37 イハタクは静かに怒る 一
「う、嘘だろ……おい……、おいいいいっ!!!」
イハタクの目の前であってはならない事が起こる。
虚を突かれたイハタクは綺麗に整ったオールバックの髪をかき乱しながらその状況を見つめ、大声で叫んだ。
数分前、女を見つけた。
トランクも無事だった。
だから必死で追いかけた。
だが女がフードの者達に囲まれてしまった。
このままではトランクの中身が危ないと慌てた。
が、フードの者は粉々になった。
これだけ危機的状況にも関わらず、トランクは無事だった。
女は塗れた床で滑れないように慎重に歩を進め、血溜まりを抜ける。
その姿を見守るイハタクはそうだ、それでいい、と内心エールを送る。
そして女が血だまりを抜けて一息ついた瞬間、いきなり吹き飛ぶようにして転倒してしまう。その原因は女の側面から男が体当たりをしたためだった。
――どういうことだ?
イハタクには理解の追いつかない事態が連続して起こり続ける。
体当たりをした男は女が落としたトランクを拾い上げると逃げ出した。
してやったりと顔を綻ばせた男がトランクを抱えて走っていくのがイハタクの瞳に映る。
男を追いかけようにも一面血の海で足が滑るため走れない。
ここから追いかけるのは不可能だった。
「何でなんだあああああああああっっっ!!」
イハタクは絶叫した。
だが怒りは収まらない。
燃えたぎる怒りの矛先は女へと向かう。
あの女がさっさと見つかっていれば、こんなことにはならなかった。
全部あの女が悪い。
怒りで我を忘れたイハタクは立ち尽くす女へ向けてトランクを投げつける。
力が抜けて立ち尽くす女の背にトランクは命中し、ふらついて倒れそうになりながらこちらを向いた。
イハタクは女をひたすら睨みつけながら――
「それがお前のトランクだっ!! ずっと捜していたんだぞ!」
――全ての思いを言葉に乗せて叫ぶ。
「あ? え?」
女はイハタクの形相に気圧してまともな言葉を発することができなかった。
「いいから暗証番号を入れてみろ! 昨日ぶつかって倒れたとき、お前が間違えて俺のトランクを持っていったんだ!」
イハタクはぼんやりとした表情を見せる女にまくしたてるように事情を説明する。
その説明を聞いて思い当たることがあったのか、女の方もはっと表情を変える。
そして慌てるようにしてトランクを引き寄せ、暗証番号を入力していく。
すると――。
カチリ。
混乱極まる喧騒の中でもロックが外れる小さな音は二人の耳に届いた。
トランクは問題なく開いた。女は中身を確認しようともせずに勢いよくトランクを閉める。
「わかったか! あの男が持っていったのは俺のトランクだ!!」
「……よかった、……よかった」
イハタクの怒りの声など聞こえていないのか、女は小さく呟きながら我が子のようにトランクをしっかりと抱きしめた。
「おいっ! 聞いているのか!!!!」
「あ、ああ、それは申し訳ないことをしたな。すまなかった」
イハタクの怒声を受けてもひたすら愛しいトランクから目を離さない女。
謝罪の声もどこかよそよそしく、心がこもっているとは思えなかった。
「協力しろ……」
イハタクはそんな女へ向けて濃密な怒りを込めた声で呟く。
「……? 何の話だ?」
「トランクを取り返すのを協力しろと言っているんだっ!!!」
「悪いと思うし、残念な事になったと思うが、あれはもう無理だろう……。逃げてしまったぞ」
トランクから視線を放さず薄情なことを言う女。
我を失いつつあるイハタクにも自分のトランクさえ無事ならそれでいいといった女の雰囲気が伝わり、憤りに拍車がかかってしまう。
「うるさいっ! 元はといえばお前が間違えて持っていたのが原因なんだぞっ!!! その後も俺はお前を捜し続けた! しかも今盗まれたのはお前の過失だ! 協力するのは当たり前だろうがッッッ!!!!」
怒りの余り過呼吸になる寸前のイハタクは唾を飛ばしながら女を怒鳴りつける。
「だが……」
「ならそのトランクを寄越せ! 海に捨ててやる! お前も俺と同じ気持ちを味わえ!」
「ッ!! 何を言っている! そんなことさせるか!」
「……うるさい。お前が悪いんだ……。俺のトランクを返せ……。お前を絶対許さない……」
今までの怒声が嘘のようにとても静かで低い声を発するイハタク。
声の大きさは小さくなったが、その言葉に乗せられた怨嗟ははるかに重い。
目が据わったイハタクはひたすら女を睨みつける。
「……分かった。お前の気が済むまで協力しよう。だから私のトランクを捨てるなんてことは言わないでくれ。頼む」
