1.運命の女神
『その昔、この地に1人の魔女が降り立った。金色の髪に青い瞳を持ち、未来を予言する力を持っていたという。魔女はこの地を終の棲家とし、彼女の子孫は代々女性だけ不思議な力を受け継いだ。触れた人物の未来が視える彼女たちは《運命の女神》と呼ばれるようになった。時の権力者の相談役を務めるなどして、特別な存在になったのである。』
「おばさん、おはよう!」
「おはよう、アリス」
ベーカリーショップのドアを開けて、わたしの1日が始まる。
温かい匂いに包まれて幸せな気分だ。
くるみとレーズンの入ったパンが3つ入った袋をレジへと運ぶ。
「学校は夏休みに入ったんだっけ?」
「うん」
小さい頃から変わらない、レニーおばさんのふくよかな笑顔。
「お父さんは元気?」
「元気だけど忙しそう」
「街一番のお医者さまだものねぇ」
レニーおばさんはわたしからコインを受け取ると、パンを軽やかに袋に入れた。
「そうかなぁ」
「そうよ。腕も良くて皆んなに優しいって評判なんだから。はい!」
「ありがと」
パンを受け取ったその時。
「え〜信じられないわ!」
「でも《運命の女神》が!」
2人の中年の女性が店に入ってきた。
《運命の女神》。
その単語に胸が小さく飛び跳ねた。
「おはよう、レニー。ねえねえ聞いた?《運命の女神》の話!」
女性のうち、背が高くて痩せた方が片手をひらひらさせる。
「え…?いいえ、知らないわ」
おばさんはわたしをちらりと見た後、控えめに微笑んだ。
「北の街の領主さまの娘さんが重い病気にかかって、お医者さまも匙を投げちゃって。でも諦めきれなくて、領主さまは《女神》に娘さんの未来を視てもらったらしいのよ」
背の高い女性は興奮気味に早口で続ける。
「そうしたら、余命は2カ月。運命は変えられないと言われて。そりゃそうよね」
「ところが!」
隣の眼鏡をかけた女性が身を乗り出す。
「甘いものが大好きだった娘さんがね…あるお菓子を食べたら病気が治っちゃったんだって!」
「えぇ?」
わたしとレニーおばさんの声がハモった。
「すっかり元気になった娘さんをつれて領主さまが《女神》の屋敷に連れていったら、真っ青な顔してたらしいわよ。『奇跡が運命をひっくり返すなんてありえない。あってはいけない事だ』って」
「まぁ…」
レニーおばさんは再びわたしに視線を送り、
「そんなに美味しいお菓子だったのかしら。うちのパンにもそんなに力があったら良いんだけど」
と微笑んだ。
「ここのパンは美味しいから、あるかもしれないわよ!」
女性たちは大きな声で笑ったあと、スッと声のトーンを落とした。
「…でもね、今の《運命の女神》は歴代の中でも気性が激しいっていわれてるじゃない?恥をかかされたそのお菓子屋を《処分》するんじゃないかって、皆んな噂してるの」
「そんな…」
レニーおばさんは息を飲み、
「こんな南の方まで噂話が届いてるんだもの、中央は大騒ぎでしょうね…」
困った顔をしながら、そう呟いた。
中央は《女神》の屋敷がある近代的な都市の呼び名だ。
それを囲むように東西南北に街があり、わたしたちはのどかな南に住んでいる。
奇跡のお菓子屋…。
「そのお菓子屋はどこにあるかわかってるんですか?」
今まで黙って聞いていたわたしは思い切って口を開いた。
「それが、それが!不思議な話でね!」
その質問を待っていたように眼鏡の女性が声を高くした。
「もう一度領主さまの娘さんがその店に行こうとしたんだけど、忽然と消えていたそうなの。いくら探しても建物自体もなくて。西の森の中にあったらしいけど」
「《女神》はきっと必死になって探すと思うわ」
わたしはベーカリーショップを出て、自宅のある小高い丘を上った。
坂道の途中で立ち止まり、風に煽られる髪を抑え、街を見下ろす。
わたしが生まれ育った街…。
《運命の女神》が暮らしている中央の街には行った事がなかった。
