迷い込んだ摩天楼
俺は再び暗闇の中で微睡むような感覚に襲われているところを、どこからか響き渡る喧騒に叩き起こされ、その暗闇の世界に別れを告げた。
「うっ、いってぇ…………」
どうやら再び頭痛が甦っているらしく、頭にひどい鈍痛が走る。
それにしても、先程の似非女神の話からすると、今からこの瞼を開けば、そこには亜人たちが闊歩する中世ヨーロッパ風のファンタジー世界が広がっているはずだ。
俺は期待半分、不安半分に瞼を開く準備をしながら少しの間構えて、ようやく決心がついたところで、俺は自分の心に語りかける。
「よし、じゃあ三秒数えたら俺は瞼を開こう。……さん、に、いち……」
俺は躊躇いなく一気に瞼をこじ開けた。一瞬、久しぶりの光に目が焼けるような熱を感じ、結局直ぐに景色を瞳に映すことはできなかったが、それでも徐々に瞳が光に馴れていく。
そして、ようやく俺の瞳が映し出すその光景に唖然とし、はっきりと眼が馴れるまでの数秒間、その光景を信じられずに辺りを見回し続けた。
「何だ、これ……」
レンガ造りや木組みの家など一軒たりとも存在せず、亜人が闊歩するはずの石畳の大通りなど欠片も見当たらない。
そこにあったのは、空高くそびえ立つ摩天楼のようなビルの数々に、何の素材で出来ているかもわからないような道を歩くのは、俺がいた世界よりももっと近未来的なラバースーツのような白い衣服に身を包んだ人間たちばかりだった。
「嘘だ……、これは夢だ……、あの似非女神が魅せている悪い夢なんだ……」
俺は現実逃避をしようと、きっと痛みを与えてやれば眼が覚めるという、なんとも古典的な方法を取る。
「いてっ……」
テンプレ通りに頬をつねってみるが、痛みを感じるというのに目が覚める気配がない。他にも色々と試してみようかと俊巡するが、もうそれだけはっきりと意識がある時点で、これが夢だという可能性が薄れていく。
彼女は確かに時空の歪みがどうたらと言っていただけで、中世ヨーロッパ風のファンタジー世界に異世界転生をさせるなどということは一言も言っていなかった。
けれど、俺は叫ばずにはいられない。ここがどこかは知らないが、恐らく技術が恐ろしく進んでいるであろう未来的な世界に飛ばされて、野球をしてきただけの多少は動きに覚えがある俺なんかが、こんな技術の進歩した世界で何かをできる訳がない。
精々、これから先に俺たちの世界にも現れるであろう技術を少しだけ早く目にすることができて、それに気が付いたときにはお陀仏しているに違いない。
「ふっざけんなよおおおおお、あの似非女神があああああ」
俺はありったけの声量でこの世界へと俺を飛ばした、美少女なだけの似非女神への怒りをぶちまけた。
「大丈夫ですか?こんな道端で倒れているなんて、どこか故障したのですか?」
まだ似非女神への怒りが消えないままに、急に話しかけられたために、一瞬鋭い視線を向けてしまったが、この人に罪はないと思い直し、なんとか自制心を働かせて平静を装う。
「いえ、何でもないので気にしないで下さい。ちょっと転んだだけなんで」
そう言うと、声を掛けてくれた少しやせ型の中年の男性は、酷く不思議そうな表情をしながら俺のことを眺めてくる。
「転んだだって……?不思議なこともあるんですね」
そう言いながら、特に笑う訳でもなく俺の元を去っていった。
転んだことが不思議なことってどういうことだ?まあ、自分がいた世界とは違う場所なのだから、転ばない技術が完成していてもおかしくはない。
それにしても、落ち着いて男性との話を改めて思い返してみると、違和感がある会話だったことに気が付く。
だいたい故障したのですか?なんて人に対して尋ねる言葉では無いような気がするが。俺が言うのも何だが、この世界の常識は酷く失礼なものなのではないか?
