過去との決別(十三)
タクシーの中で真由美は、子猫の様におとなしかった。
父が怒ると怖いのは、十分知っている。キャンキャンガミガミと怒る母響子と違って、手を上げることもあった。
真由美はこの年で、お尻を叩かれるのかとヒヤヒヤしたが、タクシーの中で、父はそこまでしなかった。
子供の頃、サイフの中身を『子供銀行券』にすり替えたことと、どっちが悪いか、比較していた。
しかし、あれ程怒っていた父だが、母の時と違って、タクシーの中では無言だった。
そのまま家に着くと、真由美はソファーに座らされた。そこできっと、お小言タイムになるのだろうと覚悟する。
しかし、父の言葉は静かで、とても短かった。
「もう逢うな」
「はい」
真由美は、質問の中身が判っていたかのように即答し、父と同時に言い終わる。
その返事を聞いて博は、少しだけ驚いた顔を見せたが、むすっとした顔に戻ると、一人で書斎に向かう。
リビングに一人残された真由美は、父の背中に『ベー』と舌を出して見送っていた。
今日は、何故かピアノを弾く気にはなれなかった。テレビも見る気がしない。真由美は、これから気まずい数日に、耐え切れるか不安だった。
こんなことは今までだって、一度もなかったからだ。
真由美は斉藤と会わなくなれば、父母と、もっと上手くやっていけると、思っていたのだ。
斉藤の忠告を聞かなかった自分が、悪いのだろうか。いや、自分は何も悪いことはしていない筈だ。それでも真由美は、父にも『何故』の一言が聞けない自分が、情けなく思った。
書斎に入った博は、ため息を吐いて椅子に腰掛ける。ゆっくりと背中を反らして、足を机の上に乗せた。椅子がギシギシといっていたが、博の耳には入っていない。
博は考えていた。自分のしてきたことは、正しかったのだろうか。ジャーナリストの一人として、真実を見つめ、真実を語って来たつもりでいた。
それに、自分の書いた記事で、誰かが傷付かないように、務めてきた。それが、ある時は上役と対決する要素となり、冷や飯を食わされた時もある。
博はひとしきり昔を振り返ると、机の縁を蹴る。
キャスターの付いた椅子は勢いで動き出し、机の置いてある部屋の奥から、手前の本棚にまで、斜めに移動した。
それは博のささやかな楽しみで、機嫌の良い時に行う儀式だ。
博は椅子の上でクルクルと回りながら、目に写る書斎の様子を眺めていた。あたかもそれはタイムマシーンのようだ。
椅子が止まった目の前には、一冊のアルバムがあった。
博は懐かしくなって、その場で開く。それは二十年以上開くことのなかった、結婚式のアルバムだ。
だいぶお金が掛かっているような仕上がりで、結婚式の全てが写っている。結婚式場の外観、料理全品、お色直し再入場前、キャンドルサービス、ケーキカット、来賓の挨拶、宴会芸。
全て記録されていて、写真の下には、何を踊っているかまでワープロ打ちされていた。
それを見ると、いつどこで、誰が何をどうしてどうなったのか、一部始終を思い出すことが出来た。懐かしい。
ジャーナリストの博にとってそれは、とても重要なことであったが、これは博が編集したものではない。
博は、二台のニコンをブラブラさせながら、忙しく写真を撮っている男の姿を思い出した。誰だか知らないが、面白い人だったなぁと、笑った。
結婚式のアルバムには『主人公が二人いる』はずだが、その一人である博の写真は、高砂でニヤけるのと、ケーキカットと、両親に花束を渡す後姿、位なもので、後は響子が大写しになっている。
それでも博は満足していた。響子の美しい花嫁姿と微笑みを眺め、ゆっくりとページをめくって行った。
このアルバムに記録されていないのは『音』だけであろう。
しかし博は、ページをめくる度に、それを頭の中で再現することが出来た。なぜなら、全ての場面で曲を演奏していたのは、斉藤だったからだ。
響子が博より、斉藤を好きだったのは知っている。
一学年下の響子が、斉藤と博の会話に割り込んできたのが出会いだ。その時響子が話し掛けたのは斉藤の方で、博には愛想笑いを振り撒いただけだった。
響子は、ことある毎に斉藤と博の間に割り込んで来て、斉藤にピアノの話題を振った。斉藤はピアノについて語る時、誰彼区別せず、その話に耳を傾ける。
例えそれが、後のライバルであったとしてもだ。
そんな響子を、博は『可愛そうに』と思いながら見ていた。
何故なら斉藤にとって、一番大切なものはピアノで、二番目もピアノで、そして、三番目もピアノだったからだ。
だから斉藤が大学在学中に、師匠の娘と突然結婚したのも頷ける。
斉藤の結婚について、響子はとても怒っていたが、斉藤が響子と『何か約束』をしていたとは、とても思えない。
来賓と親戚の写るページをめくりながら、博は響子に言ったプロポーズの言葉を思い出す。響子が博と結婚したのは、斉藤が結婚した、翌年のことだった。
最後のページには斉藤と、アルバム製作者が写った写真が張ってあって、下にはメッセージが添えられている。
首にニコンを一台ぶら下げ、黒服には似合わない『四桁の数字』が書かれた帽子を被っている男の、メッセージがあった。
『ずっと仲良しでいましょう』
そこだけ手書きの、やさしい字だった。
あの時は、ごく普通のメッセージだったし、笑って読み飛ばした。しかし、今はどうだろう。博は目を閉じ、本棚の上の方を見上げて想いを巡らせる。
「あの頃に、帰りたいなぁ」
博はポツンと呟いて、アルバムを閉じた。




