ジェラルド・モーガンには女難の相がある
8/16 誤字脱字の訂正しました。
ご報告くださりありがとうございました。
赤の花弁を鮮やかな黄色で波打つように縁取ったグロリオサの花が庭一面に咲いている。
隣国からの留学生、モーガン公爵家の次男ジェラルドはパレット侯爵家の中庭を横切り、テラスへと案内されていた。
その足取りは重い。
昨日の夜会での出来事が尾を引いているせいだ。
本日は誰とも会わずに過ごしたかったが約束していた茶会を断ることはできなかった。
テラスが見えてきた。
屋敷の女主人・サロメ夫人が白いチェアに腰かけて微笑んでいる。その前には令嬢がいる。ジェラルドには背を向けて座っているが後姿に奇妙な胸騒ぎがした。危機回避能力というものだが、ここで踵を返すわけにもいかない。躊躇っているうちにサロメ夫人が気づいて声をかけてくる。
「まぁ、ジェリー。待っていたのよ。わたくしがそちらに旅行して以来ですから……三年振りね。ずいぶん立派な青年になって」
「お久しぶりです、サロメ夫人。お元気そうで何よりです」
ジェラルドの母はこの国の出身で、隣国に嫁ぐ前も嫁いでからもサロメとは交流がある。今回の留学が決まったときも、会いに行くよう厳命されていた。男勝りとまでは言いすぎだが、さっぱりとした気質のサロメと話すのは案外嫌いではない。何故この剛毅な夫人が、あの弱々しい母と親しいのか不思議だった。
だが、今は気もそぞろ。原因は先客の令嬢である。
チラチラと盗み見るよう様子を窺う。
結い上げた艶やかなブロンドの髪は美しく、エメラルドの宝石が散りばめられた髪飾りの細工が陽の光を反射して輝いている。ドレスは白の生地に濃い緑のシルク糸で刺繍がされている。ともすれば子どもっぽい印象になりそうだが、彼女の落ち着いた雰囲気が上品さを醸しだしていた。
ジェラルドの視線に気づいて令嬢は優雅な動作で振り返った。
目が合う。髪飾りと揃いのエメラルドの瞳がにっこりと細められ、くったくない笑みが浮かぶ。大輪の花が咲いたような溌溂とした笑顔は、きっと初対面なら好印象ばかりを抱いたはずだ。いや、一瞬であれジュラルドは初対面のような錯覚に陥った。彼女にとってもアレは面白い出来事ではない。互いに口外せず知らぬ顔ではじめからやり直せるのではないか。狡い願いを抱いたが。
「ごきげんよう。ジェラルド様。昨夜ぶりですわね」
彼女の言葉に、ジェラルドの望みは崩れ去った。
そして、思い出されるのは昨日の夜会での一幕である。
◇◆◇
「こんなところにいたのね、ドリー」
某伯爵家主催の夜会。
ジェラルドは貴族のしがらみに辟易し、国を出れば多少の自由があるだろうと留学してきた身で、世話になっている公爵家が開いてくれた歓迎会以降は華やかな場所を避けてきた。だが、あまり断ってばかりでも角が立つ。小規模と聞いたのでこの夜会に出席することにしたのである。
一通りの挨拶を終え、一人になれる場所を探していた。
薄暗闇の中、月の光を頼りにテラスへと出る――が、先客がいた。
男が一人と女が二人。男女が一人の女と対面するような立ち位置だ。
「あら、セシリアとライオネス様。何か御用かしら?」
「一人で退屈していると思って探していたのよ」
「何故、わたくしが一人だと貴方たちが探すの?」
「いやだわ。そんな棘のある言い方」
立ち聞きなどはしたない。ジェラルドは去ろうとしたが……うん? と思わず足を止めた。
セシリアという女は、ドリーという女の発言を「棘のある言い方」と非難したが、ジェラルドにはセシリアの方こそ棘があると感じられたからだ。
というのも、夜会において「一人で退屈する」とはエスコートしてくれる相手がいない、壁の花を意味する。つまりセシリアはドリーを「モテなくて退屈しているのでしょう」と告げたのである。そんなことを面と向かって言われていい気分がする者などいない。短気な人間なら怒りを露わにする。だが、ドリーは丁寧に問いかけただけである。それなのに、何故、失言を浴びせたセシリアの方がドリーを責めるのか。ジェラルドが疑問に思うのも無理ない。
おまけに、共にいる男――ライオネスも、
「そうだよ。君を心配して探したセシリアにその態度はどうかと思うよ」とドリーを非難するものだから、ジェラルドは信じられないと驚きを隠せなかった。
(このセシリアとライオネスという男女は余程愚鈍か、心の機微に疎いのだろうか?)
呆気にとられているうちに会話は進んでいく。
「本当にわからないから聞いているだけなのだけれど……そんな風に言われるなんてわたくしも心外だわ」
ドリーの返答にジェラルドも思わず頷く。だが、セシリアは何故かまた肩を落とし傷ついたという動作をする。薄闇の中でもわかるくらい大仰な動きだ。
「そんなの友人であり従姉妹であるのだから心配するのは当然でしょう?」
「そうだぞ、ドリー。君、さっきから失礼すぎやしないか」
心配? そうだろうか。傷つけられた、ひどいとドリーを責めているだけである。
そう考えるのはジェラルドだけではないようで、今度はドリーがわかりやすく肩を竦めてみせた。
「そう。けれど心配はご無用よ。話がそれだけなら失礼していいかしら?」と告げ歩き出した。もう関わってくれるなという意思表示だ。
「ま、待って……!」
セシリアが慌てて引き留める。
ドリーは律儀に足を止めたが、二人はもごもごと口籠るだけ。
「言いたいことがあるのなら、おっしゃって? わたくしも暇ではなくてよ?」
仕方なくドリーが促せば、
「ひどいわ、そんな言い方」
とセシリアはますます被害者ぶって言った。
彼女の肩をライオネスが優しく撫でドリーを睨みつける。
(意味が分からないな)
呼び止めておきながら用件を言わないので痺れを切らしただけだろう。
ジェラルドはやはりドリーがひどいと言われる振る舞いをしているようには思えない。百歩譲って「暇ではない」という言い方が冷たく感じたとして、ドリーはセシリアに心配してもらう必要はないと言っている。相手のためを思っているというならそれを尊重するべきだ。だが、セシリアはそうはしなかった。呼び止めたのは自らのエゴ。ドリーが多少冷たく突き放したとて、一度は丁寧に断っている以上、セシリアの自業自得。そうであるのに被害者面をする。
一体、何をしたいのか。
彼女たちの関係は?
