9 イハタクは動揺する
(こういう時、腹が減るというのは不便だな……)
イハタクはそんな事を思いながら自室を目指して早足で歩く。
オールバックの青髪はしっかりと油をつけているため、どれだけ速く歩いても崩れる事はない。道中ずっと心が休まらず、ここまで急ぎ続けていたせいかお気に入りのスーツは皺だらけになっていた。
(さっさと部屋に戻ってしまいたい……)
今は食事を済ませ、自室へ急いで向かっているところである。
本当は部屋から出たくなかったイハタクだったが、室内での飲食が禁じられていたため、止む無くレストランエリアへと向かった帰りなのだ。
「全く、馬鹿な奴がいたものだ……」
船員から聞いた話を思い出し、愚痴が漏れる。
以前は部屋へルームサービスを呼んで飲食が可能だったらしいが酒を飲んで浮かれた客がボヤ騒ぎを起こしてから個室での飲食が禁止になってしまったそうだ。
数十分前、そんな禄でもないことをしてくれたどこかの客のことを恨みながらイハタクはレストランエリアへ向かった。
ピークになる時間帯を避け、早めにレストランエリアへと到着し、味わう間も惜しんで料理を胃へと流し込み終わると金を払ってすぐに戻る。
そんな早足で自室へと戻ろうとするイハタクの手にはトランクが握られていた。
外見上はどこにでもあるようなデザインのトランクで暗証番号を入力してロックをかけるタイプのものだ。
だが、このトランクは特別性である。
今回船を利用するに当たってイハタクが専用の店で買ったものだ。
トランクの耐久性はさほどでもないのだが防水性に優れている。また、誤って海に落としてしまっても沈まないように魔石をセットして浮かせる仕組みが搭載されている高級品なのである。
トランクには脂染み一つ、かすり傷一つ無く、新品特有の光沢を放っていた。
それだけ慎重に、それだけ大事に扱われていたということなのだろう。
そのトランクの取っ手を握り締めるイハタクの手に自然と汗が滲む。
イハタクはとにかく部屋からなるべく出ずに目的地まで着きたいと考えていた。
乗船の際もさっさと取ってあった部屋へ向かいたかったのだが中々列が進まず苛立ってしまった。
なぜこうも進まないんだと列の先を見ればフルフェイスマスクを被ったまま船へ乗り込もうとした馬鹿共と船員が口論になっていたためだった。
その時、イハタクは我慢できず、つい怒鳴り散らしてしまう。
イハタクがそこまで落ち着きがなく、部屋から出たくない理由はその手に握られているトランクの中身が原因だった。
ある指令を受け、目的地までトランクの中身を届ける。
それがイハタクの使命である。
運び屋ではなく、積荷が何かよく分かっているイハタクは万が一にもこれが他人の手に渡ってしまわないよう細心の注意を払わねばならなかった。
もし、何かの手違いでトランクの中身が人目に触れようものなら、大変なことになってしまうのは明白だった。
そのため、一時も気の抜けない状態が続いていた。
そんなイハタクが安らげる場所は自身の部屋だけというわけである。
そのため、ひたすら早足で自室を目指す。
イハタクが自室がある方向へ一直線へと向かって十字路に差し掛かったとき、それは起こってしまった。
少し前を歩いていた女がふらついて倒れそうになっていたのだ。
よく見れば乗船時にふらつきながら歩き回り、邪魔だと押しのけられて転倒していた女だ。
そんな面倒な存在に関わりたくなかったイハタクは横に避けながら早足で女を追い抜こうとする。
女がふらついた反対方向へ避けるようにして追い抜こうとした瞬間。
凄まじい速度でなぜか女が眼前に戻ってきた。
逆方向へ倒れるものとばかり思っていたイハタクは対応がワンテンポ遅れてしまう。
それでもイハタクは女を避けようとさらに斜め前へと大きく踏み出した。
「邪魔だ!」
イハタクは女を大きく避けながら怒鳴る。
しかし、注意深く女を見ながらかわした瞬間、正面から全身に衝撃が走り、倒れてしまう。
何ごとかと顔を上げれば、同じようにふらついた女を避けようとした者がいたようでその者と正面衝突してしまったのだ。
(くそ……、ッ!)