わたしの母がかつて暮らしていたその場所には。
母は金髪の巻き毛に青い瞳を持つ、《運命の女神》だった。
ただ、生まれつき病弱だったのであまり表で活動はできなかったらしい。
そして屋敷に出入りしていた医師の弟子であった父と恋に落ちた。
《運命の女神》は神聖な存在なので、結婚相手は身分の高いものや血縁に近いものを集め、運命を視て決められる。
叶わぬ恋の為に2人は駆け落ちをした。
追っ手がかかるかと思ったが、あまり役に立たない長女がいなくなり、正統な《女神》の第1後継者になりたかった次女はこれをチャンスと考え、この話は公にならなかった。
その次女が今の《気性が激しい女神》だ。
母はこの街でひっそりと暮らし、(出かけるときは髪をスカーフで隠し、瞳の色がわからないようサングラスをした)わたしが5つの時に亡くなった。
代々《運命の女神》の血筋の女性は金髪で青い瞳で、
幼少の頃に人の運命を視られるようになる…らしいけど、わたしは父親ゆずりの真っ黒な髪に薄い紫の瞳。
そんな能力に目覚めることもなく、17歳になった。
自分に似て欲しくないと言っていた母の願いが叶ったのかわからないけど、普通に暮らせている。
父の親類であるレニーおばさんはわたしの生い立ちを知ってるけど、変わらず接してくれてるし。
「駆け落ちってのも、『奇跡が運命をひっくりかえす』ってことなのかなぁ」
つぶやいてみたけど、風の音にかき消された。
「アリス、お帰り」
家に戻ると、顔を洗っていた父がタオルを手にしながら振り向いた。
「戻ってたんだ?」
「とりあえず落ち着いたから大丈夫そうでね」
早朝、老夫婦の家から電話があり、父は着の身着のままで飛び出して行ったのだ。
「そう、良かった」
「でもこれからまたもう一軒行ってくるよ」
「えぇ?大変だね。パン食べていく時間ある?」
「じゃあ1つもらってく」
わたしが袋を開けると父は1つ手に取り、立ったまま食べだした。
「座って食べたら〜?」
わたしがにらむ真似をしても笑顔でかわされた。
仕方ないなぁ。
わたしは冷蔵庫からオレンジジュースを取り出し、マグカップに注いで父に差し出す。
「ありがとう」
「医者が忙しくて身体壊した、だなんて笑えないんだからね」
「わかってるよ」
父はジュースを飲み干すと、
「そうだ、アリスにお願いがある」
「なに?」
「果樹園のゾーイさんのところに行って、咳止めの薬を届けてくれないかな?まだ手元に少し残ってるから急がなくていいとは言ってくれてるんだけど、少しでも早く届けたいんだ。でも今日は方向的に行けなくて」
「いいよ」
その果樹園にはくだもの狩りをしに何回か行った事がある。
「この袋を渡してくれるといいから。じゃあ、頼むよ!」
そう言ってまた慌ただしく出て行った。
なかなか病院へ行けない、お年寄りの家庭や小さい子供のいる家庭を中心に訪問医療を行なっている。
きっと父の真面目でひたむきなところに母はぐっときたんだろうなぁ、なんて思いつつ。
とりあえず、朝食を食べよう。
「すっかり時間がたっちゃったなぁ…」
ゾーイさんの家を出ると、空はオレンジ色に染まっていた。
薬を届けに行ったら、ゾーイさんご夫婦は喜んでくれてお手製のアップルパイを振舞ってくれたりした。
そしてお孫さんが遊びにきて一緒に絵本を読んだりしていたら、あっという間に夕方だ。
「あれ…?」
果樹園の隣にある森の小道が明るく照らされている。
綺麗に整備されてるけど、この奥に何かあったっけ?
わたしは少し寄り道をして、森の中に入ってみる。木々に囲まれて空は見えなくなったけれど、続く一本道は煌煌としている。
どこかにライトが?
あたりを見回してみるけど、よくわからない。
そして、大きな木に赤い矢印の看板が打ち付けられているのを見つけた。
矢印の中には白抜きで文字が書いてある。
「美味しいお菓子屋はこちら」