正しさのその先へ
-Side of Akito-
次々と崩壊していく廃ビル群。こちらから戦況を理解することはできない。ただ、絶え間なく起こる閃光と爆音だけが、戦場の激しさを視覚や聴覚、そして触覚を通して身体に刻み込んでいく。
誰も口を開こうとはしない。彼らが緊張や焦燥を感じることは無いはずなのだが、それでもこの空間を包み込む空気が彼らから言葉や余裕を奪っているのだろうか。
サラから伝えられているのは、ヴィンセントたちの防衛ラインを抜けて、敵がこの基地周辺で構える第二陣まで到達することがあれば、基地の地下道を抜けて、レジスタンスの本部まで逃げること。その時は、ここに居る仲間たちは見捨てていかなければならない。
「アキト様、先程から足が震えていますが、大丈夫ですか?」
先程の流れ弾での俺の反応を見て、サラが俺を基地の中へと引きずり込んだ。これ以上、俺に戦場を見せる訳にはいかないと考えてのことだろう。だが、俺の記憶に刻まれた恐怖は、そう簡単に俺を解き放ってはくれない。脚の震えは、地響きとともに増していくばかりだ。
「もしもの時に、走る準備はできていますか?」
俺に与えられた使命は逃げることだけ。誰にも戦場に立って戦えなどとは言われていない。だというのに、俺の身体は恐怖で動こうともしないのだ。仲間たちが、機械であろうとも命を賭して戦っているというのに……。
だが、俺は彼女の言葉を否定することはできない。戦場から逃げ出してしまえば、この恐怖からも逃げ出すことができる。自分の意志に反して、脳が戦うことを拒否しようとしている。
ここから逃げ出したい。自分が生きていた世界がどれだけ生き易い世界だったのか、今ならば考えるまでもなく答えが出る。
異世界転生なんて自ら望んでするものなどではない。早く元の世界に戻りたい。もうこんな世界はこりごりだ。
そう思っていたはずなのに、俺は耳元でつんざくような爆音を聞いた瞬間、頭の中が真っ白になって、その音に引き寄せられるように外の世界へと、閃光と爆音が鳴り響く戦場へと脚を踏み入れようとしていた。
恐らく、敵の一部がこの第二陣まで到達したのだろう。目の前で戦争が始まったのだ。それは、暗にアザミやヴィンセントたちの命の危機を指し示すもの。俺を護ってくれている彼らが、命の灯火を吹き消されそうになっているということ。
本当は怖い。今すぐにでも逃げ出したい。脚が震えて仕方がない。皮膚に爪が喰い込んで血が流れるほど拳を握っていないと震えが止まらない。頭が真っ白になって、感覚が麻痺しているだけなのかもしれない。
それでも俺は、その震える脚で戦場へと踏み出そうとした。だが、それをサラが許すはずがない。
「何を考えているのですか?ここはもう限界です。ヴィンセント様の防衛ラインを越えられた時点で、私たちが選ばなければならない選択肢は一つです」
サラは俺の腕を強く握る。人の力でどれだけ抗ったところで、機械の彼女を振り払うことはできないだろう。
「外で皆が戦っているんだ。俺だけ逃げ出すなんてそんなこと……、できる訳がないだろ」
俺はサラと視線を合わせることもなく、静かに俯いたまま言葉を紡ぐ。その声は外の轟音に容易に掻き消されてしまいそうなほど小さく、けれどどれだけの轟音であろうとも聞き逃すことができない程の意志を含んでいた。
「なぜですか?今、あなたが戦場に出ていったところで何ができるというのですか?むしろ、死人が増えるだけです。あなたが戦場に出ないことこそ、今の私たちにとっての最善策なのです。ならば、それを選ばずして何を選ぶと言うのですか」
サラの声音から母性が消えている。俺の一番嫌いな、感情の色の見えない淡々とした言葉が、俺の耳を通して心を切り刻んでいく。
サラの言葉が正しいことくらい、俺にだってわかる。それが最善なのだと、誰もがそういうだろう。だけど、そうじゃない。俺はそんな正論を聞きたい訳ではないのだ。
「ああ、そうかもしれない。お前が言っていることが正しいことだってわかってる。俺が出ていったところで何ができる訳でもないし、余計に皆の脚を引っ張るかもしれない」
そんなことはわかっている。だとしても、譲れないものがあるのだ。感情を持つ人間として、正論では通用しない、感情論が勝るものがあるのだ。
だから俺は、彼女にありったけの感情と敵意をぶつける。彼女の中には存在しない、けれどきっと彼女だって持つことのできる何かに訴えかける為に……。
「だからって、目の前で仲間が苦しんでいるのに、俺だけ逃げ出せって言うのか……。冗談じゃない。アザミやヴィンセント、他のみんなだって戦ってるんだ。正論なんて、正しい答えなんて知るかよ」
