9 決死の脱出
(what?)
そして俺は呆気に取られて何もできないまま、リビングに立ち尽くしていた。
――取り残された。
控えめに言って置いてけぼりにされた。
だが実際は生け贄や捨て駒にされたといっても過言ではない。
「帰ったぞ」
と、玄関の方から野太い男の声が聞こえる。
俺の立っている場所は玄関からは微妙に死角になっていて、男にはまだ見つかっていない。
だが。
だが、しかし。
――帰ってきた旦那と俺が鉢合わせるのも時間の問題である事は間違いないだろう。
(ミィイイイイイイイイイイイイイイッッックゥウウウウウウウウッッ!!!)
絶体絶命の状況に追い込まれた俺は心の中で目一杯叫んだ。
正面に立つ女が皿を片付けながら“で、アンタはどうするの?”というしらけた視線を送ってくる。
(落ち着け俺、まだ時間はある。冷静に考えるんだ)
まるで俺の脈拍を体現したかのように、こちらへ近づいてくる男の足音が一定間隔で鳴り響く。
ここは冷静に考えて、この状況を脱しなくてはならない。
こんな危機的状況でもこの場を解決できる選択肢は無限に存在するし、それを見つけ出せばいいだけの話だ。
深く息を吐いた俺は目を閉じ、即座に解決策を捻り出す。
その一、窓を突き破って脱出。
その二、煙幕を張る。
その三、気絶させる。
その四、普通に話しかける。
その五、強盗の演技をする。
その六、変装をする。
(よしっ! 充分選択肢がある!)
危機的状況の中、数秒でこれだけの選択肢を思いつければ上々だろう。
まず、一番手っ取り早いのは窓を突き破っての脱出だが、音が出て目立つのでできればやりたくない。
そして男を傷付けるのも避けたい。
となると、煙幕か変装だ。
が、煙幕はここから先の仕事で使う可能性がある。
つまり変装で乗り切るのが無難だろうと判断する。
そう考えた俺は早速変身したい対象を思い浮かべてスキルを発動した。
ボフン、と空気が弾けるような音と共に煙と稲妻が走り、俺を包み込む。
「え?」
突然の事に驚く女。
が、俺はそれに構っている暇など無い。
「何かあったのか?」
と、そこで玄関からこちらへ進んで来ていた男がリビングの扉を開けてにょっきりと顔を出した。
「いえ、何も?」
と、イーラに変装した俺が答える。
「え、どちらさん?」
俺の変装した顔を見て、びくりと身構える男。
そりゃあ、朝っぱらから他人が家に上がりこんでいるとは思わないだろう。
だが、男の表情はその程度の驚き方だった。
決して、奥さんと夜通し何かしらの行為に及んだ男が家の食材をふんだんに使った朝食を披露して朝から酒盛りをしていた事実に気づいて驚いた顔ではない。
ギリセーフだ。
「ごめんなさい、私、友人のケン子と言います。一緒に朝食をどうかと誘われたのでお邪魔していましたのよ」
俺は口元に手を当て、おほほほ、と言わんばかりの表情で事情説明を試みる。
これで凌げる! はず……。
「あ、あんた一体何やったのよ!?」
が、ここで女の方が混乱状態になり、声を上げた。
死角から来た右フックのような言葉に驚き、ついアヒル口になって女の方を振り向く俺。
自分にも被害が及ぶことだし、アドリブで上手く合わせてくれると勝手に思い込んでしまっていたのだが、そう上手くはいかなかったようだ。これは予想外。
そこは大人しく俺の演技に合わせてくれた上に笑顔で見送るところだろうが、と心の中で盛大に毒づく。
「オホホホ、それでは失礼しますわね。ごきげんよう」
それでも俺は演技を通し、男の横を通り過ぎて玄関を目指そうとする。
が、通り過ぎ様に男が俺をギロリと睨んだ。
「見ない顔だな?」
俺を見ていぶかしみ、疑いの眼差しを向ける男。
「ねぇ!? ど、どうなってんの!?」
俺の肩を掴んで揺すり、慌てふためく女。
女に肩を掴まれたせいで俺は前に進めず、立ち止まってしまう。
ここは女を振り払って玄関までダッシュすべきだが、すぐ横には男が睨みを利かせている。
最悪だ。
「とうっ!」
「……ぁ」
俺は素早く翻り、女の首に手刀を当て、気絶させた。
「な!? テメエ! 人の女房になにしやがる!」
俺の凶行に激怒する男。
男は俺に掴みかかろうと迫った。
「うるさい黙れ! こいつを殺されたくなかったら玄関まで下がれ!」
俺は気絶した女を背後から抱きとめ、首に鉄杭を当てて男を脅す。
「わ、わかった女房に手を出すな……」
両手を上げてじりじりと後退る男。
男は怒りと焦りが入り混じった表情で俺を睨む。
「ハッ!」
俺は男が充分後退したのを見計らって女を放し、リビングの窓を蹴破って外に飛び出した。
ガラス片が俺より先に地面に着地し、甲高い音を立てる。