疑問は、すぐさま解決された。
「……ドリーらしくないわね。……ひょっとして、まだ私たちのことを怒っているのかしら?」
セシリアが実に悲しそうに呟けば、
「そうなのかい? ……君との婚約はあくまでも予定で正式に発表する前だったし、僕はセシリアを愛してしまったんだ。君だってそれをわかってくれたから、僕らの婚約披露パーティーに出席してくれたのだろう? あの時にすべてのわだかまりは水に流してくれたんじゃなかったのか? それなのに今になってセシリアに辛く当たるなんてあんまりだよ」
「いいのよ、ライオネス様。ドリーを悪く言わないであげて? だってこれは仕方のないこと。昔からドリーは可愛げがないと言われていたの。ドリーの伯父様でさえ、実の娘よりも姪である私を可愛がってくださっていたのよ。伯父様は本当にいつも私に目をかけてくださり、ドレスや装飾品の贈り物もたくさんいただいたわ……ご自宅に宝石商をお呼びになったときなど私も招かれ、ドリーではなく私に先に選ぶようにと言ってくださったわね。貴方に申し訳ないと思ったけれど、伯父様の好意を無下にすることもできず、せめて喜んでいただこうと伯父様の瞳の色であるエメラルドを選ぶとそれはそれは褒めてくださったわ。今回の私たちの婚約も、伯父様は喜んでくださったの。ドリーより私と結婚した方がライオネス様も幸せだともおっしゃってくださったわ。でも、そのせいでドリーのプライドを傷つけてしまったのよね。昔から殿方の愛を得ることができないとずっと悩んでいた貴方に、ますます辛い思いをさせて本当に申し訳なく思っているわ。でも、伯父様はけして貴方を嫌っているわけではないのよ。ライオネス様だってそう。ただ貴方より私が選ばれてしまっただけ。それを受け入れるのは難しいことよね。わかるわ。みんなの前では平静を装っても、人がいないところでは当たりたくなるのは仕方ないことよ。でもこれだけはわかって? 貴方は私の一番の親友よ。貴方がどうであってもその気持ちは変わらないわ」
「セシリア、なんて心が広いんだ。君が選ばれたのは、君に責任があるわけではなく、ただ君の方が魅力的だっただけなのに、それを妬み傷つけることを言ったドリーを許し、傷が癒えるまで待ってあげようなんて。……ドリー、君もいつまでもふてくされていないで少しはセシリアを見習い、前を向かなきゃいけないよ。僕だって君には申し訳ないことをしたとは思っているけれど、愛する気持ちを偽ることはできないんだ。だから、お願いだよ、どうか僕のことは忘れて、しっかりと生きてくれ」
ジェラルドは眩暈を覚えるほどの衝撃を受けた。
話をまとめるとドリーと婚約予定だったライオネスをセシリアが奪った。正式な婚約前だったということだがそんなのは建前で略奪だ。
『何故、わたくしが一人だと貴方たちが探すの?』
先程のドリーの問いかけを思い出してジェラルドはますます頭痛がした。
本当に、何故、彼らがドリーを探すのか。
元婚約者とそれを奪った女――どちらにも会いたくはないし、両方が揃っているなら言わずもがな。その二人がドリーを探しにきた。理由は「一人で退屈していると思ったから」。いやはや、ドリーが一人になった原因が何を言うのか。
第一、ドリーを探してどうする気なのか謎だ。私たちのせいで一人ぽっちにさせてごめんなさいとでも謝罪するとでもいうのか。それは謝罪ではなく傷口をえぐる行為である。
(ああ、つまり、そういうことか……)
しかし、おかげでセシリアとライオネスが何をしたいかも見えてきた。
時代は移ろぎ、職業婦人という存在が出てきた近年でも、貴族社会ではまだまだいかに自分の家柄よりも上級の貴族に嫁入りできるかがステータスとなる。おそらく、ライオネスという男の身分はこの三人の中で一番上、そしてセシリアはライオネスに選ばれたことでドリーより上に立ったと思い自尊心が満たされ、それを見せつけて悔しがらせたいのだ。
セシリアの行為を窘めないどころか一緒になって煽っているライオネスも性質が悪い。
女同士のキャットファイトに疎い男もいる。恋は盲目、愛する婚約者の発言を信じきり言葉の裏側を読み取らず、被害者ぶればそのまま信じてしまえる阿呆。しかし、ここまで失礼なセシリアの弁を是とできるものか。セシリアの意図に便乗しドリーを貶めようとしている。そう考える方が自然だ。二人して弱った人間に追い打ちをかける行為を楽しでいる。まったく呆れるほどの品性下劣ぶりである。
だが、誤算は期待する反応をドリーから得られなかったこと。彼女は二人の言動に疑問を呈しただけで、あっさり場を去ろうとした。これでは面白くない。慌てて引き留めたが、次なるうまい手が見つけられず、極めて平静なドリーを平時とは違うと言い、自分たちは心優しき善人で、その気持ちを無下にするドリーは卑屈である、それではいけないから前を向いて生きるよう諭すことで悦に入った。私たちに嫉妬しているのよね? と告げ優越と愉悦を覚えるなど傍から見れば恥ずかしい茶番だが、当人たちは満足しているのだろう。
(なんと浅ましいのか!)