感情がひしめき合って、今自分が抱いている感情がいったい何なのか、自分でもわからなくなる。でも、感情なんて元々そんなものだ。だからこそ、機械で再現することが困難なのだ。
「お前たちは正しい答えがわかるのかもしれない。ああ、そりゃすごいよ。答えが全部わかるって言うんなら、迷う必要がないもんな。でもな、本当にそれが正しい答えなのか?やってもいないのに、それが正しいってわかるのかよ」
それこそ彼女の正論よりも根拠がなくて、説得力の無い言葉だって理解はしている。それでも退くことなどできないのだ。心を持った人間として……。
「幾多の計算により、一番被害の少なく、一番確率が高い手段を選択しています。これを最善策と言わず、何と言うのですか?」
「その計算には、可能性って数値は含まれているのか?人の心ってやつを、数値化して計算してるって言うのか?」
「そのような不確定要素は数値化することはできません」
「そうだよ、数値化なんてできやしないんだ。なのに、どうしてそれが最善なんて言い切れるんだ。やってみなきゃわからないだろうが。そんな適当な計算で、どうしてお前たちは納得できるんだよ。そこにあるかもしれねえ可能性を、どうして捨てられるんだよ」
悲鳴にも似た俺の声は彼女に届いたのだろうか。こんな言葉に説得力なんて欠片もない。あるのは勢いと、根拠のない感情論だけだ。
そして彼女は一瞬押し黙ると、感情の無い瞳でこちらをしっかりと見据え、その口から俺の嫌悪する冷たい声音を漏らした。
「イガラシ アキト」
初めて彼女が『アキト様』以外の呼び名で俺を呼んだ。その声音はまるで別人の様で、その瞳は最早色というモノは失われ、俺に恐怖を刻み付けていく。
「それで気は済みましたか?今のあなたの言動は説得力に欠けます。それこそ、あなたが私の選択肢を納得できなかったように、その可能性を私が納得するだけの根拠がありません」
ダメだった……。俺の言葉は、今の彼女には届かなかった。
当然だ……。そんな簡単に届くのであれば、第一世代の奴らが感情を持っていない訳がないのだ。わかっていた、わかっていたはずなのに、悔しくて仕方がない。無力な自分に嫌気がさす。
「どうして……、どうしてわかってくれないんだ」
「わかりません。わかりたくても、自らに備わっていないものを理解することはできません」
俺は奥歯を噛みしめて歯軋りをする。そのまま顎が外れてしまうのではないかと言う程に、強く、強く……。
「命令なんてどうだっていい。俺はお前の言葉を聞きたいんだ」
ともすれば、子供の我が儘のような、感情論だけで述べられた言葉。何でもいいから彼女に届けたいという思いから、口をついて出た言葉。
「そんなもの、私たちには存在しません」
身体から力が失われていくのを感じる。最早、これ以上彼女に感情をぶつける勇気は無くなった。
そんな俺の気持ちなど意に介することなく、彼女は再び俺の腕を握りしめる。彼女はもう離すつもりもないだろう。彼女の中には、俺を逃がすことが最善策であるという確信がある。そして、俺が逃げ出す可能性が大いにあることも、俺が彼女の力から逃れられないことも、全てを理解しているはずだ。
ならば、俺が抗うために出来ることは、たった一つしかない。それこそ、これが最善策だとは絶対に思えない。けれど、俺は可能性を捨てたくない。護れるかもしれない仲間を、見捨てることなんてできはしない。
不意に甲高い金属音が鳴り響く。その音が何の変化をもたらしたのか、客観的に見て直ぐに理解できる者はいなかっただろう。
金属音がして数秒の後、俺の腕からサラの手首がゆっくりと滑り落ちていく。彼女が俺の腕から手を離したのではない。彼女の手首だけが、俺の腕から力なく離れていったのだ。
俺は彼女の手首を斬り落とした。俺に与えられた唯一の力で……。俺がこの世界に呼ばれた、生身の人間だけが扱いうる力で……。
これが最善策なんて思っていない。エヴァに言えば簡単に直してもらえるとわかっていても、後ろめたさを拭えない俺は、彼女と視線を合わせることもできず、俯いたまま一言だけ漏らした。
「ごめん……」
俺はその言葉を合図にするように凄まじい勢いで踵を返すと、彼女には目もくれずに必死に走り出した。彼女は一体どんな表情を浮かべていたのだろう。彼女は俺のことを嫌いになるだろうか。そんな訳ないよな。彼女には感情なんてないんだから。『嫌い』なんてもの、知らないよな……。
そんな言い訳を自分の心に言い聞かせながら、俺は彼女を振り返ることができないまま、必死に脚を動かす。相手に感情が無いとわかっていても、相手の気持ちを考えずにはいられないのだ。
「待って下さい、そっちに行っては……」
去り際に聞こえたその声は、これまでで一番感情が込められた声だった。これ以上なく焦っているはずなのに、どこか心が落ち着くのを感じながら、俺は彼女を振り切って戦場へと飛び出した。
