彼女がそうだと仮定して、
俺は会話が苦手だが、人とのコミュニケーションをとることは、どちらかと言えば好きな部類に入った。人見知りをする質ではなく、しかしそう簡単に本心を見せるほどあっけらかんな性格ではない。話を聞いていないようで人一倍耳を立てているが、話を聞き流すのは大の得意だった。
俺と妹との間の確執が生じたのは、つい最近のことではない。10数年の積み重ねに耐えきれず、俺の方がポッキリと折れてしまったのだ。折れたものを元の姿そのままに戻すのは不可能で、やがて俺は修正を諦め、今の歪で軋んだ関係に至っている。
とはいえそれは壊滅的で崩壊の一途を辿っているわけでもなく、むしろ再建築の動きも見えてきている。要するにお互い大人になったというわけだ。俺は別に何もしていないが、妹の方はというと、言葉に込められていた毒も大分抜けきり、物腰も少しばかり柔らかくなった。全盛期の彼女は例えるなら芝刈機で、ただ地面に寝そべっているだけの人間を無差別に刈り取りズタズタにしていたのだが、今ではいいとこ鎌か鍬程度。殺傷力こそ健在だが、その無差別性はすっかり身を潜めたと言っていいだろう。
それでも血を分けた肉親である俺へのあたりの強さは健在で、むしろ肉親ゆえの遠慮のなさが伺える困った状態だが。
因みに俺は、妹を芝刈機、大之木未来子をマシンガンと形容したが、大之木未来子のマシンガンが数を武器としていることに対し、妹の芝刈機がたった数撃で相手に致命傷を負わせることを表現しており、マシンガン>芝刈機という等式が誤りであることをここで陳じさせてもらう。
まとめると、妹はすっかりしおらしくなり、しかしどうして俺に対しては何かと噛みつき噛み千切り、俺と似て口下手な性格で、大之木未来子に負けず劣らず俺とは似ても似つかない容姿の持ち主だった。
……何てことを考えていると、俺の部屋のドアが乱暴に開け放たれ、俺が2年前まで通っていた中学校の制服に身を包んだ件の妹が、丁度もう10分の二度寝を決め込もうとベッドに潜った俺の掛け布団を乱雑に剥ぎ取り、こう言った。
「お兄ちゃん、話があるんだけど!」
放課後に予定された妹とのイベントを控え、俺の憂鬱さは前方、江藤なる男子生徒に心配されるまであった。
何故なら、前回はしつこく迫る同級生への対応で、妹の彼氏役(役割達成を確認後、お兄ちゃんお疲れ焼き肉¥6,720)。前々回は新しい家具の配達人(過酷な肉体労働の後、お兄ちゃんお疲れバイキング¥3,320)。
今回も高校生の貧相な財布から英世、あるいは一葉、下手をすれば諭吉まで消費する、お疲れ会とは名ばかりの追加イベントが待ち構えているのだろう。
大之木未来子以上に友人と呼べる存在がいない妹にとって、俺は都合のいい何でも屋兼ATMに違いない。
そんなグルーミーさなど知るよしもなく、あるいは今がチャンスだと言わんばかりに、肉親でも長年の付き合いもない妹とは似て非なる存在、青い瞳に静かな炎を滾らせた大之木未来子は、朝一番の開口を暴言でもって開始した。
「さて、納得のいく言い訳を聞こうかしら。早速だけど昨日、立花さんが文芸部顧問の中泉先生に入部届けを提出したわ。これで立花さんは晴れて文芸部の一員に、対して私の心は曇天模様よ、もうじき嵐になるでしょうね。どうしてかわかるかしら。それもこれも全てあなたの責任、と言いたいところだけど、私ももう駄々を捏ねる歳ではないものね。ええ、認めましょう。あなたの勝ちよ、大槻。私が立花さんの入部に関する決定権を持たないように、たかだか一クラスメイトであるあなたの行動を決定し、無理矢理従わせる権限は私にはないわ。私の言動は全てただのハッタリで、あなたならまんまと騙されてくれるだろうと期待していたけど、私の想像を遥かに越えてあなたは卑劣……賢かったようね。まぁもっとも、あなたが立花さんの説得に成功することにはこれっぽっちの期待もしていなかったけど。あなたごときに敗走するなんてとても癪だけど、よく考えるとあなたは私にはないものを持っているわ。それは決して相手の土俵では戦わない、隙を見て背後から切りつけるような日本男児にあるまじき狡猾さよ。正面から正々堂々、向かい合って切り伏せる質の私ではそもそも勝てる相手ではなかったのね。ごめんなさい、私ごときがあなたの手を煩わせてしまったことを、心から反省するわ。これでいいかしら、これであなたは満足なの? もっとも、あなたのそれは世間で一切通用しなくなるから、今の内に矯正しておいた方がいいと思うわ。本来なら私自らあなたの腐った性根を叩き直してあげたいところだけど、私ではとても役不足でしょうね。だから然るべき施設で、然るべき処置を受けることをお勧めするわ。ごめんなさい、私ごときがあなたに余計なお節介を。とうぞこれからも相手の背後をとり続けて、空しい勝利に酔いしれているがいいわ」
