そういえば、今年の桜は開花が早かった
入学式が華々しく執り行われたであろう体育館の後片付けを終え、強制的に登校させられた2年生の3割りは教員への不満と共に校舎を去る。
半数の生徒は部活動に勤しみ、残る少数は教室に残って新たな級友と、あるいは旧友との談話に華を咲かせる。
俺はというと、こうして他クラスまで会いに来てくれる旧友はいないらしく、級友へと近付いたであろう江藤なる男子生徒はユニフォームへと着替え、足早に体育館へ向かった。
教室に残った華々しい男女数名に背を向けると、静かに教室から下駄箱へと足を進めた。
「あらあら、1人で寂しく帰宅なんて、やっぱりあなた、友達がいないのね」
恐らくそれは紛れもない偶然。まさかあの大之木未来子が、偶然を装って俺を待ち伏せていたなんて考えたくもなかった。
昼休みぶりに見た彼女はやはり華やかで、咲き誇る満開の桜を背景に1枚の絵にしても、鮮やかな色を放つそれを制してしまうほどに輝いて見えた。
俺は言葉を詰まらせた。そういえば彼女と俺との間に言葉のキャッチボールが成立したことはなく、初めての会話がこれでいいのだろうか、と俺の中の靄が口を塞いだのだ。
言ってもいいのだろうか。
お前だってボッチじゃねーか。
その件に関して、俺は反応を示さなかった。彼女の知らない場所で俺のコミュニティがあるように、俺の知らない場所で彼女のコミュニティがあるかもしれないからだ。不用意なカウンターは大之木未来子の糧となり、暴言の餌となる。それはつまり、俺の敗北を意味する。1勝のまま勝ち逃げするためにも、彼女に隙を見せるわけにはいかないのだ。
もっとも、俺は彼女の前で江藤とのコミュニティを発展させているし、こうして1人で下校している彼女に、噂通りのマシンガンを誰これ構わず乱射している彼女に、少なくとも校内でのコミュニティがあるとは到底思えないが。
しかし俺も人の子で、白亜期問わず現在未来と時空を縦横無尽に行き来し殺戮を繰り返す逸材の兄とは思えないほど、温厚な心を持った1人の人間である。
普段なら下校する生徒でごった返すこの空間も、図ったように俺と大之木未来子の2人だけだった。
俺は考える。なぜ彼女はこうして執拗なまでに俺を狙い、暴言を吐くのか。
数時間前に彼女が放ったマシンガンは、百歩譲って俺が無意識の内に向けていた視線が原因と言えるが、今回はそうではない。何も非のない、ただいつも通り1人で下校していたいわゆる普通の高校生を狙った、悪質かつ卑劣極まりない犯行だ。しかし、肩書きから『普通』を消して『因縁』と書き換えてみるとどうだろう。まだ多少は、彼女に対して情状酌量の余地が見えてくる。
そう、詰まるところ大之木未来子は、俺を言い負かせなかったこと、それも勝ちと負けの線引きが曖昧な、不戦状態に持ち込まれたことが悔しかったのだ。
彼女は自ら吹っ掛けた勝負をヒラリとかわされ、まるでその勝負自体なかったかのように振る舞われ、高すぎるプライドを著しく損傷したに違いない。
だからこうしてわざわざ、また俺にマシンガンの乱射を始めたのだ。
「もしかしてあなたには耳もついていないのかしら。あなたに足りないのは口と脳みそと自分の容姿を物理的、客観的に見る目だけだと思っていたけれど。……ごめんなさい、言い過ぎたわ。それじゃあまるであなたがのっぺらぼうみたいね。まぁ、目の前にあなたとのっぺらぼうが現れたら、私はのっぺらぼうを選ぶけれど。それで、あなたはこの時間、1人で何をするつもりなのかしら。部活動? 失礼だけど、とても運動が得意そうな様子ではないわね。それなら生徒会活動? いいえ、あなたのその鬱陶しい髪じゃ、生徒会なんて務まらないわね。まさか、いえありえないけれど、まさか本当に1人で虚しく帰路につくつもりなのかしら」
例によって淡々と悪態をつく大之木未来子は、例とは異なって俺の反応を待った。いつもなら川の流れのように、つらつらと次の暴言を吐く頃だが、その大きな瞳で俺の反論を待っていた。
俺は考える。無言戦法以外にいい手だてはないものか、と。そう、俺も人の子だ。1対1の状況でこうやって言葉を待たれて、果たして無言を貫けるはずもなかった。
しかし負けたくもない。彼女の暴言に生半可な返答をしてしまうと、たちまちそれを燃料に新たなる爆弾を投下され、勝手に勝利宣言をされるに違いない。
だから考えに考え、俺は初めて大之木未来子と会話した。
「そういえば未来子って変わった名前だよな。かがみさんって呼んでいい?」
その瞬間、大之木未来子の見せた表情の激動を、俺は後生忘れないだろう。喜怒哀楽の他に羞恥と屈辱を交え、最終的に凍えるほど冷たい嘲笑に落ち着くと、彼女は口を開いた。
「それじゃあ、私はあなたのことを大槻って呼んでいいかしら。ごめんなさい、あなたの下の名前は知らないし、あなたに敬称を使うのは癪で癪で仕方がないの」
「好きにしろよ、かがみさん」
「えぇ、好きにするわ、大槻。帰りに百貨店に寄ることを忘れないでね」
そう言うと、大之木未来子は薄ら笑いのまま去っていった。恐らく彼女の中で、今回の一件は大分勝ち寄りのドローだったに違いない。
だが端から、客観的に見れば、明らかに俺の圧勝だった。何故ならあの大之木未来子にあんな表情をさせたのだから。
きっと彼女自信、自分の表情の変化に気付いていなかったのだろう。それだけ俺のカウンターは、大之木未来子が辛うじて言葉を返す事が出来るほど、重いものだったと言える。
「また勝ってしまった」
周りに人気が無いのを確認して、小さなガッツポーズと共に呟いた。噛み締める必要もない。俺は一抹の満足感を抱くと、やはり1人寂しく帰路についた。桜の花びらは彼ら彼女らと平等に、俺の肩にも積もった。