俺は【張り付く】を使って落下距離を調節しながら地面へと着地した。
そして一刻も早くこの場から離れようと一心不乱に駆け出す。
結局、思いついた選択肢の二番以外全部採用となる結末を迎えてしまった。
まあこの際贅沢は言っていられない。そこそこ穏便に脱出できただけでよしとするべきだろう。
「お、窓から飛び降りるとかイカした姉ちゃんだな。俺と今晩どうだ?」
大通りへと飛び出した俺を見て、ミックがどこからともなく現れる。
「うっせぇええッ! 逃げるぞ!」
俺はそんなミックの手を引いて全力疾走で住宅街から離れた。
「お、積極的だね。その神秘的な美貌で俺をどこに攫って何をしてくれるのかな?」
などと上機嫌の表情で呟くミック。
「残念だったな! 俺だ!」
しばらく走り、変身の効果が解ける。
煙と稲妻がイーラの姿に変装した俺を包み込み、晴れる頃には元の姿に戻っていた。
「何やってんのお前? 俺みたいにもうちょっとスマートに逃げて来いよな」
元の姿に戻った俺を見るなり掌を返したように豹変し、冷たい言葉を返すミック。
「お前……」
俺は無意識にギリギリと奥歯をかみ締めてしまうのだった。
…………
「お前のせいで散々な目にあった……」
妙な疲労感を覚えた俺は通りを歩きながらぶつぶつと恨み節を呟く。
顔バレしないか気をつけて歩かねばならないはずなのに、そんな事を気にする気にもなれない。
「そうカリカリすんなって。っと、悪い」
軽い。とても軽い。肉抜きしたミニ四駆のシャーシくらい軽い感じでミックが笑顔で言ってくる。
しかも俺に気を取られて正面から来た人にぶつかる始末。
以前も思ったが、こいつはどうにもお調子者過ぎる気がする……。
「しかもそれが女絡みっていうのが更にむかつく……」
こいつは散々良い思いをしただろうに、俺は朝っぱらから心臓と胃に負担をかけてばかりだ。
そう思うとどうにも腹立たしい。皆、俺の内臓にはもっと優しくすべきである。
「なんだよ、女くらい適当に口説けばいいだろ?」
笑顔のミックは俺の肩を気安い感じでぽんぽんと叩きながらそんな事を言う。
「お前、すごく簡単に言うよな……」
息苦しいなら空気を吸えよとか、間に合わないなら走ればいいだろって感じだ。
だが、それに関しては俺の周囲は宇宙に等しいせいで空気は存在しないし、無重力空間なので走っても前には進めない状態なんだ。努力が足掻くのと同義で、もがけばもがくほど寿命が縮むだけという状況なのである。
「実際簡単だろ? 俺なんて昨日酒場で適当に話したらすぐだったぞ?」
息を吸うのも走るのも簡単だろとでもいわんばかりの勢いで難易度の低さを強調するミック。
「それはお前がすごいからだ。普通はそうならん」
この場合、俺が特別ひどいからというわけではなく、世間一般でもそううまくいくことではないと言ってみる。
実際、ミック以外の男が酒場に行って女と適当に話したらどうなるかといえば目に見えている。決してネガティブなイメージに引っ張られて言っているわけではなく、あくまで客観的な意見だ。無理だって。
「なんで? 楽勝だろ? 俺は困ったことなんてないぞ」
前の世界でカレーが飲物と信じて疑わない同僚が俺のカレー感について疑問を持ったときと同じような表情になるミック。
お前らおかしいんだよ!
「……お前に、……お前に何が分かる」
きっとミックにとっては簡単なことなのだろう。
だが、俺にとっては……。
「簡単だって、楽しくおしゃべりすればいいだけだって、な?」
俺の肩に腕を回し、にこやかに女性を口説くのがいかに簡単かを力説するミック。
「ふ……、俺の気持ちなんてお前には分からないだろうな……」
俺はたそがれた表情で空を見上げながら呟いた。
残念ながらミックには俺の気持ちなんて一生わからないのだろう。
俺だってつい最近、豪華客船でちょっといい感じになりかけたことだってあったんだ……。
「分かる分かる、俺だってはじめから上手かったわけじゃないしな。何度か失敗していくうちにいい感じになる雰囲気とかも掴めてくるって」
自分も失敗を重ねて上達したんだと悟ったような表情で語るミック。
……しかし、俺の方はそんな話を聞いてふつふつとはらわたが煮えくり返る思いだった。
ちょっと我慢できそうにない。
「ちょっと前にいい感じになったのが、人を生け贄にする狂信者と、気に入った男の耳や歯をアクセサリーにしてぶらさげる変態だった俺の気持ちなんてお前には分からんだろうが!!」
俺だって……、俺だっていい雰囲気になったことだってある。
あるにはあったんだ。
まあその後は散々だったけどね!