まあ、異世界の常識を悪く言っても仕方がない。その辺は自分が異端者であるのだから、こちら側の常識に合わせるしかないだろう。
一先ず言葉は普通に通じるようで安心した。まあ、その辺ができなければ異世界に飛ばした意味も無くなるので、あの似非女神が上手いことしてくれているのだろう。
俺は取り敢えず立ち上がってもう一度辺りを見回す。
それにしても、近未来を絵に描いたような世界だ。ビルが所狭しと立ち並び、空に張り巡らされた透明な道を、空を飛ぶように乗り物が闊歩している。皆決められたように同じ衣服に身を包んでおり、争いなど興味が無いといったような平和そうな表情をしている。
「ここのどこに救う余地があるって言うんだよ。もう皆充分に幸せそうじゃねえか」
俺は辺りを見回しながら、周辺を歩いてみることにする。ここなら何か戦いになったりすることは無さそうだし、まずはその世界がどういう場所であるかを知らなければ。
それにしても、なかなか楽しそうな世界ではある。戦わなくて済むと言うのなら、こういう世界に迷い混んだのも悪くはない。
現代の日本にも立ち並ぶ四角い形のものあれば、円柱のような丸いビルや、三角錐の細長いピラミッドのようなビルもある。だが、一戸建ての家のような建物は、見渡す限り存在しない。建ち並ぶもの全てが背の高いビルで、人口密度の高さを彷彿とさせる。
今俺が歩いているのは側道なのだが、道路の中心部はベルトコンベアのような自動道路がずっと先まで延びている。
「こんな楽な生活してたら、みんな太りそうなもんだけどな」
そう呟きたくなるのも仕方がない。通りすぎる者は皆、中肉中背の何の個性もない身体つきをしている。肥満もいなければ病弱そうなひ弱な身体つきも存在しない。
「やっぱり、この世界は健康管理も完璧にされてたりするのか?」
まあ、それでも個性を見つければそれなりに違いはあるのだ。もちろん表情はそれぞれ異なるし、身長もある程度差はある。女性に限れば、胸の大きさなんかも人それぞれだ。
それにしても、ラバースーツのような衣服に身を包んでいるため、女性の胸に関しては現代よりも強調されていて、人によっては非常に眼を惹き付けられる。
胸の大きい女性が横を通れば、思春期の俺は息を呑まずにはいられない。自分も同じような衣服に身を包んでいるので、下半身も気になって仕方がない。
俺は一先ず深呼吸をして、高まった鼓動を落ち着かせながら、頭の中を整理する。
情報を集めるには中心街に行くのが常套だろう。どこの時代でも世界でも、情報が集まる場所が中心部なのは変わらないはずだ。
俺は通りすぎる人々の中から、なるべく穏やかそうで、話を聞いてくれそうな人を選びながら声を掛ける。
「ここの中心街って、どうやって行けばいいですか?」
なるべく気さくな態度を取りながら、下手な作り笑いを浮かべる。別に何の他意もないけれど、近くにいた綺麗な顔つきの女性に訪ねてみた。
しかし、その女性はこの前の男性と同じように特に表情を変えることもなく、自らの側頭部を指でツンツン指しながらこう言った。
「そんなのここに聞けばわかるでしょ。そんなこともできない欠陥品なんて、このご時世にはいないと思うけど」
そんな失礼極まりない言動に俺が唖然としながら固まっていると、俺には全く興味が無いと言うようにどこかへと去って行ってしまった。
いくらなんでも欠陥品は失礼過ぎやしないか。確かに俺は頭が良い方ではない。けれど、そこまで言われる覚えはない。どれだけ綺麗なお姉さんだからといって、こちらの沸点もそこまで高くはない。
沸点を迎える寸前でなんとか踏みとどまった俺は、自分が改めてこの世界では異質なのだということを思い知る。落ち着いて考えれば、相手が失礼なのではなく、俺だけがこの世界の常識に染まっていないだけなのかもしれない。
それほどに、この世界の人間は進化しているのだ。そう考えると、自然と怒りも収まっていく。
「あの似非女神、絶対に間違えただろ。あんまり出来が良さそうな女神じゃなかったからな。早く出て来て、間違えたからもう一回飛ばし直しますって言いに来てくれよ」
そんなことを言いながら、門のように立ちはだかる二本の巨大な柱の間を通ろうとしたその瞬間、突如として事件は起こった。