ジェラルドは怒りで拳を握りしめる。真っ白になっていく拳を震わせながら、浮かんでくるのは、幼少の頃の記憶である。
◇
ジェラルドの両親は貴族によくある政治的判断で結ばれた。
隣国オーランドの前国王の第二王子レオナルド・モーガン(現モーガン公爵)と、ジェラルドが現在滞在しているアスティアの前国王の末の娘にあたるマリア・ビータースは、両国の和平条約の証に婚姻し、二男一女を設けた。その次男がジェラルドになる。
完全な政略結婚だがレオナルドは美丈夫でマリアは一目見て恋に落ちた。
一方のレオナルドは初心な姫君では物足りないとジェラルドが四歳になったとき突然に愛妾を囲い屋敷の離れに住まわせた。
居城内で鉢合わせしないよう配慮はあったが、この愛妾というのが食わせもので、マリアがお茶をしているところに呼ばれもしないのにやってきて、
「同じ男性を愛するもの同士、仲良くしたいと思いまして」
と言ってくる。
愛妾は貧しい子爵家の娘で、後ろ盾のない自分がどうすれば権力を握り、長く居続けられるかを考えた。正妻のマリアに近づいたのもその一つ。不躾で到底賢い方法とは言えないが、どんな人物か直接見極めようとした。
こういう小悪党タイプは嗅覚、危機回避能力が優れているので、もしこの時にマリアが、
「まぁ、面白いことをおっしゃる方ね。隣国の王族に名を連ねていたわたくしと、殿下の慈悲に縋るよりないお前とが対等であるかのように聞こえるわ。ふふ、わたくし、可愛らしい方は大好き、でも……無礼な馬鹿は嫌いよ。ねぇ、お前はどちらかしら?」
とこの程度でも言えていれば愛妾はマリアには逆らわないようにしただろう。しかし、残念なことに王族として蝶よ花よと大切に育てられたマリアは悪意を向けられたことがなく、オロオロとするばかだった。
気弱なものは付け込まれる。
言い返されないのをいいことに愛妾は増長し、いかに自分が愛されているかを頻繁に話にくるようになった。自分の言葉の一つ一つに傷つくマリアの姿は加虐心を煽り、苦労知らずのお嬢様に対するやっかみもあって、憂さ晴らしに丁度良かったのだろう。
マリアは愛する夫が別の女に熱を上げ、その女から自慢される日々に疲弊していく。
その姿に、幼いながらジェラルドは心を痛め、愛妾を憎悪した。一度はマリアに代わり「母を虐めるな」と言ってやろうかとしたが、気づいたマリアに咎められる始末である。
「貴方は真っ直ぐね。その真っ直ぐさは素晴らしいものではあるけれど、同時にとても危ういものでもあるわ」
マリアは微笑みながらジェラルドを諭す。
だが当のジェラルドは少しも納得できなかった。
何故、言い返さないのか。
やられっぱなしで、反論をしないから図に乗るのだ。
実際、マリアがその気になれば排除することなど容易い。離縁して国に帰るとでも言えばいい。それは即ち和平条約の破棄を意味し開戦の火種になりかねない。無論、自身のためだけに多くの人の命を危険にさらす真似など易々とできるはずなく、脅しと悟られるだろうが、マリアの祖国アスティアの方が国力は上、万に一つとはいえそのような可能性は潰す必要がある――つまり原因となる愛妾を父・レオナルドは追い出さざるをえない。そうすれば平穏が訪れる。
手立てはあるのに行使しない母にジェラルドは不満も抱きはじめた。いつまでもか弱い乙女でい続けるのではなく、必要なら立ち向かうべきだ。身に降る火の粉を払わねば、やがて大惨事になってしまう。
とはいえ幸い愛妾の件はそれからほどなく解決したが。
日に日にやつれていく姿はレオナルドの目にもつき心配事があるのかと問われたのだ。だが、最初マリアは愛妾からの嫌がらせを訴えることはしなかった。心労で倒れそうになっても人を非難できない気弱な人間なのである。代わりに訴えたのがジェラルドの兄・アルベルトや、使用人たちだ。
子であるアルベルトはともかく、使用人が主に物申すなど本来はありえない。職を失い、下手をすれば無礼と手討ちにされるのを覚悟でマリアのために立ち上がってくれた。それだけマリアに人望があったともいえるが、愛妾の評判が悪すぎたというのもある。あんな女にこれ以上顎で使われるなど我慢ならないと鬱憤が限界にきていた。
恋に溺れているとはいえ、レオナルドは状況を冷静に判断する理性は残っていたようで、訴えを聞き入れ調査をしてくれた。結果、愛妾の本性を目の当たりにして百年の恋も覚めたとばかりに屋敷から追い出しマリアへ謝罪をした。以降、二人は以前よりも睦まじい夫婦となり妹も生まれた。愛妾の件は、マリアほどではないが箱入り息子だったレオナルドの若気の至り、悪い女に騙されたのだと今となっては笑い話である。
元の鞘、うまい具合にすべてが収まった――しかし、ジェラルドの中では苦い思いが残った。結局、マリアは愛妾へ直接反撃をしたわけではなく、周囲の人々に助けられただけ。理不尽に傷つけられたのに、どうして正々堂々愛妾と対峙し糾弾しないのか。それに、愛妾を追い出しても、レオナルドがマリアをないがしろにして愛妾を贔屓していた事実が消えるわけではない。それなのに、あっさりとレオナルドを許し受け入れたことも不満だ。――両親の仲がいいのはジェラルドとて嬉しいが、怒りも悲しみも傷ついた心も飲み込み、他人が解決してくれることに甘やかされるばかりのマリアの弱さや、自身が立てた波風に謝罪したとはいえ何事もなかったようにマリアの元へ戻ったレオナルドの厚顔無恥さにジェラルドは憤りを抱いた。
だが、このような苛立ちを感じているのはジェラルドだけで、兄のアルベルトは、
「お前は子どもすぎるな。もう少し大人にならなければ貴族社会ではやっていけない」
と物知り顔で言う。
子どもとか大人とかそういう問題ではない。これが貴族社会の在り方というのならそんなものくそくらえだ! と怒りがいつまでも消えず、両親や貴族社会と距離をとろうとこの留学に赴いたのだ。
