20「自由は罪作りだ」
「それではおやすみなさいませ。」
ウェルネシアが隣接している使用人部屋へと立ち去る。
ドアが乾いた音を立てて閉まるのを見送ってから、リッカは傍らでほのかに光るランプを手に取った。
白い布団を蹴り上げ、冷たい夜の空気に足を踏み込ませる。
温かかったベッドから脱け出した体はぶるりと震える。
ランプの灯が消えないよう注意深く足を進め、窓際に置かれた木の椅子に腰かける。
椅子に蓄積された冷たさがリッカの全身に巡る頃、突然ふっと灯が消えた。
部屋を闇が支配し、頼りになるのは清い月明かりののみ。
首を斜め後ろに回し、満月4歩手前位のいびつな月を見上げる。
あの日もこうして月は輝いていた。
誰よりも美しい姉を見守るようにして。
役目を果たせないランプを下に置こうと体をかがめた瞬間、ぽたりと水滴がピンクベージュの絨毯に落ちる。
水滴はじわりと広がり、そこに小さなシミを作る。
湿った所を触りながら、リッカは自分が泣いていたことに気がついた。
右目尻を触ればそこには今にも零れそうな涙の子供がいた。
人差指で水滴を拭き取り、体を起こして指の腹に乗った丸い水滴を月明かりに照らす。
ぷるぷると所在なさげにリッカの指に留まるそれ。
少し指を傾けてしまえばあっけなく窓の縁に垂れてしまう。
それをつまらなそうに見てから、月に背を向ける。
どうして泣いたのか。
リッカには心当たりがあった。
姉を恋焦がれる気持ちから、
ではない。
どうしようもなく悲しくて。
これから自分が歩む道は茨の道。
ウェルネシアやセティの前では確固たる意志を持った強者の様に振る舞ってはいるが、本当は不安で仕方がない。
いや、その言い方は正しくなかった。
自分は確固たる意志を持つ強者であるという自覚がリッカにはあったからである。
だがそもそも王になろうだなんて事、いつから決意したかなんて分からない。
今朝ウェルネシアの声でまどろんでいた時はそんな考え頭の隅にも無かった。
勿論昨晩姉が駆け落ちしたと知った時も、父王に罵倒された時も。
だからきっと目を開けた瞬間、国王という言葉を聞いた瞬間、父親の存在を認識した瞬間、リッカの中に得体の知れない化け物が生まれた。
そしてベッドから這い出て一歩一歩足を動かす毎に、その化け物はリッカの体を支配していった。
元からリッカの体の中にいたかのように。
元からリッカそのものであったかのように。
化け物はリッカを支配し続け、威圧感やら策やらを生み出していった。
当たり前のように。
そして今、一人になった時化け物は胸の真ん中に引っ込んでいった。
胸の中心を見たとしても勿論何もない。
悪魔の刻印や意味深な痣なんてものも。
だからリッカは分かっていた。
化け物が紛れもない自分自身であることを。
けれどそれがどうしても受け入れられない。
先走りする化け物としての自分。
それに追いつけない。
王になるという選択も、その為に手段を選ばないことも、後悔はしていない。
どれもこれも最適解だろう。
けれど、けれど。
今の私は何者なんだろうか。
リッカ=アイネウスで合っているのだろうか。
それとも別の誰かなのだろうか。
生きる意味をくれと乞うた。
父王に生を否定された時、確かに乞うた。
だから化け物は答えた。
王になることこそが、世界を壊すことこそが、お前の生きる意味なのだと。
最早守ってくれる母も継母も姉もいない。
お前は一人だ。
孤独だ。
そしてその孤独を抱えたまま孤高の王になるのだ。
そう囁く。
甘く、綿菓子の様に甘く、柔く。
何も考えずセティの嫁になりたかった。
そのまま穏やかな一生を送りたかった。
でもそれではお前は我慢出来ない、と化け物は囁いた。
化け物の言うことはよく理解できた。
確かに私は我慢出来ない。
きっといつか姉の様に自由を求めて飛び出すだろう。
優しくて美しい、傷つく事のない平和な世界から。
姉が駆け落ちをした理由が良く分かる。
彼女はこの自分に優し過ぎる世界に飽きたのだ。
そしてどうしようもなく窮屈だったのだ。
柔らかな真綿はいつしか彼女を縛る鎖になっていた。
自分もその鎖の一つだったのだろう。
だから責められない。
どうして行ってしまったのだと責められない。
行ってしまった理由の一端をかついでいると分かっていた。
自由を求めることは罪ではない。
しかし自由は罪作りだ。
自由の為には沢山のものを捨てなくてはいけないからだ。
だからリッカは自由な未来を掴むために、王になる為に、沢山のものを捨てるのだ。
今日も幾つも捨てた。
ウェルネシアとの穏やかな主従関係は、リッカが絶対的上に立つものへと。
セティとの良好な幼馴染関係は、権力のからむ生臭い取引関係へと。
ごめんね、ごめんね。
そう大切な人達に、泣いて許しを乞いたい。
しかしもうそれは出来ない。
もう遅い。
ごめんね、ウェル。
ウェルの生死は私が握った。
ごめんね、アイル。
きっと好きなのに、きっと好かれてるのに、きっと両想いなのに、それをなかったことにして。
というより利用して。
全部知ってるよ。
お姉さんのことは嘘っぱち。
そんな嘘をつかせてごめんね。
婚約だってあってないようなものになるんだろう。
でもどうしても、アイルの力が欲しかった。
王として。
上に立つ者として、貴方を求めた。
もう2度と、貴方を1人の女として求めることはない。
でもそれでも、私がこの化け物に食われてしまう前までは、貴方のことを好きでいる。
だから、許して。
これは許されない恋のお話。