例えば、雨の降る夜に
本格的に授業が始まり、故に久しく食べる母親の手作り弁当もいつもより美味しく感じた。もちろんそれはいつでも美味しいのだが、春休み中の3食ほとんどをジャンクフードで補っていた俺の味覚は相当低下していたらしく、つい昨日食べたにも関わらず、あまりの美味しさに思わず涙を流しそうになる。
それはさておき、まるで間違い探しのように弁当箱を囲む席は昨日とは異なる姿をしていた。難易度でいえば初級中の初級で、真っ先に見つける事が出来るほど大きな変化だ。
前方変わらず、江藤なる男子生徒。やや茶色がかった体に程よくついた筋肉、バスケットボール部への推薦入学らしく、見るからにスポーツマンの好青年だ。食べる量も実にスポーツマンらしい。俺よりも少し大きいサイズの弁当を平らげると、鞄から取り出した菓子パンの袋を開けた。
それを頬張りながら、左方……俺の側から見て右方に座る女子生徒を見やった。
「そんで、模擬試験の結果はどうだったんだ?」
尋ねられた女子生徒は分かりやすく肩を落とすと、けれども声のトーンは落とさずそれに答えた。
「うーん、あんまりかな……。一応成績自体は上がってるんだけどね」
この女子生徒を俺は知っていて、この女子生徒も俺を知っている。
立花日和は自身の手作り弁当から色合いのいい卵焼きを摘まむと、口に運んだ。
彼女はこのクラスの委員長で、生徒会役員で、江藤と同じ塾に通っていて、そして俺と同じ中学校を卒業している。彼女について知っていることといえば、あとは料理が得意なことと、2学年に存在するスクールカーストの上位グループに属していることか。大之木未来子と比較して、棘のない雰囲気、毒のない言葉遣い、そしてハムスターやフェレットを思わせる小動物じみた可愛らしい容姿をもってすれば、彼女がその地位に立つのは当然と言える。
無論、と断定してしまうのも哀しいものだが、俺と彼女の間にはそれ以上、なんの関係性もない。当たり障りのない会話をし、他意含みのない意思表示をする関係は、友人とも知人ともいえない。正真正銘、まさに『クラスメイト』だ。
それはさておき、立花日和のその後ろ、つまり俺の右隣の席で、相も変わらず1人で昼食を済ませる少女に俺は目をやった。
相も変わらず艶やかな黒髪に、長い睫毛で囲われた青い瞳、ほくろの1つでも探してみたくなるほど白1色の肌。
代わり映えのしない美貌を携えながら、大之木未来子は読みかけの本を開いた。やはり丁重に革のブックカバーで覆われたそれの詳細も気になるところだが、果たして大之木未来子が誰かと食事をする姿など見たことがなく、彼女の交遊関係というものに対する興味がまるでマグマのように、ゆっくりと、沸々と沸いてきた。
大之木未来子を校内で見かけるとき、彼女は大抵1人だった。誰かと一緒というシチュエーションには、女子生徒とのトラブルか、あるいは男子生徒からのプロポーズといった負荷価値が付いていて、本当の意味で彼女が誰かと親しげに歩く姿を俺は見たことがなかった。
もっとも、俺はパパラッチのように彼女の背後を取り続けていた訳でもなく、『同じ学舎で半日を過ごして、ばったり遭遇した回数分の1』でたまたま都合のいいシーンを引き続けただけかもしれないが。
しかし現状、この教室という1つのコミュニティに限って、大之木未来子は誰とも関係を持っていないと確信できた。まだ彼女と同じようクラスになって、全員の関係性が一度リセットされて2日と経っていないが、その結論を下すのに十分な時間だった。
ふと、その青い瞳と視線がぶつかった。また言われもない罵声を浴びせられるのかと身構えたが、大之木未来子は微かに顔を歪め、ページの続きへと目を戻した。
正午をまわる辺りから怪しくなっていた雲行きは、傘を持たない大勢の生徒の祈りを絶ち折るように、やがて積乱雲を産み、雨を降らせた。といってもそれはいわゆる小雨で、まるで霧吹きのように細く細かい雨にしとしとと雨宿りをする生徒はおらず、小走り、あるいは濡れることを臆せず堂々と歩き、帰路についていた。グラウンドを使用する部活生は小雨決行と言わんばかりに、相も変わらず掛け声を上げ精を出す。
天気予報における降水確率が決して雨の降る量と関係ないことは、世間一般に通じる常識になるが、純真無垢で世間知らずの我々学生の半数にとっては、少しばかり難しい問題になるやもしれない。今朝のテレビ番組で発表された降水確率は20%。確かにこれだけの小雨では、その勘違いもあながち間違っていないような気もするが。
そしてもう半数に位置する彼ら彼女らの中にも、気象庁が出した数値を侮り快晴の未来を信じ、傘カッパの類いを持たずに登校してきた愚か者がいるに違いない。何せ80%の確率で、雨具の準備が徒労になってしまうのだから。その怠惰の結果、雨に降られ濡れてしまうのは自業自得といえる。