『識別番号取得不可。識別番号取得不可。直ちに所属を明らかにし、識別番号を提示して下さい。繰り返します。識別番号取得不可。識別番号取得不可。直ちに所属を明らかにし、識別番号を提示して下さい』
突然辺り一面が赤い光で包まれ、けたたましいサイレンが鳴り響き始める。周囲のビルの側面には、赤い光のラインが何本も浮かび上がり、柱の上では赤い光が鳥籠の中を逃げ惑うように回転し続けている。
「な、なんだ?一体何が起こって……」
突然の周囲の様子の変化についていけずに、俺は狼狽しながら周囲を見回す。どこの世界でも、赤が危険を示す色というのは変わらないはずだ。
あれだけ平和に流れていた時間が一変し、壮絶な戦場へと変わり果てる光景を想像してしまう程、荒々しい音と色が街の隙間を駆け巡る。
俺は慌てて周囲に視線を巡らせる。慌てていたせいで、目に映る情報のどれだけを整理できたのかもわからない。それでも、確かなことが一つだけあった。
辺り周辺の人間たちの視線の全てがこちらに向けられているのだ。この状況を理解し難い俺は、何度か周囲を見回すが結果は変わらない。
「このサイレンの原因って、俺、なのか……」
まさか予想だにしていなかった。異世界転生されて、まだこの街のことを何も知らない内に、いきなりこの世界の敵認定をされるなど、誰が予想するだろうか。
そうだ、これはあれだ……。負けイベントってやつだ。一度拘束はされてしまうものの、実は皆良い奴で、仲間として戦うとかいうあれだ。
俺が皆の視線を受けながら、現実逃避の思考を巡らせていると、やがて、ビルを走る赤い光の線が増殖し、再び何処からか機械音声が鳴り響く。
『一定時間認証番号を提示されない場合、如何なる理由も省みず、排除活動へと移行します。繰り返します。一定時間認証番号を提示されない場合、如何なる理由も省みず、排除活動へと移行します』
冷たく感じるほどに感情の込められていない機械的な音声が背筋を舐める様に這い、この言葉に嘘偽りがないのだと俺の心に釘を刺す。
「おいおい……。いくらなんでもハードモード過ぎるだろ。あの似非女神、なんて世界に飛ばしやがったんだ」
ここを動かないのが一番危険だと自らの脳が警鐘を鳴らしている。スポーツをしていると、嫌でも危機察知能力というものが身に付くのだ。
俺がこの場を離れようと、一歩前へ脚を踏み出した瞬間、これまでのサイレンのけたたましい音に混じりながら、空気を切るような異質な音が耳をつんざく。
そんな音をかき鳴らして俺の目の前に現れたのは空飛ぶ人間だった。
他の人間たちとは明らかに異なる分厚い宇宙服のような衣服を身に纏いながら、その背中にはバックパックが装着されており、そこにあるブースターの推進力で浮いているようだった。
だが、そんなことを考えている場合ではない。もっとヤバイものが、彼らの右手には握られていた。黒く塗りつぶされた金属の塊。俺に向けられた奈落の底からは死を運ぶ臭いが漏れ出していた。
「最後の警告だ。認証番号を提示しろ。さもなくば、如何なる理由に関わらず、お前を排除する。これは脅しではない。繰り返す。認証番号を提示しろ。さもなくば、如何なる理由に関わらず、お前を排除する」
肉声を向けられて先程の機械的な警告がさらに現実味を増す。
俺はここで殺される。異世界転生をしてたったの数時間で死ぬ主人公など、俺の知る物語には存在しない。
「これが、現実ってやつか……。実際に異世界転生したところで、あんなに上手く立ち回れる奴はいないってか……」
俺はブツブツと独り言を呟きながら、相手の動きを待つ。彼らは恐らく警察のようなものなのだろう。飛翔する二人の男が躊躇なくこちらに銃口を向ける。
こちらにも交渉の余地を与えるつもりなのか、直ぐにその銃口が火を吹くことはなかった。だが、逃がすつもりは全く無いと言うように、銃口を下ろす気配は微塵もない。
仕方なく俺は両手を挙げて戦闘の意思がないことを示し、交渉を持ちかける。
「済まないが、俺は認証番号なんてものを知らない。そもそもこの世界がどういう場所なのかも知らないんだ」
知らないで許されるのなら、それこそ目の前の彼らは必要ないだろう。それでも、こちらにはあまりにも手札が無さ過ぎるため、素直に現状を話す他無いのだ。