そして頭を振って体を起こそうとしたとき、イハタクはあってはならない異変が起きてしまったことに気が付く。
そう、倒れたときにトランクを手放してしまっていたのだ。
慌てたイハタクは一刻も早くトランクを回収しようと周囲に目を這わせた。
すると丁度斜め前に転がるトランクを無事発見する。
――だが、なぜかトランクは二つあった。
ぶつかった衝撃で増えてしまったのかと、ありもしないことを想像してしまうがその可能性は目前で消えてなくなる。
どうやら正面衝突した者もトランクを持っていたようで、同じくぶつかった衝撃で落としてしまったのだ。
上体を起こしたイハタクが正面衝突した者へと視線を向ける。
するとそこには自分より一足早く起き上がり、トランクへと近付く女の姿があった。
女は自分の側にあったトランクを素早く拾うと、何事もなかったように立ち去ってしまう。
イハタクも慌てて立ち上がると残されたトランクを回収した。
そしてふらついて倒れた女には眼もくれずに自室へと向かうのだった。
衝突した現場から離れ自室へと向かう中、自然と早歩きになってしまう。
トランクを落としたことが気が気でなかったイハタクはとうとう早歩きも止め、小走り通路を抜ける。
(……くそっ、落としてしまった! 中身は大丈夫なんだろうな……)
部屋へと急ぐ理由はトランクの中身の状態が気になるためだった。
イハタクは自室前に到着するや否や乱暴に扉を開くと、滑り込むようにして室内へと入る。
扉を閉め、数瞬前までの乱雑な動きからは想像できないほど静かな動作でベッドの上にトランクをそっと置く。
「か、確認しないと……」
トランクの取っ手の下にはダイヤルがあり、暗証番号を入力すると開く仕組みになっていた。
イハタクは焦りのあまり震える手でダイヤルを操作し、暗証番号を入力する。
「よ、よし」
結局焦って入力したせいか普段の倍時間をかけてしまうも、ダイヤルを暗証番号に合わせる。
これで中身がどうなっているか分かると、ひとまず安堵したイハタクだったがすぐに異変に気づく。
――ロックが解除されなかったのだ。
(入力を間違えたか!?)
焦りながら震える手で入力したのでダイヤルが微妙にズレていたのかもしれないと再度覗き込むも暗証番号は正確に入力されていた。
これで開かないはずはない。
番号そのものを間違えて入力している可能性もあると再度確認してみるも問題はなかった。
この時点で暗証番号関連が原因でトランクが開かない理由はイハタクには思いつかなかった。
「ッ! ロ、ロックが壊れたのかッ!?」
次に考えられる可能性は落とした衝撃でロックが壊れてしまったことだった。
そうなってしまうと中身を確認するためにはトランクをこじ開けるしかない。
しかし、無理に開けるとその後トランクが使い物にならなくなってしまう。
代用品などないし、もし無理やり開けて中身が破損していた場合イハタクには手の打ちようがない。損傷が激しかった場合、無理に開けてしまうとイハタクにはどうすることもできず、取り返しがつかなくなってしまうのだ。
ということは乗船中はこのままトランクを開けることは叶わず、中身の確認もできないことになってしまう。
「く、くそっ……! こんなはずではっ……」
イハタクの焦りはピークに到達する。
そして焦りと苛立ちから思い切り壁を殴ってしまう。
金属の壁は硬く、傷ついたのはイハタクの拳の方だった。
壁に接触した拳面の皮がむけ、薄っすらと血が滲む。
皮がめくれあがった部分がじんわりと熱く、ジンジンと響く鈍い痛みがイハタクの責任を追及してくる。
そしてそんな手の痛みが引き金となり、ついさっき倒れて味わった痛みも思い出す。
あんなことがなければトランクが壊れることもなかったのに、とふらついていた女のことを思い出し苛立ちが募る。
もっと言えばふらつく女に遮られて姿が見えずに正面衝突してしまった女も邪魔だった。あの女がいなければ地面に倒れてトランクを手放すこともなかったのだ。
「くそっ、くそっ、クソッ!」
二人の女を思い出し、限界まで怒りがこみ上げてくる。
二人目の女も自分と同じようにトランクを持っていたし、アイツのトランクも壊れて開かなくなっていればいいんだ、などとどうでもいいことまで恨み節を唱える。
が、そこで思い出す。
女のトランクの外見を――。
「まさかっ!?」
イハタクは気づいたことを確認するためベッドの上にあったトランクへと駆け寄った。
そしてまじまじと見つめる。
じっくりと注視してその気付きが間違いでなかったことが分かってしまう。
「このトランクは違う! あの女のだっ!!!」
外見は全く同じだったがトランクの取っ手や角にまるでガラス片で切ったような見覚えの無い傷が付いていたのだ。
つまり、見た目が同じだったためにあの女が自分のトランクを間違えて持っていったのだ。
女が先にトランクに拾って即座に移動したため、二つを見比べる暇がなかったイハタクは今の今まで入れ替わっている事に気付かなかった。
「クソッ! あの女!」
イハタクはベッドの上からトランクを乱暴にひったくると部屋の扉を力任せに開け、女を捜すために室外へと飛び出した。
◆
(このまま部屋に留まるべきだろうか……)
ヘザーはトランクの中身を船員に見られたことに危機感を募らせていた。