などと考えていると怒りが収まらなくなってくる。
「大体昨日の夜だってそうだ。お前が美人人妻と寝技の乱取りで忙しくしてた頃、俺は独りわびしくソーセージいじってたらフォグが乱入してくるしよ」
「そ、それは気まずいな」
「その後はその後で、俺の大事なソーセージが火だるまになるわ、チンピラ十人が覚悟を決めた顔で襲い掛かってくるのを昇天させたら、今度は口だけが上手い奴が飛び入りで来るわで散々だったんだからな!」
「ソーセージが火だるま? 十人を昇天? で、最後は口? それは前も後ろも大変なことになってるな……」
「前とか後とか関係ねえよ! 俺の心はズタズタなんだよ!」
なんか微妙にかみ合ってない気がするも、会話は成立しているのでありったけの怒りをミックにぶつける。
「そ、そうか……、なんか悪かったな……」
俺の独白に驚き、言葉に詰まりながらも謝ってくれるミック。
なんか表情に妙な優しさを感じるのは気のせいだろうか。
「分かってくれたならいいよ」
俺は死んだ魚のような顔で微笑み返した。
「まあ、これで機嫌直せって、な?」
ミックは俺を哀れんでくれたのか、金を渡そうとしてくる。
強引に俺の掌にサイフごと握りこませてきた。
「お、おう。何もサイフごとくれなくてもいいのに」
金をせびったみたいになって気まずくなってしまった俺は言葉を濁す。
ちょっとイラッときたのは事実だが、別にこんな事をしてほしくて言ったわけではない。
しかもサイフごと全部とか、さすがに気が引ける。
「俺だと思って大事にしてくれよ?」
いつもの調子の良さそうな顔でニカッと笑うミック。
「本当にいいのか?」
妙に爽やかな笑顔だったため、金を返すということが咄嗟に思い浮かばず、受け取っていいのかと聞いてしまう。
「ああ、俺のじゃないしな」
爽やかな笑顔のまま即座に回答するミック。
「うおいっ! 誰のだよ!?」
俺はミックの発言に我に返る。
なんでこいつは他人のサイフを持ち歩いているんだ。
「……拾ったんだ」
などと言いながら妙に挙動不審になったミックは、さっきぶつかった男の方をちらっと見る。
「すいませーん! サイフを落としましたよーッ!!」
俺は必死の形相で通り過ぎていく男の後を追った。
なんとか追いつき、サイフを返す。
男は驚き、俺に何度もお礼を言ってくれたのが非常に心苦しかった。
「危うく犯罪者にされるところだったわ!」
無事男にサイフを返却しミックに合流する俺。
もう少しでスリの冤罪をなすりつけられるところだった。
こいつ……、油断ならん。
「まるで自分が犯罪者じゃないような言い方だな」
俺の言葉を聞いたミックが肩をすくめて溜息交じりに微笑する。
「危うく余罪が増えるところだったわ!」
俺は指摘された部分を微修正した。
どうやらミックは案外細かい奴らしい。
「そう、言葉は正しく使わないとな。いいだろ、スリ位。殺人に比べりゃクソみたいなもんだって」
二つの罪を天秤にかけ、どちらがより重いものかを指摘してくるミック。
しかし罪にかわりは無いわけで天秤にかける時点で間違っていると思うんだ。
「そんなクソを平気でなすりつけてくる奴が目の前にいるんだがな」
俺は呆れ顔でミックを睨む。
小さいから良いという判断は了承できない。
それにこんな俺でも、自分なりに一応マイルールは設けている。
何でも見境なしってわけじゃない。
こんなどうでもいい、何の意味もない場所で罪を犯すような真似は極力避けたい。
まあ、今から人を襲いに行く俺が何を言おうとも何の説得力も無いので無駄な抗弁であるが。
「ったく、小せえ野郎だぜ。行くぞ?」
「ああ、お前が俺よりビッグな男だってことはよく分かったよ」
俺はビッグな男であるスリの後に続く。
「だろ? 頼りにしてくれていいんだぜ?」
「頼ってなすりつけられたら溜まったもんじゃないんだけどな」
などと話しながら俺たちはミックが知っているであろう目的地へ向かうのだった。
…………
「と、そろそろ連絡しておくか」
しばらく街を進み、おもむろに立ち止まったミックが鞄から小鳥の模型を取り出す。
懐から紙を取り出すとスラスラと何かを書きとめる。
そしてその紙切れを小鳥の足に付いた筒に滑り込ませた。
「お、連絡用の魔道具だな」
「そそ、定時連絡みたいなもんだ」
ミックは俺の問い頷き返しながら小鳥の模型を空へ向かって放した。
するとまるで生き物と見紛うほどの精緻な動きで小鳥が飛び立っていく。
「で、だ」
小鳥を見送ったミックが中空を見つめながら呟く。
「うん?」
要領を得ないミックの言葉に俺は首を傾げる。
「狙うポイントが二つあるんだが、どっちから行く?」
「二つあるっていう事自体が初耳なんだが?」
「一つは本邸、一つは工場だ。どちらを先に行ってもメリットとデメリットが発生するって感じだ。だからどっちを選んでもいいわけなんで、お前に選ばせてやるよ」
「人はそれを丸投げと言う」
どうやら今回の仕事は二つの場所を襲うらしい。