もっとも、そのための費用が捻出できたのも公爵家の子息だからであり、ご大層なことを言いつつもジェラルドもまた甘やかされた坊ちゃんといえるのだが……そこはご愛嬌である。
◇
「話したいことがそれだけでしたら、もうよろしいかしら? そろそろ迎えの馬車がきますの」
鬱屈とした記憶に浸っていたジェラルドの意識を引っ張り戻すよう声が聞こえた。
ドリーは二人の発言に一切反論せず立ち去ろうとしている。ごく普通の発言さえ歪曲して責めてくるのだから、言い返したらどんな揚げ足をとってくるかわからない。妥当な選択だ。だが、このドリーの態度に、積年の、ジェラルドの悔しさが爆発し、
「君、このまま言われっぱなしにしておくつもりか!」
と勢い込んで物陰から飛び出した。
突如、死角から現れたジェラルドに三人の動きが止まる。
「誰だ! 盗み聞きなど無礼だぞ」
ライオネスが非難の声を上げた。
「これは失礼した。私は……ジェラルド・モーガンという」
ジェラルドは一瞬言葉に詰まった。
普段であれば仲介者や付き添いの者が紹介してくれるため自ら名乗ることはない。このような場合、爵位がわかるよう告げるべきか、しかしそれは無粋である気がする……と逡巡が奇妙な間を生んだせいだ。
「まぁ、ジェラルド・モーガン様! お初にお目にかかります。わたくしはフランシス・ルメールの娘ドリスと申します。……こちらはマリアーノ伯爵の御子息ライオネス様と、ローレン子爵の御令嬢セシリア様ですわ。以後、お見知りおきを」
不審そうにしていたドリー……ドリス・ルメールは名前だけでジェラルドの正体を理解し真っ先に綺麗なカーテシーをした。
セシリアたちは状況を呑み込めず、せっかくドリスが紹介をしてくれたというのに反応できずにいる。
「貴方たち、何をしていますの。こちらは隣国のモーガン公爵家の御子息ジェラルド様でしてよ」
それを聞いてようやく礼をした。
二人が気の利く人間なら、改めてドリスの身分がわかるよう口添えをしていただろうが、それはない。だが、ジェラルドはドリーが伯爵以上で三人の中では一番身分が上であることは理解した。その場に居合わせた最も身分が高い者から名乗るのは貴族社会の常識だ。ドリーは二人を紹介するより先に自分のことを告げたからである。
ライオネスが一番上の身分だと思っていたジェラルドにはそれが意外だった。
「畏まらなくて構わない。それよりも……失礼とは思ったが話を聞いてしまってね。彼らは君を侮辱して楽しんでいるように見受けられる。このまま言わせっぱなしでよろしいのか? 反論があるのならば私が立ち合おう」
ジェラルドはセシリアとライオネスに非難の眼差しを向けた。
隣国とはいえ公爵家の子息に悪い印象を与えるのはまずいと思ったのか、慌てふためいてセシリアが口を開く。
「誤解です! そのようなつもりは、」
「おや、私が嘘をついていると言うのかい?」
「いえ、そんなつもりは……」
「そればかりだね。君がどのようなつもりか知らないが誤解されたくないならよく考えてから言うことだ。そもそも、発言を許した覚えはない。私はドリス嬢に聞いている」
畏まらなくていいと告げた口で、不敬であると叱責すなど矛盾だが、あくまでドリスの味方であると立場を掲示するにはちょうど良かった。
しかし――
「ジェラルド様には大変見苦しいものをお見せしてしまい申し訳なく思いますわ。されど、わたくしは言いたいことなどございません」
「言い返す必要はないと? それは彼らの発言が事実であると認めることになるがよろしいのか。貴方にとって不名誉ではないのか」
好機を作っても言い返さないとはいかがなものか。
ドリスも母マリアと同類で、ただ耐えるだけの弱い人物であるのか。
憎むべきはライオネスとセシリアであるはずが、ジェラルドはドリスに腹が立った。
その空気の変化を敏感に察したようにドリスは少しだけ微笑んだ。
「ジェラルド様は大変真っ直ぐな方でいらっしゃいますのね」
「どういう意味かな?」
「言葉の通りですわ。ジェラルド様は真っ直ぐに間違っているものは間違っていると言い返すこと、身に降る火の粉は払わねばならないと、そのようにお考えなのでしょう? 確かにそれは大切なことですわ。しかしながら、この場合は当てはまりませんの」
「当てはまらない?」
「ええ」
うっとりと笑うドリスを月明かりがキラキラと照らし、浮かんだ微笑みが妖艶に映った。
美しいのに壮絶――ジェラルドの背中に冷たいものが流れる。
「だってそうではありませんか? お聞きになっていらしたならお分かりかと思いますが、この者らは自身を弱者の立場に置き、わたくしが辛辣な態度を取ったと被害者ぶるしかできないのです。優越を感じるためにしている行為であるのに、自らを下に置くという矛盾にも気づかずにそれで悦に入る根っからの敗者ですのよ。初めから負けている者に、これ以上、わたくしが何かする必要がありますかしら? それはいじめになってしまいます。わたくしそこまで非道になれませんわ」
ぞっとするほど優しい声音で告げられたそれは、セシリアとライオネスがドリスに向けるものと、ドリスがセシリアとライオネスに向けるものがまったく違っていることをさめざめと浮き彫りにした。
それがあまりにも艶やかで、第三者であるはずのジェラルドの胸にまで氷柱で貫いたような痛みが走るほどだった。
「だ、だが、彼らはそんなこと気づいてもいないだろう。ならば、君が言い返さないのは図星だからだと馬鹿にし続ける。真意が伝わっていないなら少なくとも彼らにとって君は惨めな令嬢と思われる。それでいいのか? 悔しくないのか?」
ジェラルドも、もうやめておけばよいのに割り込んだ手前、簡単に頷くわけにもいかずになんとかそう返したが。
