白い手
短編ミステリーです。あとがきにて答え合わせ。
記憶というものの 曖昧さを 僕は愛おしく思うのだ。
あの雨の日の記憶を、時に優しく 時に悲しく 僕は繰り返し思い出す。
そう、あれは雨の日だった。
実はその頃のことを、僕はほとんど覚えていない。とても悲しいことがあったから、忘れてしまったのだろう、と君の両親は言った。
それが本当かどうかはわからないけれど、確かに覚えているのは、
僕の手を引く青白いほどの君の手だ。
夕方から風が強くて、今夜は嵐だろうかと言っていた。その日は誰かの誕生日で、多くの人間が集まっていて 僕はなんだか落ち着かない気持ちでいた。
招待されていたのは知らない人がほとんどで、知っている人たちも何やら忙しげに動いていて、僕のことを気にする人はいなかった。
だから僕は雨の中にも関わらずこっそり屋敷を抜け出して、君のいるあの場所へ向かった。
今ではもう見つけ出せない場所だ。川を渡ってすぐの森の中にあったことは覚えているのだけど、あの頃の目印はもう僕には分からないし、あの場所もすっかり様変わりしているだろう。
僕らの秘密基地は、大きな木のうろから続いている秘密の通路を通った先にあった。
森の中にいくつかあるうちの崖の一つの壁面に出るらしく、洞窟のようになったそこは絶好の隠れ家で、誰かに見つかったことはない。
今になって思い返せば、子供だけでそんな場所にいるのが、どんなに危ないことが分かるけれども、あの頃の僕たちにとって、そこはただ楽園だった。
息苦しいほどの孤独を僕らは抱えていた。それはきっと特別なことではなかったのだろうけど、僕らはそれをどうにかする術を知らなくて、ただふたり身を寄せ合っていた。
崖の壁面から顔を出すと、はるか下に水が流れているのが見えた。ここから飛び降りれば何もかもなかったことになるのだろうかと、そんなことも考えた。
その度に僕を押しとどめたのは、どうしようもなく抱えたままの孤独だった。
宙に投げ出された僕の体は、花びらのようにくるくると舞って、吸い込まれるようにどこかへ消えてしまう。そしてそこに広がるのは、誰もいない暗闇なのだろうと思っていた。
嵐の中を僕は走ってその場所に向かった。
叩きつける雨が痛かった。ずぶ濡れになりながら、何度も転んで膝を擦った。そんなことばかり覚えている。
なぜそんなひどい嵐の中を、僕はあの場所へ向かっていたのか。本当に馬鹿馬鹿しいのだけど、僕はあの時君がそこにいるような気がしたのだ。
僕は洞窟の中で膝を抱えて座っていた。
雨の音はますますひどく、風がごうごうと唸る。時折ぴかりと雷が光って、世界を揺らすような音が耳をつんざく。
僕はもうこの孤独にうんざりしていた。
多分君はそこにいたんだろう。
一緒に飛ぼうかと僕が言うと、君は黙って頷いた。
僕らは崖のギリギリに立って下を覗いた。
ひどい雨で、数メートル先もよく見えない。耳を澄ますと、ただ地響きのように、流れる水の音が聞こえるだけだった。
僕がためらったのはほんの一瞬だった。だけど君の方が早かった。
君は何のためらいも見せずに、崖の下に身を躍らせた。白いドレスの裾がふわりと風を孕んだ。
君の体は花びらのようにくるくると舞って、吸い込まれるように消えていった。
僕は一人その場所に残された。
それはいいしれないほどの孤独だった。
振り向いても君の姿はそこになく、ただザーザーと雨の降る音がするだけだった。
僕は泣きながら屋敷に戻った。その途中でカンテラを持った君に見つかった。どうやらいなくなった僕は大人達総出で探されていたらしい。君はいつものように細く白い手で僕の腕を握って前を歩いた。白いドレスは雨に濡れて重たげに垂れていた。
これが僕の覚えているできごとである。
僕と同じくらい小さな女の子だったはずの君は、なぜか僕よりも先に大人になってしまった。
昨日君は白いウェディングドレスを着て幸せそうに笑っていたので、僕はこれを書き残しておくことにする。
君は僕の初恋のはずだったけれども、あの日から僕は一度もそんなふうに思ったことはない。
きっととても悲しいことというのはそのことだと思う。
少年と遊んでいた少女は崖の下に飛び降りたところで死亡。迎えに来た少女は飛び降りた子の姉、パーティーの主役。
「とても悲しいこと」は少女が死んだこと。
「馬鹿馬鹿しい」というのは、この記録を書いている時点では少年の記憶の中では少女が姉にすり替わっており、パーティーの主役である姉が洞窟にいるはずがないと考えたから。少女が先に大人になった、という表現も同様にすり替えによる記憶の矛盾。