女は一応罪悪感を感じていたのか、イハタクの押しに負け、協力する事を承諾した。
「よし、追うぞ。あいつを追いかけるんだ。幸い船内は滅茶苦茶だ。あいつ一人死んでも誰も騒がん。最悪殺してでも奪い返すからな!!!」
「……あまり物騒なことは言うな。だが、気持ちはよく分かった。全力で協力する」
常軌を逸したことを平気で口走るイハタクに女は後退りながらも協力の姿勢を崩さなかった。
「ところであの男のことは知っているのか?」
女の協力的な態度を見て少し落ち着きを取り戻したイハタクはトランクを持ち去った男について尋ねた。それは女が男の顔を見て何か気づいたような表情をしていたからだった。
「ああ、乗船券の確認を行っていたここの船員だ。あんなことをしてどうするつもりなんだか」
すると意外な回答が返って来る。女の言葉であの男はこの船の船員らしいことが分かる。
「……船員だったのか? ということは……、多分あいつはこの混乱に乗じて逃げるつもりだ。このまま船に残ってもあいつの立場は悪くなるだけだろうからな。そうなると救命ボートを利用する気なんだろう」
イハタクは腕組みし、トランクを取り戻そうと必死で考えた。
結果、この船にいてもいずれ捕まるのは明白だろうし、ここから脱出するだろうという結論を出す。その手段に救命ボートを使うと当たりをつけた。
「なるほど、なら救命ボートがある場所へ行くんだな?」
「そうだ! 急ぐぞ!」
女の問いかけにイハタクは強く頷く。
二人は救命ボートが設置してある上甲板のある六階へと向かおうとする。
エレベーターの前は人だかりができており、止む無く階段を目指す。
しかし――
「な、なんで……」
「レストランエリアだけじゃなかったのか……」
――道中は混乱を極めた。
なぜならレストランエリア以外もフードの者たちが暴れていたのだ。
イハタク達はなんとかそんなフードの者たちをやりすごしつつ六階へと向かう。
フードの者たちを避けるために時には大回りし、時には暴れる中をつっきる。
一刻も早く救命ボートがある場所へと辿り着きたいがフードの者たちがそれを許してくれない。
「クソッ! こんなに時間がかかるなんて……。このままではあいつに逃げられてしまうじゃないか!」
遅々として目的地へたどり着けないことに怒りを募らせるイハタク。
「おい、大声を出すな。進めていないのは私たちだけではないはずだ。きっとあの船員も襲われるのを避けようとして同じような状況に陥っているだろう、だから落ち着け」
イハタクの怒りを鎮めようとしたのか女が遮るようにして話す。
「そ、そうだな。きっとあいつも……」
女の言葉に耳を傾け、少し落ち着きを取り戻すイハタク。
とはいっても気が急くのは治まらず、無意識のうちに全身の強張りが増してしまう。
「急ぎたい気持ちは分かるが、焦って賊に見つかっては元も子もない。慎重に行こう」
女は慎重に振る舞えとイハタクに釘を刺す。
「偉そうに……。もとはと言えばお前のせいなんだからな……」
「分かっている。だが、お前がいらぬところで声を張り上げて賊に見つかるのだけは避けたいからな」
決して仲が良いわけではない二人はどちらからともなく、再度進み出す。
そんな命懸けの行動を続けるうちに人が段々と少なくなっていく。
周囲を見やればフードの者たちが暴れ終わったせいか、逃げ回っている乗客が多数の死体が転がる状態へと様変わりしていたのだ。
晴天で素晴らしい日和の船上に出るも、漂うのは鉄と濃い潮の香りのみ。
人の気配はなく、まるでゴーストタウン。二人は廃船を思わせる船上を駆ける。
そして、ほどなくして目標の人物を発見する。イハタクの予想が的中したのだ。
二人の前方でトランクを奪った船員が一人で四苦八苦しながら救命ボートのロックを解除しているのが見えた。
「見つけたぞっ!」
「くそっ、脱出する前に捕まえないとっ!」
女とイハタクは救命ボートを降ろされる前に決着をつけようと必死で走る。
「うおっ、やべぇえっ!」
だが、速度を重視しすぎたせいで盛大に音を出して駆けてしまったため、盗みを働いた船員に気付かれてしまう。ロック解除作業を諦めた船員はトランクを拾うとその場から逃げ出した。
「ぐっ、逃げたぞ!」
「追いかけるんだっ!」
結局、後一歩というところで船員を逃がしてしまう。
イハタクはひたすら船員を追いかけて走り続けた。
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「ぐうぅっ! しつこい奴らだっ!」
女の鞄を奪った船員は後ろを振り返り、追いすがってくる二人を見て毒づく。