「……左様ですわね。何故わたくしが言い返さないのか、理解もできていないのでしょう。ですから今日に限らず何度も何度もわたくしにこのような態度をとってくるのです。おめでたい方々って幸せね。けれど、それでわたくしの名誉が傷つくわけではありませんもの。大勢の前で言われればわたくしも立ち向かわねばなりませんが、この者らが言ってくるのはわたくしが一人きりのときだけ。きっとうっすらと自身の行為がはしたないと理解しているので人前では憚られるのでしょうね。その程度の思考は働くようですが、それでもやめられない、哀れな者たちなのです。ですから、奉仕活動と思って放っております。これで満足するなら好きになさったらいいの。わたくしも良いことができて嬉しいわ」
淀みなく淡々と告げる姿には圧倒的な存在感があった。
ジェラルドは義憤に駆られて乗り込んできたが、ドリスの話にほとほと困惑するしかない。嫌味に言い返さないのは気弱だからだと信じていたが、蓋を開けてみれば気弱どころか、強かな精神を持った令嬢だったとは想定外だ。ドリスはセシリアとライオネスを根っからの敗者と言ったが、ならばドリスは生まれながらの勝者なのだろう。
自分はとんでもないことをしてしまったのではないか……ジェラルドの心臓が早鐘を打つ。それを裏付けるようにドリスは続けた。
「しかしながら、わたくしが曖昧にしておりましたせいでジェラルド様にご心配おかけしてしまいましたこと、申し訳なく思いますの。また、このようなことがあっても困りますし、やはりきちんと、この勘違いさんたちにわからせることも大事ですわね」
涼やかな宣言。それは、これまで言わずにいたこと……言わずにいてあげたことを言うという意味だ。一度、口火を切ってしまったのならとことんやる。ドリスのエメラルドの瞳が月明かりの下でキラリと揺れた。
ゴクリ、とジェラルドの喉が鳴る。
ドリスは優雅に身を翻し、セシリアとライオネスに向き直った。
「な、何……」
セシリアの声は震えている。隣のライオネスもひどく静かである。
悔しがっているとばかり思っていた相手が実は少しも傷ついてはおらず、ただ呆れ、取り合う価値もないと放置されていたという事実をすぐには受けとめられない。だが、まだこれでは終わらない。もっと、きちんと、自分たちが誰と張り合おうとしていたのか、いかにこれまで許容されていたのか、それを理解するときがきた。
ドリスは二人を交互に見やったあと、伽話でもするようなゆったりとした柔らかい声で話し始めた。
「貴方、先程、ご自分の方がわたくしの父に可愛がられているとおっしゃっていたけれど、どうしたらそのような妄想を真実と思えるのかしら。実の娘が可愛くない親がどこにいて? そもそもドレスや宝石を贈ったのも、貴方のお母様、つまりは父の実妹であるシャーロット叔母様が、我が家主催の夜会にどうしても貴方を参加させたいと頼み込んできたのが発端ですのよ。その際に、必要なドレスや装飾品まで強請られましたの。本来は子爵の娘が伯爵家主催の夜会に参加というのは難しいもの。ですが、叔母様は夜会で貴方が殿方に見初められたならば、父の力にもなるからと強引に約束を取り付けましたの。約束した以上は責任が伴います。きちんとした格好をしていただかなければ我が家の沽券に関わりますから上質なものをご用意させていただきました。それに味をしめて、叔母様は今度は宝石商や仕立て屋が来ているときに我が家を訪れ強請るようになったのですわ。それを招かれたなんて、とんでもないことよ。先に選ばせたのも、早く帰そうとしただけでしてよ? それなのに貴方ときたら、わたくしの瞳色であるエメラルドを選ぶのですもの。驚きましてよ? そうした結果、ライオネス様との婚約というのですから、流石に人のよい父も呆れておりますわ。その証拠に、貴方がたの婚約パーティーに父はいかなかったでしょう? ですけれど、それだと我が家の怒りを買っていると周知することにもなりますから、貴方がたのお父様が出席してくれるよう頼みにいらしたのよ。それでも父は頷かず、お二人は膝をついてまで懇願なされたの。ねぇ、おわかりになる? 貴族が膝をついて懇請するという屈辱。でもそれは当然のこと。わたくしとライオネス様との婚約はライオネス様のお父様からの熱心な申し込みによるものですから。マリアーノ家は伯爵を本家筋とする家柄、対する我がルメール家は侯爵家を本流とする家柄。加えて、わたくしの母も侯爵家の出身。同じ伯爵家といえ大きな違いがありますわ。ですが、領地が近く、わたくしとライオネス様は幼い頃から一緒に過ごしてきた縁もあり、父はこの婚約を受け入れるに至ったのです。本来ならばわたくしをもっと地位の高い殿方の元へ嫁がせたかったのでしょうが、義理を重んじたのですわ。そうであるのに、貴方がたはこの婚約を覆した。しかも、ご自分たちのお父様にではなく、わたくしの父に最初に告げにきたというのだから驚きでしてよ? きっとご自分の親に言えば反対されると思い、一番力のある父を味方につければいいと考えたのでしょうね。娘よりも可愛い姪の頼みなら聞いてくれると信じていたならその行動も納得ですわ。そして、希望通り父は当然二つ返事でお祝いし、わたくしとライオネス様との婚約はなかったものとした。けれど、それは貴方がたの考えるような理由からではありませんの。わたくしのために喜ばれただけでしてよ。だって、この婚約にメリットがあるのはマリアーノ家であり、わたくしたちではないのですもの。幸いまだ正式な発表前でしたから私の名誉に傷がつくこともありませんし、これでわたくしを父が認める殿方に嫁がせることが可能になったのですから、貴方がたの婚約には大賛成されるのは無理ありません。とはいえ、約束を反故にし、わたくしをないがしろにしたことは到底許せるはずないと父はマリアーノ家とローレン家との交流を断つおつりでしたの。家と家を結ぶための婚約を放棄したのですもの当然ですわね。貴方がたは、わたくしとセシリアが従姉妹で血縁関係にあるのだから、婚約者が変わったくらいで何の問題もないと軽く考えていたのでしょうけれど。