんな。題名も聞いていない本なんて、探しようがないじゃないですか。それに、私が知りたいのは『音』であって、『弾き方』であって、曲想ではありません」

 増田は困った顔をした。どこか違う世界の人の様だった。この世界の人は、こんな感じなのだろうか。増田はそう思った。

「やはり、貴方はまだお若い。これで終わりにしましょう。あ、今のエリーゼのためには、お上手でしたよ。お世辞じゃなく本当に。斉藤の気持ちも判りました。ありがとうございます」

「何故ですか!」

 真由美はピアノの鍵盤を叩いた。物凄い音がした。その音と行為に、増田は非常に驚いた。色々言いたいことはあったが、何から言って良いものやら迷う。それでも増田は、斉藤の顔を思い浮かべ、最低限度のことは教えなければならないと、思い直した。

「んー、技術習得のみでうちに来たんですか。そういうことでしたら、斉藤に教えてもらったことをお教えしましょう。それで良いのですよね」

「はい。お願いします」

 増田の言葉を聞いて、真由美はこの男が、斉藤の弟子なのだと思った。母を『先生』と呼び斉藤を呼び捨てにするのは、身内を他人に紹介する基本形だ。


 真由美は増田が、どうやって斉藤の弟子になったのか、何故自分は教えて貰えないのか。この弟子は、自分の欲しい情報を持っているのか。

 一瞬の内にそこまで考えて、真由美は最後の一つを打ち消した。

 増田は真由美の想いを気にする様子もなく、返事も聞いていなかった。ぶっきら棒に真由美の隣に立つと、そのまま人差し指でドの音を弾いた。

「トーン」

 澄んだ大きな音がした。

「はい。どうぞ」

 真由美も言われるまま同じ音を叩いた。

「トーン」

 真由美が不思議そうに増田を見ると、増田は首を横に振って答えた。

「そういう音ではありません。こうです」

 もう一度ドの音を弾いた。

「トーン」

 今度はさっきより大きな音が響いた。

「違い判りますよね?」

 真由美は首を横に振り、増田の真似をして強く鍵盤を叩いた。

「トーン」

 増田の鳴らした音と、同じくらい大きな音をたてた。

「違います」

 増田の声はそんなに大きくなかった。

「どう違うのですか?」

 真由美の質問に増田は事務的に答える。

「音の波形が違います。貴方のは、ただ叩いているだけです」

 的確ではあるが、冷たく言うその一言に、真由美はショックを受けた。

「では、まだ教えて欲しいと思うのであれば、もう少し練習して来てください。今日はもう店じまいなので、良いですか?」

 真由美は黙って頷いた。今までのレッスンで、音の出し方が違うなんて言われたことはなかった。それを練習して来いなんていうのも途方に暮れる。

 真由美はその日、無事に帰り着いたが、どうやって帰って来たのか、記憶に残っていなかった。


 一方の増田は、真由美を放り出す様に店を追い出した後、一つポツンと点く明りの下で、一本の電話を掛けた。

 苦笑いを浮かべて増田が何かを言うと、すざましい怒りが届いたのか、受話器を持ったまま、増田は姿勢を正す。表情も恐怖に怯え、目も見開いた。そして、ダラダラと油汗を流しながら、誰もいない壁に向って、頭を下げ続けていた。


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