「認証番号を知らないだと。そんなはずがあるか。認証番号がなければこの国に足を踏み入れることすら許されないはずだ。貴様がテロリスト共でない限り、認証番号がわからないなどと言うはずがない。認証番号は提示できないのだな?」
そんなことを言われても無いものはどうすることもできない。俺は歯を噛み締めながら、浮遊する彼らをただただ眺め続けた。
こちらの沈黙を肯定ととったのか、浮遊する二人は周囲の住民に避難勧告をし始める。
「これより、識別不能者を排除する。周囲の民間の方々は直ちに屋内などに避難し、施錠を徹底して下さい。繰り返します。これより排除活動へ移行します。周囲の民間の方々は直ちに屋内などに避難し、施錠を徹底して下さい」
周囲の民間人がまるで流れ作業のように避難を始める。こういう時は普通、阿鼻叫喚に包まれるものかと思っていたが、この世界ではそうはならないようだ。
まるで避難訓練を日頃から練習しているかのように迅速な非難が始まる。
周囲の人間が避難を完了してしまえば俺に逃げ道はない。逃げ出すとすれば今をおいて他にないだろう。民間人に被害を加えることを警察がするはずがない。避難勧告をしているのだから、その常識はこちらでも通用するはずだ。
そう思った俺は咄嗟に踵を返して走り出す。とにかく人の波に紛れて、奴等が入れそうにない屋内や、ビルの隙間を駆け巡るしか生き残る道はない。
「何なんだよ、この世界の秩序ってやつは!!何の理由も聞かずに殺すのが、この世界の常識なのかよ」
愚痴を溢さずにはいられない。生死を彷徨っているにも関わらず、怒りが心の奥底から込み上げてくる。辺りが赤く染まっているので、気持ちが余計に興奮しているのかもしれない。
「待てっ!!」
カチッという引き金を引いた音と共に銃口が火を吹き、そこから吐き出された銃弾は、俺の足元で火花を散らしながら弾け飛ぶ。
「ひっ……」
初めて向けられた銃弾に俺は思わず悲鳴を上げる。これが当たっていれば、痛いなんてものじゃすまないのだ。
奴等は本当に撃ってくる。ここは日本ではないのだ。話し合いなどという悠長な考えをしていれば、そこに残るのは蜂の巣にされた亡骸だけだ。
俺は全力で駆け抜ける。これまでだって死ぬほど走ってきたのだ。自らの脚力には多少自信がある。縮んだふくらはぎの筋肉が一気に爆発し、俺は凄まじい速さで加速していく。
逃げ遅れた人の隙間を縫いながら、俺はなんとか摩天楼の回廊へと逃げ込む。上空からの攻撃をなるべく避けるために、屋根を探しながら、ひたすら走り抜ける。
「逃がすな!!追え!!排除して構わん!!」
追い付かれるのは時間の問題だ。相手は見るからに体力など必要としていない。生身の俺が持久力で勝てる訳がない。
「くそっ!!異世界なんだから脚力を強化するとか、どっか遠くに飛ぶとか、そういう魔法がないのかよ」
どう考えたって魔法が使えるような世界ではないとわかっていても、せっかくの異世界転生なのだから魔法が使えてもおかしくないだろうと、現実逃避の一つもしたくなる。
そんなとき俺の頬を一発の銃弾が掠める。頬に焼けるような熱を感じたと思うと、そこからは既に赤い鮮血が飛び散っていた。その赤黒い液体を眼にしただけで一気に恐怖心が込み上げる。あと数センチずれていれば、俺は地面に伏していただろう。
額からは汗が吹き出し、垂れた塩水が頬を突き刺す。焼けるような痛みは、意識を奪うように神経へと腕を伸ばす。
「ヤバイ、ヤバイ、ヤバイ……」
焦りと疲労感で足元が覚束なくなり始める。全力で逃げることの出来る距離などたかが知れている。涙が視界を奪い、世界が揺らぐ。
それでも全力で脚を回し続けた俺は、遂にその場で転倒し、空を飛び交う彼らに追い詰められてしまう。もう、逃げ場など何処にもない。あるのは二度目の死を招く銃口だけだ。
「何なんだよ……。俺の二度目の人生、短すぎるだろ……」
もう立ち上がる気力も湧きはしない。銃口は獲物が動く気配がないことを悟ったのか、ゆっくりと額に向けてその牙を剥く。
あの似非女神、もしもう一度会うことが出来るのならば散々に文句を言ってやる。こんな仕打ちを受けたのだ。文句をいうだけでは割に合わない気もするが……。
「排除執行!!」
その言葉と共に俺は瞼を閉じて死を覚悟した。走馬灯を見ようにも、この世界での時間があまりにも短く、何も脳裏を過ることがないまま、俺はただ襲い掛かる死を待ち続けた。