ええ、確か数年前にそのような事件がありましたものね……侯爵家同士の婚約で、長子同士で交わされるはずが、正式な発表時には婚約相手が次女になった、でしたかしら? けれど姉妹と、従姉妹ではまったく話が違いましてよ? それぐらいわからないものかしら。……本気で父がわたくしよりセシリアを可愛がっていると思っていらしたのね。今後は、自惚れるのもたいがいになさった方がよろしくてよ? まぁ、ともかく怒りを鎮めるために貴方がたのお父様は膝を折られたのよ。それでも怒りがおさまらない父を仲裁したのがわたくしなの。だってあまりにも可哀想でしたもの。出来の悪い子を持つ親の悲哀に同情してしまいましたわ。父も、当人のわたくしが許すというのなら多少寛容さを取り戻してくださいましたわ。ただし、パーティーには出ない。代わりにわたくしが父の代理として出ることにしましたの。もちろんそれは、父が貴方がたの不義理に怒っていること、わたくしはこだわりを持っていないことを示すためでもありましたのよ。残念ながら、貴方がたはそんな事情もご理解していなかったようでしたけれど。ご両親は言い聞かせていないのかしら? と不思議に思いましたが、言ったところで理解できないと見限られているのね。お可哀想に。貴方がたお二人は、わたくしにばかり気を取られていないでもう少し広い視野を持って世間のこと、家のこと、何が起きているのかを考える力を身に着けた方がよろしいのではないかしら。あまりにも迂闊すぎて心配になりましてよ? ……ああ、あと、これだけは言っておかなくてはいけないわ。ライオネス様――わたくしが貴方を好きだなんてどういう誤解から言い出したのか理解に苦しむ発言よ。そんな馬鹿なこと二度とおっしゃらないでね。昔から知るが故に、不出来な弟程度の情けはありましたけれど、貴方を男性として思っていたことなど一度もなくてよ? モテないからと妄想するのは構いませんがわたくしを巻き込まないでいただけて? それから先程も言いましたけれど、ライオネス様との婚約がなくなったおかげで、父の眼鏡に適う男性との婚約を結ぶことが可能になりましたの。今、候補の男性を選定しているところですわ。そのうち、わたくしの婚約発表もあると思います。楽しみにしていらして? それにしてもセシリア、貴方ってばずいぶん早計な真似をしましたわね。わたくしに対抗意識を抱いているのは知っておりましたけれど、もしわたくしとライオネス様の婚約が調えば、父は私の代わりに貴方に父の眼鏡に適う殿方を探したと思いますの。そうすれば、本当にわたくしに自慢できましたのに、残念ね。でも、愛し合ってしまったのなら仕方ありませんわ。わたくしに嫌がらせをするためにライオネス様に近づいたわけではないんですものね。ふふ、二人ともお幸せに」
そこまで言い終えドリスはジェラルドを振り返る。
ジェラルドは意識したわけでもないのに背筋が伸びた。何を言われるのか。せっかく何も言わずに去る予定が、こんな状況になった責任を咎められるのか。だが、ドリスの口から告げられたのはまったく別のことだった。
「これくらいでご満足していただけまして?」
そうである。ジェラルドはドリスに同情する気持ちもあったが、それ以上に言われっぱなしで反論しないドリスに対して憤慨し、言い返すことを望んでいた。ドリスを少しでも侮ったのがバレている。
「え、あ……」
もし、ここで、満足できないといえば、もっと言うのだろうか……おそらく言うのだろう。ドリスはまだまだ余裕綽々だ。しかし、聞き続ける度量がジェラルドの方にない。故に、返事を待つドリスに返せる言葉は一つ。
「は、い」
ぽつりとつぶやいた声は凍り付いた空気のテラスに頼りなく響いた。
◇◆◇
あのあと、馬車が待っていると従者が迎えに来てドリスは「ではお先に失礼しますわ」と颯爽と去っていった。
残されたジェラルド、セシリア、ライオネスは物も言わず、目も合わせず、誰からともなくすごすごとその場を離れるしかできなかった。
世話になっている公爵家に戻っても、心がざわめいて眠れない。自分は一体何をしたかったのだろう。良かれと思って……いや、ジェラルド自身の鬱憤を晴らしたくて身体が動いてしまったが、何もするべきではなかったのではないか。
ジェラルドは幼い頃から理不尽にはきちんと反撃するべきだと信じてきた。そうでなければ相手は図に乗ってくる。弱いままでいてはいけない。その考えはけして間違いではない。間違いではないが、反撃方法として真正面から相手に言い返すという手段だけを信じていたのが誤りだった。
『ジェラルド様は大変真っ直ぐな方でいらっしゃいますのね』
ドリスはそう言った。
そう、ジェラルドは真っ直ぐだった。真っ直ぐな愚か者だった。
かつて、ジェラルドの母・マリアからも同じことを言われていたのが思い出された。
『貴方は真っ直ぐね。その真っ直ぐさは素晴らしいものではあるけれど、同時にとても危ういものでもあるわ』
あの時は、言い返せない母の言い訳でしかないと深く考えなかったが……とても危ういという意味が今ならばよくわかった。
理不尽を糾弾し、コテンパンに痛めつけたとして、その先は? 相手が非を認め、謝罪して、一件落着――そう漠然と思い描いていた。だが、現実は甘くはない。あんな風にぶつかり合えば却って溝ができる。今後仲良くするなど難しい。そもそも、ドリスには二人と仲良くする意思などなかっただろうが。
あの、絶対的な力を有したドリスが去ったあとの、敗北の空気を吸い込んでようやく、どうしようもなくなった者たちの憂いを見てやっと、それがけして聡明な手段ではないのだと理解した。
ドリスはますますあの二人の恨みを買っただろう。
今はまだあの二人もドリスに言われたことの衝撃が大きいが日が経てば我に返る。そうなったときもっと確実な揚げ足をとってやろうと禿鷹のように執着を強める。それを回避するために、ドリスはこれまで言い返すことをしなかったのだ。
