邪獣
人には誰しも変身願望がある。より美しく、より強く、より輝かしく、より素晴らしい栄光を。彼もその願望に取り憑かれた一人だった。
「あぁ、今日も駄目だった。最悪だ」
彼の名は影元 伸夫。今年で17歳になるが、彼の目元には人生の悲惨さを物語る様に深い隈が見られた。
彼は生まれてから自由というものを実感した事が無かった。朝から晩まで親に拘束され、勉強や家事をさせられる日々である。
勿論反抗する事は許されず、それに対して彼自身も「そういうものだ」と無自覚の内に納得させる様になっていった。
彼には家族以外の関係がほぼなかった。友人はおろか学校との関係もほぼ拒絶傾向にあったのだ。
彼自身プライドが高く負けず嫌いな性格であった為学校の人間を程度の低い奴と見下し、侮蔑していた。
そんな彼が唯一安息として認められる時間は睡眠だけであった。
「クソッ、何故上手くいかない.......!」
彼は鏡の前で一人頭を抱え下を向いた。スランプに陥っていたのである。何もかもが上手くいかず精神的にも不安定であった彼は日頃の疲労もあり酷く絶望した。
「こんな人生なら、いっその事.......!」
思い立った彼は洗面台の上にあったナイフで自分の胸を突き刺した.......はずだった。何故かそれは自分の胸元を貫通せず弾かれたのだった。
彼は今起こっている奇妙な現象に腰を抜かし唾を飲んだ。
「何だ.......!?神は俺を殺す事さえも許してくれないのか」
段々と鼓動が早くなり次第に行き場のない憤怒と悲観が彼を襲った。何度も、何度も、ナイフを胸元に突き刺そうとしても、それはカキンとその貧弱な胸板に弾かれ床に転がるのだった。
「一体.......!?」
彼は次第に恐怖を感じ始める。この地球上においてナイフを皮膚に突き刺してまともに生きていられる人間などいるのだろうか?自分だけが特別なはずがない。彼は何度も事実を反芻したが答えは出なかった。
「よう」
背後から突然声がした。顔を上げ、鏡を見ると自分の後ろには先程まではいなかった黒い得体の知れない何かがいる。三角に尖った角、蝙蝠のような大きな羽。典型的な悪魔の類である。
「うわああああああ!!!!!」
彼は再び腰を抜かした。目線を逸らし、再び見上げても凶悪そうな顔をした"それ"は未だにそこにいるのである。
「落ち着きたまえ。私は取引をしに来ただけだ」
やがて落ち着きを取り戻した彼はその黒い何かに対して応える。
「取引って.......!俺は何も受け取らないし、お前に頼る筋合いはないぞ」
「ふむ、決して君にとっても悪い話ではないはずだが」
その悪魔はフフと笑い、彼の顔に自身の顔を近付けて言った。
「影元君。君は素晴らしい存在なのだ」
「素晴らしいって.......!?」
「我々は君のような人材を求めていたという事だよ。君が同意さえすれば世界も壊せる」
「我々.......世界を壊す.......?全く意味が分からない」
怯えてガタガタと震える彼に悪魔は続ける。
「君はこの世界に生まれてから息苦しさを感じていた。そうだね?」
彼は少し考えてこくりと頷いた。
「だから私が直々に君に力を与えよう。さすれば支配するも破壊するも君の自由になる」
「しかし、俺にそんな事はできない。俺には手に入れられる物は何も無かったが、失う物も作りたくない」
そう言い否定する彼の心にも一種の迷いがあった。自分が貯めてきた怒りや憎しみ、憎悪を瞬時に力にできたなら.......確かに国を一個滅ぼすぐらいは容易いかもしれない。
「.......迷っているのかね」
悪魔に考えを当てられて彼はドキッとした。次第に彼の中では正常な考え方ができなくなり、焦りが生まれ始めている。
「今この瞬間がチャンスなのだぞ。お前が世界に復讐できるのは」
悪魔の一言を聞き、遂に彼の心は折れてしまった。ふるふると顔を震わしながら彼は悪魔に頼み込んだ。
「お願いします」
「フフ、取引成立だな」
真夜中の鏡は彼らが二人消えていくのを写し出していた。
それからというもの、影元は姿を晦ました。元々彼は影が薄かったのもあり気にされずに消えていったという見解だった。
