てろてろめし
第8回二代目フリーワンライ
お題:
従者の無念はいかばかりか
ゴールではなくてスタート
桃の花
フリーワンライ企画概要
http://twpf.jp/free1write2
#深夜の真剣文字書き60分一本勝負
「……これは?」
不整脈を疑うほどの動悸を抑えつつ、努めて平静を装いながら尋ねた。表情が歪んでいるのは極力呼吸を抑えるためだ。
「ご覧の通り、カレーですが」
失言だった。ようやく呼吸を工夫して発言したにも関わらず、彼は意図が完全に伝わっていないことを悟って後悔した。そんなことはわかっている、と口にしかけた言葉を飲み込んだ。わざわざ必要最低限以上の酸素を吸い込んで、同時に空気へ混じった劇物も吸引してしまうことを避けるためだ。
正しくは「これが?」と聞くべきだった。
姿形の残ったごろごろ野菜、在りし日を連想出来ない肉片、その他想像を絶する何かが、がチョコレート色をした粘性の液体の中に溺れるようにして点在している。焦げ茶色をした冒涜的なそれは、黒とは対称的な美しい白米の上に丁寧にかけられていた。艶やかに立った米粒がやけに眩しい。
その見目を正確に評するなら、確かにそれはカレーライスと呼ぶべき物体だった。見た目だけなら、だが。
怨念のように立ち込める匂いが尋常ではない。仮に嗅覚情報を聴覚に変換出来たとするなら、地獄の亡者の怨嗟にも似た不快な雄叫びが聞こえることだろう。一度耳にすればもろとも命を失いかねない致死性の叫びだ。
豊かな野菜、肉の香ばしさ、そして恐らくはカレールーのものであろうコクのある刺激の強い香りの向こうに、それらを全て包み込んで押し殺す狂気の圧力で、甘ったる匂いが立ち込めていた。
彼の、スプーンを持つ指が知らず震える。胃が丸ごとひっくり返りそうな衝動を堪えつつ、爆弾処理班の心持ちで手を進めた。
種々の事情から身の回りの世話だけをやっていた従者が、自ら申し出て作ってくれたのだ。彼女を屋敷に引き取った日のことを今でもはっきり思い出せた。痩せ細って無感動だった骸のような娘が、キラキラと期待に満ちた瞳で注視している。まぶたの裏でダブる彼女の顔を見るにつけ、深い感慨を味わわずにはいられなかった。
もしここで手を引けば、彼女の無念、失望のほどは如何ばかりか。
初めて水に潜る練習をした時の気持ちを思い出しながら、異物を舌の上に乗せた。
「――――!?」
シルクのような舌触りが急速に口内へと広がる。異物が浸食する感覚は予期していた味であり、予想を遥かに超える味でもあった。
甘さの奥にさらなる甘さがあって、味覚の四方をまるで蜜で囲われたようだった。おおよそカレーの原形(比喩的な意味で)を留めていない。辛味という概念が消失して、砂糖がこの世の支配者になったかのようだった。
肉に絡みつくチョコレートの後味が、逆に彼を正気に繋ぎ止めた。それと同時に気付いた。これは隠せていない隠し味なのだと。もしくは隠しすぎた隠し味なのだと。
チョコレートに蜂蜜に牛乳にリンゴ。ふと見ると、スプーンの裏側に桃の花びらが張り付いていた。花びら入りの桃ジャムまで投入していたらしい。紅茶に溶かしたジャムの馥郁たる香りを鼻先に感じる。もちろん幻覚だが。
無意識に嚥下したことで、あまりにも壮絶な体験に止まっていた体感時間がようやく戻る。彼は全身から冷や汗が吹き出るのを感じ、彼女に見える場所に出ていなければいいのだが、と思った。
ともかく乗り越えたのだ。そこにはある種の達成感があった。肉体を酷使するハードワークをフルセット行った気分で手元を見下ろす。
そこにはほとんど手付かずの未開地が、銀食器の上に行儀良く並んでいた。
終わったのではなく、これから始まるのだと、絶望感とともに認めざるを得なかった。
『てろてろめし』了
前回とほぼ同じ流れで違うアプローチが出来ないもんかと。
実は「ねっとり描写したい病」を発症してしまって、中身なんてどうでも良かった。