恥をかかせようとしてきた相手なのだから、こちらも遠慮する必要はないと考えてきたジェラルドに対し、ドリスはその先に重きを置いていた。いかに自分の立場や環境の安寧を保つか。貴族社会というのは存外に狭い。足の引っ張り合いも度々起きる。だからこそ、いかに相手の攻撃を煙に巻くかが大事なのだ。腹が立ったからと挑発に乗れば次はもっと厄介なことになる。何故そんなことにも気づかずにいたのか。
『お前は子どもすぎるな。もう少し大人にならなければ貴族社会ではやっていけない』
次は兄の言葉が蘇った。
ガラガラとジェラルドがこれまで信じていた世界、間違いないと見ていたものが崩れ去っていけば、違った風景が現れる。
母のこともそうだ。弱いとばかりにしか思わず馬鹿にしてきたが、果たしてそうだろうか。母とて、言い返すことなどいくらでもできたが、あえて言い返さなかったのではないか。
あの時点では父は愛妾を贔屓していた。愛妾を言い負かして強者となり、愛妾がか弱い女となれば、父は庇護欲を抱き更に愛妾に傾倒しただろう。或いは、追い出すことに成功できていたとして、愛する女と引き離されたと母は父の恨みを買い、両親の仲は決裂していた。それではいけない。母が望んだのは張り合ってくる愛妾に勝つことではなく、父の心を取り戻すこと。今一度幸せな家族になること。望みが叶うならば、愛妾にうつつを抜かした事実には目を瞑ることにしたのではないか。そのために、母は言い返さなかった。母は弱い女で、愛妾にいじめられていなければならない。隣国から和平のために嫁いできた母をいじめて、万が一国へ帰られでもしたらどう責任を取る気か、そんなこともわからない愚かな女なのか、と愛妾をそのように仕立て上げ、父に見せつける。元より父と母の仲は悪いわけではなかったのだから、憎からず思っている母が必死に耐えている姿を、愛妾の性根の悪さ後先考えない愚かさを突きつければ、どちらを取るかは明白――真実を知り過ちに気づいた父自らが母を選んだというように持っていけば、父は母への思いを新たにし、改めて大事にするようになる。強引に母がそうしたのではなく、父の意思でと思わせるのが大事、とそういうことだったのではないのか。
(ああ、ああ、ああ――――――)
そうであるならば、使用人たちが父に直談判したことも頷ける。使用人が主に物申すなどありえないこと。ましてや公爵家に仕えるほどの者たちだ。絶対にルールは厳守するはず。にもかかわらず破ったのは、彼らの意思だけではなかったから。
皆が、母の用意した舞台の上で、母の思惑の通りの役を演じている中、ジェラルド一人が蚊帳の外で喚き散らしていたのだ。
母を馬鹿にしていたジェラルドだったが、ジェラルドの方こそ愚か者と呆れられていたのだろう。
思えばこの留学も、母が一番後押ししてくれた。世界を見て、視野を広げるようにと。
その真意をジェラルドは理解せず、こちらに来ても同じ過ちを犯した。しかも、今回は喚くだけに留まらず実害を出した。ドリスに迷惑をかけた。彼女の思いを考慮することなく乗り込んで反撃しろと強要した。
(なんて愚かなことを――)
あの結末はジェラルドの責任である。
思い出して、寝具の上で叫びたい衝動に駆られたが寸でのところでこらえる。恥ずかしい、恥ずかしい――だからといって今更どうにかできるはずもない。ならばもう彼女たちの誰とも会いたくないと実に身勝手だがそう思っていた。だが――――。
「ジェリー? どうかしたの?」
ドリスの言葉に固まって動かなくなったジェラルドを見て、サロメが不思議そうな顔をする。
「実は、ジェラルド様とは昨日の夜会でお会いしましたの。その時に少しご挨拶をさせていただきましたが、このお茶会のことは申し上げていなかったので、驚かせてしまったのだと思いますわ」
フォローしてくれたのは他でもないドリスだ。
「あら、そうなの?」
「ええ、まぁ」
サロメが確認するようにジェラルドを見るので慌てて頷き、
「サロメ夫人とドリス嬢がお知り合いとは驚きました」と無難に返す。
「ドリーはわたくしの妹の娘、姪にあたるのよ」
サロメがにっこりと告げる。
昨夜、ドリスが母は侯爵家の出身であると言っていた。
執事が追加のティーセットを持って姿を見せたので、本当はもう帰りたかったがジェラルドも席に着く。
用意されていた椅子は三脚。これで定員。座席を結べば正三角形になる等距離で座っているはずが、ジェラルドは二人に圧迫されているような気がした。
「改めまして、わたくし、ルメール家の長女ドリスと申します。本日、伯母様にジェラルド様をご紹介していただくことになっておりましたの。どうぞお見知りおきを」
「あ、ええ、こちらこそ、よろしく。ドリス嬢」
思えば昨夜、名を告げただけでドリスがジェラルドの身分を言い当てたのは不可思議だ。状況への憤りが勝り流してしまったが、サロメから聞かされていたからなのだろうとようやく理解した。同時にドリスが「父の眼鏡に適う相手を選定している」と言っていたことを思い出した。つまり、これはそういう意図の茶会。サロメに会いに行くよう厳命されていたことを考えれば、母も一枚噛んでいるのだろう。何も知らないジェラルドには完全な騙し討ちである。
ジェラルドは動揺を鎮めるため運ばれてきたばかりのティーカップに手を伸ばす。カップの側面には庭に咲いているのと同じグロリオサの絵付け。実物よりほんの少し色が濃い。
カップを見つめるジェラルドにサロメが言う。
「グロリオサって美しい花でしょう? わたくし大好きなのよ。庭にもこの花を植えているの。そうだわ、ドリー、せっかくだからジェリーに庭を案内してあげて」
日傘をさしたドリスの後ろを、ジェラルドが歩いている。会話もなく静かな空気の中、夏の強い日差しと緊張から汗が滴った。
中庭も中央ほどにきて、ドリスが立ち止まる。