しかし、それと同時にこの街での連続殺人のニュースが報道され、各種メディアや住人は大騒ぎだった。
「困った事になりましたね」
新米の刑事はコーヒーを飲みながら軽く笑った。しかしその上司は険悪な顔を崩さなかった。
「馬鹿な事を言うな。既に7人も殺されている。これは一大事でしかない」
何より彼ら警察を悩ませていたのは殺害数の多さ以外にもあった。被害者は全員身体に大きな穴を空けられて殺されているのである。そして鋭い鉤爪で身体を削られた跡も残っているのだった。
「何とも不可解だとは思わないかね。新人君」
「何がです?」
「犯人は銃弾も剣も使わず次々に殺害している。近接武器で殺したにしても証拠が残るはずだ」
「言われてみればそうですね」
「しかし今回の事件の場合、死体解剖等を行っても全くそういった証拠が出てこないのだ」
「確かに謎だ」
新人はそう言ってコーヒーを啜った。今までこの街では有り得ない数の連続殺人に上司は頭を悩ませていた。
「部長!死体解剖の結果、新しい証拠が見つかりました」
「何!?今すぐ向かうぞ新人君!」
「了解っす!」
向かった先で彼らが目撃したのは更に事を混沌とさせる結果だった。
「確かに殺されたのは事実ですが、死体に付着していたこの毛、今までに自然界で確認されていないものなんです」
「何だって!?」
「ぶ、部長。落ち着いてください」
「断定はできませんが恐らく何か得体の知れないものが──」
「もういい、分かった。我々も捜査を続けよう。いいな!新人君」
「は、はい!」
こうして捜査は難航していたが、その間にも殺傷事件が続いていた。にも関わらず犯人は写真1枚すら姿形も捉えられていないのだった。
「おかしい。ここまで大事になれば絶対に何か掴めるはずだが」
「部長、焦る気持ちも分かりますが、ここは気分を落ち着けましょう」
「馬鹿言え、今この瞬間すらどこかで殺人が行われてるのかもしれないのだぞ。おちおち休む事もできん」
「ですから、ちょっと近くのコンビニにでも行ってリラックスすべきですよ。気張りすぎても大切な時に動けませんよ」
上司はそれもそうかといった表情で新人を連れて外に出た。既に日は落ちているが、街の明るさより暗さの方が強かった。
「こっちの方が近いんでこの抜け道を使いましょう」
「いや待て、わざわざこんな狭い所に行くのかね」
「急がば回れですよ。さぁ行きましょう」
上司は新人の後ろを早歩きした。細い道を通り右の角を曲がった──のだが、肝心の新人の姿は無い。
「おい、新人君。からかうのはよしなさい」
上司は少し緊張した面持ちで辺りを見回した。暗くて確認しにくいものの、近くに新しい血痕が落ちているのを確認し、青冷めた。
「まさか.......!新人君!!」
上司は咄嗟に銃を構え、壁と背中を合わせた。臨戦態勢のまま全く謎の存在と対峙しようとする彼の心の底には不安が見え隠れしていた。
「これは復讐だ」
何処からともなく得体の知れない声が反響した。
「お前がこの事件の犯人か。何が目的で人を殺し回っている?」
少しの沈黙が流れた後、それは答えた。
「この世界は醜く汚いものだ。誰かが排除しなければ永遠に変わらない」
「そうかな。ならやってみるがいい!私はそう言って自分を正当化する人物を何人も見てきた。だから貴様も.......!」
それは大きな声で高笑いした。路地裏の闇に絶対的な悪は姿を隠していた。
「馬鹿だねぇ、既にこちとら人界の存在ではないんだがな」
「"自然界に存在しない"──まさか!?」
「後悔しろ」
その上司が目視で認識する間もなくその首は掻っ切られた。ボタボタと赤黒い血がその場に流れる。
「ただ世界を壊すだけじゃ面白くない。全てを全力で痛めつけてやる。」
彼は上司が背中合わせにしていた壁から姿を現した。全身が黄色と緑色の体毛で覆われ腕は黒く肥大化し見るもおぞましい化け物へと姿を変えていたのだ。
「こいつらは復讐には関係ないが──邪魔だったから仕方ないな」
こうしてその未知の化け物はまた大きく高笑いしながら2人の死体と共に闇に消えていった。
人としての原型は無いが、悲しき運命を負った者の隈だけは変わらずその目元に残り続けるのだった。