偽物
でも、恐れていた痛みも衝撃もいつまで経ってもおとずれなくて、恐る恐る目を開く。
すると、そこには彼の振りかぶった腕を掴むエヴァン様が立っていた。
「離せよ!!!」
口調の荒くなった彼がエヴァン様を睨み付けた。
それをエヴァン様は五月蝿そうに一瞥すると、言った。
「警備隊、呼んで欲しい?もうこの子に関わらないと誓うなら、このまま見逃してあげるけど」
「……っ」
警備隊という言葉を聞いて息を飲んだ彼は、悔しそうに歯ぎしりすると、分かったから、離せと吠えた。
エヴァン様が手を離すと、彼は自由になった腕をさすりながら、こちらを睨み付けて去っていった。
「さてと……」
彼の去って行った方向を見ていたルヴァン様がくるりと私の方を向いた。
「何か言うことは?」
「……ごめんなさい。あと、ありがとうございます」
「本当に手のかかる子だな」
呆れた様子でため息を吐かれたが、……返す言葉もない。
前に話した彼が怪しいと踏んで、ここまで駆けつけてくれたのだろうか。
もし、エヴァン様に言ってなかったら、そして来てくれていなかったらどうなっていたのか考えてゾッとした。
「で、彼は初恋の彼でしたか?」
エヴァン様はまたあの胡散臭い笑みを作るとそう問いかけてきた。
「……違いました」
「……そうだろうね。君は、いつまでその初恋に縛られてるの?」
息が詰まった。
彼の澄み切った空色の瞳が、真意を探るように私をとらえた。
私は初恋に縛られているのだろうか?
叶うはずがないとわかっているのに?
私は、父の決めた婚約者と結婚して、伯爵家を存続させなければならない。
何も言えなくなって俯いた私。
彼はコホンと咳払いをした。
「別に何も、責めている訳では無いよ。何年経っても、忘れられないんだろう?そこまで人を想えるのは素晴らしいことだ。ただ、そうすることで危ない目に合うのならば話は別」
「……あなたには関係ない」
「なに?」
小さく呟いた声は、彼には聞こえていなかったようだった。
私は大きな声で叫ぶようにもう一度言った。
「関係がないと言ったの!あなたにそこまで言われる筋合いはないわ!!」
言ったあとにハッとして、手で口を押さえたがもう遅かった。
彼は恩人なのに。
きっと指摘されたことは的を得ていて、私は恥ずかしくなってしまったのだ。
最低だ。
妹のことばかり性格が悪いと言っているけれど、私だってそう変わらない。
「……そう。それは失礼したね」
「あ……」
彼は、言い返さなかった。
去っていく彼の後ろ姿に、思わず手を伸ばしそうになったがぱたりとそのまま下ろした。
自分が何をしたいのか分からなかった。
―――――……
彼はその後しばらく、うちの屋敷を訪れなかった。
私と顔を合わせるのが嫌だからだろうか。
自意識過剰かもしれないが、そう考えると気分が落ち込んだ。
自業自得なのに。
「お姉様、エヴァン様どうされたのかしら」
「さあ、最後に屋敷に来られた時体調が悪いと言ってお帰りになられたから、もしかすると寝込んでらっしゃるかもしれないわね」
私は心配そうにする妹に飄々と言ってのけた。
彼が来ないことを心配するシンシア。
寂しがってもいたが、正直それに対しては申し訳なさを微塵も感じなかった。
それを聞いたシンシアは、それだ!と両手をパンと叩いた。
「公爵家にお見舞いに行くわ!」
「そう。行ってらっしゃい」
「そうと決まればお手紙を書かなくちゃ」
シンシアはこうしちゃいられない、と公爵家を伺う旨の手紙を書くために自分の部屋に歩いて行った。
それが数日前のこと。
私はベッドに横になり咳込む妹を前にして溜め息をついた。
「今日はお見舞いに行くはずだったのに……」
しょんぼりと目を伏せた彼女は、ガラガラと枯れた声でそう零す。
風邪を引いて高熱が出ているため、公爵家へ行くのは無理そうだ。
「では、公爵家に断りの使いを出しましょう」
私が提案したところで、妹の部屋に一緒にいたお母様が声を上げた。
「あら、もうお約束の時間までそんなにないでしょう。それだったら、クローディアが代わりに行けばよいのではないかしら」
……え。
部屋にいた誰もが間抜け顔を晒した。
「エ、エイダ、公爵はシンシアの婚約者なのだよ。クローディアが行っても意味がないだろう」
「そうよ、お母様!私が行くことに意味があるのよ!」
お父様とシンシアが抗議の声を上げた。
だが、お母様は揺るがなかった。
「伯爵家を代表してのお見舞いということで、クローディアが行けばよいじゃない。面識はあるのだし。シンシアは風邪が治ってから行きなさい」
……滅茶苦茶であるが、お母様は一度言い出したら聞かない。
また、この家で私に拒否権は存在していないのでせかされて部屋に戻らされると、私は渋々公爵家訪問の準備を始めた。