彼女の視線の先、燃え上がるような赤いグロリオサの花弁や葉は庭師によって水が与えられたばかりらしく、生命力を取り戻したように生き生きとして見えた。
「ご存知でしょうか? グロリオサの球根には毒がありますのよ」
美しいだけと侮って喰らえば毒が回る――これはそういう花だとドリスは笑う。サロメを前にしていたときの子どもっぽい純粋な笑顔とは違う妖艶な微笑。
きっと、ドリスはジェラルドに呆れている。こんな男と見合いをさせられて嫌気がさしている。だから、毒を隠すことをしない。
「貴方に、謝らねばなりません」
それが、ジェラルドが言うべき言葉だ。
ドリスと再会して真っ先に浮かんだのは逃げ出したいという感情であったが、いい加減、本当の意味でジェラルドは大人にならなければならない。これはいい機会なのだ。
「まぁ、ジェラルド様は本当に真っ直ぐな方ね」
「……皮肉を言わないでください」
「ふふ、今は心からそう思っておりますよ」
今は――昨日は心からではなかった。
ドリスがくるくると日傘を回すと後ろに伸びた影も揺らぐ。
「少し驚きました。男子三日会わざれば刮目して見よという言葉が異国の地にはあるそうですけれど、昨日とは別人のように思えます。何か思うことがおありになったのね」
「ええ……あんな失態を犯して、今更貴方の前で格好をつけてもしかたありませんので申し上げますが……私は長らく、敵意を向けてくる者にはやり返す事こそ正義であると信じてきたのです。ですが、昨夜の出来事で、自分がいかに考えなしだったか思い知りました。そのせいで貴方にも迷惑をかけることになった。謝って済む問題ではありませんが、申し訳なかった」
「昨夜の件は、ジェラルド様が責任を感じることはありませんわ。きっかけをお作りになったことは否定しませんが、行動すると決めたのはわたくし自身ですもの。わたくしもいい加減、あの二人にはうんざりしておりましたから、ちょうどよかったのですわ」
「しかし、これで彼らはますます貴方を目の敵にするのでは……」
「そうですわね。その可能性は十分にありますわ。何せあの子は十何年とわたくしをライバル視してきたのですもの。しばらくすれば昨夜のことなど忘れて、わたくしに張り合おうとしてくるかもしれません。けれど、それでわたくしが遅れをとると思われますか?」
「確かに」
ジェラルドは苦笑した。
ドリスならば、あの二人が何をしてきても跳ねのけてしまうだろう。力があるからこそ、ジェラルドの望みの通りに反撃して見せたのだ。おかげで、ジェラルドは自身の愚かさを自覚できたのだから感謝するべきである。
そこまで考えて、ふとジェラルドの脳裏に一つの疑惑が浮かんだ。
ひょっとしてドリスにはそういう意図もあったのだろうか。
冷静になってみれば、あのときジェラルドのことも煙に巻いて立ち去ることも可能だったのではないか。しかし、反撃に転じた。あれは、ジェラルドの考えがいかに危ういかを見せつけて、どうなるかを試そうとしたのではないか。ジェラルドが本物の愚かな男か、それともきっかけがあれば気づける見込みがある男か。前者ならば見合いが潰れるよう立ち回らなければならない。ドリスの方は既に今日の見合いについて聞かされていたのだから、昨夜の出来事を試金石にするというのはありえる。
(……いや、いや、いや、いくらなんでも考えすぎか)
この聡明な令嬢なら、まずあんな無礼に割り込んでしまった時点で落第点をつける。試す必要はない。
そうだ。第一、仮に試金石であったなら、反省したジェラルドは及第点ということになる。それは困る。気に入られ、見合いが進められては大変困る。ドリスと婚姻など生涯尻に敷かれるに決まっている。妻に迎えるならば、もっとし大人しい女性がいい。
昨夜の出来事は大失態だが、ドリスがジェラルドの愚かさを知り、ジェラルドがドリスの気の強さを知り、互いに結婚相手としては不適切という結論に至ったのだ――ジェラルドはそう自身を納得させることにして、
「貴方には、無駄な時間を取らせて申し訳ない。こんな愚かな男だとわかっていながら、会わなければならないなどさぞや不愉快だったでしょう」
だからこれで解散にしましょう、という思いを込め告げた。
ドリスならば十分伝わるはずだ。――けれど、ドリスはどこか満足そうにエメラルドの目を細めた。その表情には見覚えがある気がして、ジェラルドの背に冷たいものが走る。
「あら、そのようなことありませんわよ。……でも、そうですわね。本音を申し上げますと、わたくし、今日、ジェラルド様がどのような態度をとられるか興味がありましたのよ。正直、あの話題に触れないよう立ち回るか、挽回するために格好をつけるか、そのような想像をしておりましたから、謝罪をしてくださったのは驚きでしたわ。ご自身の誤りに気付くことも、それを素直に受けとめることも、誰にでもできることではありません。ですから、わたくしとても感動しておりますのよ。本当に心根が真っ直ぐな方でいらっしゃるのね。どうぞ、その真っ直ぐさを失わないでくださいませ」
「……そのようなお世辞など」
「お世辞ではないですわ。あとはもう少し見識を広げて行けばよいのですもの。心の美しさという素養を手に入れることは難しいけれど、考えを学ぶことは本人の意思さえあればそこまで難しいことではありません。ええ、わたくし、そのお手伝いをさせていただくこと、吝かではありませんわ」
「え……」
「それとも、わたくしがお相手ではご不満かしら?」
ドリスは無邪気な笑顔を浮かべた。
尚、オーランド国のジェラルド・モーガン公爵子息とアスティア国のドリス・ルメール伯爵令嬢の婚約が発表されるのはこれより半年後のことである。その間の紆余曲折については、またいつか機会があれば。
読んでくださりありがとうございました。
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