外は荒れ狂う戦場だった。この世界に転生されたときの戦いですら、腰が引けて脚が動かなくなったというのに、そんなものとはまるで比べものにならない本当の地獄がここにはあった。周囲は爆炎と黒煙に包まれて赤黒く染まり、爆発は絶え間なく地響きと轟音を解き放つ。
総勢合わせて百を超えるアンドロイドたちが入り乱れるように銃弾を撃ち合い、灼熱の閃光と鼓膜を破るような轟音が絶え間なく鳴り響いていた。一瞬でも気を抜けば、あの爆炎の餌食になることは想像に難くない。
大見得を切ってこの場に出てきたにも関わらず、その光景を目にした途端に再び脚が震えて動かなくなる。
廃ビルは次々と崩れ落ち、瓦礫の山が所狭しとひしめき合い、その所々に既にぐちゃぐちゃにひしゃげた機体が転がっている。もうそれは、人の形すらしていないただの金属の塊だった。
「恐がってどうすんだよ。何のために助かる可能性をわざわざ捨てて、ここに来たと思ってんだ」
俺は自分の脚を思いきり叩きながら、自分に言い聞かせるように呟く。ここで立ち止まっていても、巻き込まれて死んで終わる。だったら死ぬ気で戦場を駆け抜けた方が、余程生存率が高い。いつものように走り回るだけ。ただそれだけのはずなのに……。
普段なら息をするようにできていたことが、突然できなくなる。そもそも呼吸すらも、普段通りに出来ているのかもわからない。意識しなければ呼吸が止まってしまいそうになる。
だが敵はこちらが落ち着くまで待ってくれるはずなど無い。俺の存在に気付いた一機が、何の躊躇いもなくこちらに砲口を向ける。あの砲口が火を噴いた瞬間、俺の身体はバラバラに砕け散る。
「クソ野郎おおおおおおおお!!」
俺の叫び声を合図にするように、その機体は俺に砲口を向けたまま躊躇なく引き金を引いた。そして俺もまた、まるで徒競走のピストルのように、その砲声を合図に地面を蹴って走り出した。
俺は近くの廃ビルに向けて腕を差し出すと、手首の先から凄まじい勢いでワイヤーが放出され、廃ビルに突き刺さったワイヤーは俺が走るよりも速い速度で俺を引っ張り上げる。
俺が元いた場所に砲弾が着弾すると、地面にクレーターのような大穴を穿ちながら、激しい爆風と熱を撒き散らす。その爆風に巻き込まれながらも、ワイヤーにより無傷でその爆風から逃れる。
脚の裏に血液を鋭く凝固させると廃ビルの側面に突き刺して、まるでトカゲの様に廃ビルの側面に張り付く。そして向かい側の側面に再びワイヤーを伸ばしながら、廃ビルと廃ビルの間をまるで蜘蛛のように移動していく。
この一週間で、ヴィンセントたちの様にブースターを装着できない俺が編み出した移動方法。空中を闊歩するアンドロイドたちと戦うには、ブースターなしで空中戦を行う必要がある。人間の体重などものともしない強靭なワイヤーと凄まじい射出速度があってこその技だ。
ちなみに俺がブースターを使用すれば、身体がバラバラに砕け散るらしい。
相手は俺の移動手段に多少困惑したような様子を見せながらも、こちらに照準を定める。ワイヤーでの移動は先が読まれ易い。だから持久戦はできない。一気に距離を詰めて決めるしかない。
敵の砲声を合図に俺はワイヤーを射出し、砲弾を寸でのところで躱しながら、隙のできた敵に接近する。俺は即座に掌から血液を吐き出し、深紅の剣を生み出す。あとはこれで、相手の首根っこを切り裂くだけ……。
「墜ちろおおおおおおおおおおお!!」
のはずだった……。だが、俺はその一瞬に迷いを抱いてしまった。仲間の手首は簡単に斬っておきながら、敵の首を斬ることに躊躇してしまった。
何てことは無い。首を斬れば相手は破壊される。人間と同じ姿をした者が破壊されるということは、それは人殺しと何ら変わらないと、そう思ってしまったのだ。何度でも直せる手首を斬るのとは訳が違う。
俺は相手の首を斬り落とすこともできずに、相手の横を通り過ぎる。だが、敵がそんな隙を逃す訳がない。相手は機械だ。こちらの迷いなど知る由もなく、攻撃の機会があれば躊躇なく攻撃する。
俺がまだ次の廃ビルに到着するよりも先に、俺の背後で砲声が鳴り響く。逃げ場などない。あれだけサラに対して啖呵を切っておきながら、相手への攻撃を躊躇して、その相手に殺られるなんて。
しかし逃げ場もない。あとはまだ自分の視界にすら入っていない砲弾の着弾を待つだけだ。それを感じた時には、俺はもうこの世にはいないのだろう。
「本当に、ごめん……」
先程の言葉の続きが、サラに対しての謝罪の言葉が口をついて出る。結局サラが言っていたことが正しかったのだ。俺が戦場に出たところで、何もできずに死んでしまう。そんなこと、わかり切っていたはずなのに……。