なんて戯れ言を並べながらしとしとと雨宿りを決め込む俺が、いくら小雨とはいえ家に着く頃にはびしょ濡れになっていることは変わりようのない事実だった。
それはさておき、下駄箱近くの軒先で雨を凌いだ時間は僅か数分の出来事だったが、図ったように、不運なことに、淡い水色の傘をしっかりと握った大之木未来子と遭遇してしまったことを、俺はひどく嘆いた。軽く湿気を含んだ風に靡く黒髪と、雨の色をした瞳。水色の傘は彼女の白い肌が濡れないよう、存分に役目を果たすことだろう。
程なくして大之木未来子は俺の眼前へと迫り、憂えんだ。
「こんにちは、大槻。もう下校の時間だけど、傘もささずにそんなところに突っ立って、どうしたのかしら? 帰る道がわからないのなら、残念だけど私は何の役にも立たないわ。そうね……、あなたの持っているスマートフォンで、110に電話してみてはどうかしら。きっと格好いい車に乗った人たちが、あなたの力になってくれるわ。それともお腹が空いて動けない、とか? それなら解決は簡単ね。あなたのその食事と呼吸にしか使えない口を目一杯に広げて、上を向きなさい。あなたの好きな雨水を好きなだけ飲むことが出来るわ。……まさか傘がないから帰れない、何て言わないでしょうね。それならあなたは多分、降水確率の意味を履き違えているわね。こんな一般常識レベルの単語の意味を間違えるなんて、同じ高校の生徒だとは思いたくないけれど、まぁ、よく考えたらそんな間違いを犯す高校生なんて存在しないわよね。意味を知った上で傘を置いてきた、とも考えられるけど、そうして結局雨に降られるのなら、救いようのない愚か者だし、それもあり得ないわ。ごめんなさい、やっぱりあなたはすぐにでも110番して、家に着いた安堵のあまり好きなだけ泣きわめくべきだわ。そうと決まれば、早く私の視界から消えてくれないかしら、大槻」
通常運行で罵詈雑言を浴びせた大之木未来子は、息継ぐ暇もなく続けた。
「それはさておき、安心したわ。あなたにも雑談に興じる相手がいたなんて。いったいいくらのお友達料金を支払ったのかしら。私が以前読んだ、いじめを題材にした小説の主人公も、クラスメイトに賄賂を渡して自分が孤立しないよう立ち回っていたわ。……もちろん冗談よ。とにかく、根が腐ってそうなあなたに話し相手が出来るなんてそうないことでしょうから、この奇跡に感謝して、せいぜい自惚れないことね。自惚れは傲慢に、傲慢は強引に変わって、いずれ誰かを傷付けてしまうから。自惚れといえば、お昼休みのあなたは江藤君と立花さんの邪魔物でしかなかったわね。端から見ていても、江藤君に向けた立花さんの言葉を見事に遮っていたわ。あなたってどちからといえば土っぽいし、土嚢に改名してはどうかしら。異性と話が出来て気持ちが舞い上がり、自惚れるのは分かるけど、立花さんは基本的に誰とでもあの態度で接するわ。あなたが勘違いから変な気を起こして恥をかく前に、忠告しておいてあげる。とにかく、あなたと江藤君に立花さんが近付いたら、空気を呼んで席を外すのをお勧めするわ。そのまま校外へフェードアウトしても構わないけれど」
よくもまぁこんなにスラスラと暴言が沸くものだ、と感心しつつ、俺はひたすらに無言を貫いた。返答を返しても駄目、表情に出しても駄目。俺はいったい何の修行をしているのか、己に問いながら、雨の行方を確認する。もう数時間、ずっと小雨のまま降り続くそれは、ある意味で大之木未来子の暴言よりも精神を疲労させた。
仕方なしに、暇潰しとカウンターを兼ね、俺は彼女の青い瞳と視線を合わせた。
「そういえば、今年の桜は開花が早かったな」
だからなんだ、と俺ならそう答える。何の脈絡もない台詞に、大之木未来子は困惑した表情を見せた。
「いや、桜の開花が早いと、季節の進行が前倒しになったりするのかなって。もう梅雨が目前に迫っていたり、文化祭の屋台が雪で中止になったり」
「それは関係ない、と思うけど……」
珍しく、大之木未来子は言葉を詰まらせた。それとこれとが関係ないことなんて、俺は重々理解しているが、だからといって『関係ない』ときっぱり言い切れるほどその道に精通してはいないし、夢や理想を嫌う主義も持っていない。あの大之木未来子もきっとそうで、故に曖昧な返答をしたのだ。
そして、それに対する俺の返答は決まっていた。
「ふーん」
呆れたように傘をさし、大之木未来子は俺に背を向ける。間もなく、彼女は歩き出した。
勝った、とガッツポーズを取りかけた瞬間、大之木未来子は振り返り、言った。
「明日も雨が降るから、きちんと傘を持ってくることね」
その時の彼女は見惚れるほどの笑顔で、しかしそれは笑顔と呼ぶにはどこかぎこちなく、ほんの僅かな表情の変化だけだった。