白い肌に若干の紅潮を見せ、大之木未来子は俺の返事を待った。どうにも彼女は暴言の後に相手の返答を煽るらしく、そういえば言うだけ言って立ち去る、なんてことはこれまで一度もない。
大之木未来子の言う正々堂々、とはつまりこういうことらしい。
俺は返答に困りあぐねていた。どうやら俺は大之木未来子に勝利したようだが、彼女が本心からそう思っているわけでないことはいまだに燃え盛る青い瞳から読み取れるし、果たして勝利を高らかに宣言して、それでは大之木未来子の言葉通り、俺が卑怯で卑劣で腐った性根の持ち主であると認めているようなものだ。
そうすると、俺は勝者ではなく敗者ではなかろうか。これは罠だ、大之木未来子が、俺が彼女の言葉を真に受けぬか喜びするよう仕向けた巧妙な罠なのだ。故に彼女はこうして俺の返事を待ち、決して静かな闘争心を瞳から消そうとしないのだ。
ダミーのゴールテープを張られ、周囲には地雷が所狭しと埋められた、そこは既に大之木未来子のフィールドなのである。
となると、俺の返答はやはりどこか卑劣で、地雷原を飛び越えるようなぶっ飛んだものになってしまう。
「そんなことよりかがみさん、今日の放課後って何か予定があったりするか?」
周到に張られたトラップと、俺を導く布石とをそんなこと呼ばわりされて、大之木未来子は一瞬だけムッと顔をしかめた。しかしすぐに猜疑心たっぷりの視線で俺を見つめた。
「もしかしてデートのお誘いかしら。私に面と向かってそんなことを切り出すのはあなたが初めてだけど、私はお付き合いもしていない男性と2人きりで一緒に行動するほど軽い女じゃないわ。まぁあなたのことだから、何かよからぬことを企んでの発言なのでしょうけど」
「あいにく、俺もかがみさん程の美人と肩を並べて歩けるなんて思ってないし、何なら俺以上に身の程を弁えている日本男児はそういないと自負している」
「あら、肩を並べて歩かせてもらうのは私の方よ、大槻くん?」
わざとらしく肩をすくめると、大之木未来子は微笑んだ。ずっとその表情を顔に張り付けていれば今の何倍もの友人に囲まれているだろうが、0に何を掛けても0のままで、それがいかに難しいことであるかは言うまでもない。
俺は一度取り繕うように咳をすると、大之木未来子に向き直った。
「俺の妹が来年この高校を受験するんだが、その前に『コネ』を作っておきたいそうだ」
「それで私とあなたの妹さんを事前に知り合わせておいて、入学してからの人間関係の構築が円滑に進むようにしたい、ということかしら」
さすがの洞察力で俺の追言を先読みすると、大之木未来子はさらに次の次辺りまでをピタリと言い当ててみせた。
「間違っていたら申し訳ないけど、あなたの妹さんはあなたに似て癖のある性格の持ち主ではないかしら。高校入学なんて一世一代の大行事、そんな回りくどい準備をしなくても友人なんて勝手に出来ているものだもの、あなたの妹さんがごく一般的な感性の持ち主ならね」
「そうそう、かがみさんに似て難儀な性格をしてるんだな、これが」
「……それなら、私ではなく立花さんや、もっと他に適任がいるはずだわ。自分で言うのも何だけど、私と知り合ったところでそれ以上に人脈は広がらないでしょうし、私もそれなりに難しい性格をしているから、もしかすると妹さんが志望校を変えるまでにうまい付き合いが出来ないかもしれないわ」
珍しく弱々しく目を伏せた大之木未来子は、話の継ぎ手を求めるように立花日和を探した。しかし彼女はこの時間、まだ名前もよく知らない女子生徒と楽しそうに会話をしており、行き先のない視線はふらふらと戻ってくる。
「俺が言うのもなんだが、俺の妹はかがみさんと向き合って折れるほど繊細な奴じゃない。むしろ油断してかかると返り討ちにある可能性もある」
それは発破をかける訳でもなく、大之木未来子に多少なりの心配を込めての言葉だった。大之木未来子はかたばった頬を僅かに緩めると、小さくため息をついた。
「そうね、今日は部活もないし、もし気が向いたらあなたの誘いに乗ってあげるわ。仮に部活があったとしても、立花さんとの文芸部は気が擦り切れるでしょうしね」
正直、大之木未来子が誘いに応じても、応じなくても俺の勝利は揺るぎないものだった。何故なら彼女は自身の仕掛けた罠をすっかり忘れており、まんまと俺の敷いた布石をたどったからだ。
しかし予想外だったのは彼女の返答が肯だったことで、頼むなら立花日和と考えていたところを布石のついでに大之木未来子にふっかけ、何と意外にもあっさり了承を得てしまった。軽くあしらわれることを前提に話を進めていたため、むしろ予想外のカウンターに面食らってたじろぐ俺だが、そんなことは気にもとめず、大之木未来子は閉じていた本へと手を伸ばす。
途中、思い出したようにその手を一旦止めると、何の屈託も裏も企てもない笑顔を浮かべた。
「楽しみにしているわよ、大槻」
それは、いつか見たことがある花のように可憐で、やはり彼女の惜しさをお節介してしまうほど、大之木未来子らしからぬ笑みだった。