かさかき大学生の思案
私(小卒)と大学に通っている青年は、野原に寝転びながら議論をしていた。
青年「しかし、18でも23でも良いですが、いきなり学校から社会に放り出される訳ですから、
この場合、私生活と公生活との境目が非常に曖昧なんじゃないでしょうか?
今まで学校で勉強してた奴等がいきなり社会に放り出されてソレ働け、ってのは無理があるんじゃないでしょうか?
学校に規律が必要なのは、私生活から公生活(社会)へ移る際へ、スムーズに移行するためだ。勉強のために規律が必要となるのではない。
だから、正確には学校は勉強をしに行く所ではない。
勉強だけを学ぶ場所は学校ではなく研究室と呼ばれてしかるべきでしょう。
もしも、義務教育過程に規律が存在しなかったら、社会は私生活の延長でしかなくなる。
勉強(数学や歴史等)が社会生活において役立たないのは当然です。
学校は勉強しにくる場所などでは無いのだから。
だから、「この学校で学んだ事」という決済を迫られる時、勉学は問題にならず、社会への態度と結論付けられるのも尤もであると言えましょう。
そもそも、勉強を学ぶのに、規律など必要ありません。」
私はその意見に賛成だったが、何しろ15歳から売春、援交、サポ....を重ねてきた私である。
反論したくなった。
「それは詭弁だろう。君の意見は概ね認めるが、社会は常識(公生活)と非常識(私生活)で成り立っている。
私は売春している時分、詩を書いた。
要約すると、売春を労働として捉えてしまった場合、全てのセックスがオートメーション化されるという事だ。
個人サポならともかく、売り専などに行くと、全て時間で測られ、労働の本質....常識側へといってしまう。
しかし、エロティシズムは、セックスは労働では無いのだよ。
もし労働と呼べるものとしたら、それはエロティシズムでもセックスでも何でもなく、保健の授業で習った性交、動物同士の性交だね。
風俗のオネーチャンが「はい股を開いて-ローション塗りますからね〜」
などと言うのはセックス、エロティシズムと何の関係も無いよ。
僕が学校が嫌いなのはね、そのオートメーション化された部分なんだ。
例えば僕の場合、先ず、セックスは私生活の延長だろ?
だからセックスを売り物にしちゃうと、私生活を売ることになっちゃう。
つまり公生活と私生活との境目が無くなっちゃう。
これは芸能人と同じで、私生活というものが無くなる。
そこで、どうやって私生活を守るか、という問題になる。
某ゲイバーの16、17の青年に身体を売らせてるマスターは、「セックスはスポーツだ」と言う。
それはつまり、私生活を守る為に、セックスをスポーツと捉える事で、性生活(私生活)を自分から切り離すしかないんだな。
とにかくこれだけは言えるよ
学校は教員のために有るのであり、生徒の為にあるのでは無いと
というのも、高校や大学は生徒からの金で動けているのであり、簡単に言えば企業である。
つまり営利団体と化しているので、金を賄う為に生徒を食いものにしているだけだと。
だから君の意見はちゃんちゃらオカシイと思うね。
「学問は貧乏人の暇潰し」-立川談志