彼女に告げる
右手には買い物袋。左手にはタンポポ二本。
会社から家に帰る道すがら、歌を口ずさむ。
待ち続けていた公園のタンポポが、今日やっと咲いたのだ。
昼に摘んだタンポポが萎れてしまわないよう、コップに水を入れて、仕事が終わるまで机に置いていた。
花を飾る趣味があったのか、と同僚には笑われたが、好きなように言えばいい。
玄関のドアを開け、私は陶器の人形が来てから言うようになった言葉を口にする。
「ただいま」
誰にともなく言う「ただいま」ではない。相手がいて「ただいま」と言える日常が、とても幸せだ。
しかし違和感を覚え、買い物袋を机に置いて人形がいる窓際に腰を下ろす。
「……まただ」
朝は玄関に顔が向くように置いていた人形が、窓の外を向いていた。
外の景色を眺める人形を自分に向け、部屋の中を見渡す。
目立った異変は、なにもない。
人が侵入した痕跡もないのに、なぜいつも人形の向きが変わっているのだろう。
テレビを見ていると、窓の外に顔を向けさせていた人形が、気付けばテレビのほうを向いていることが何度もあった。
人形が自分の意志で、体の向きを変えているようにしか思えない。
物にも魂が宿ると聞いたことがあるが、この人形にも……魂が宿っているのだろうか。
普通なら突飛と思われるかもしれない。けれど、家に来たときよりも今のほうが、人形の表情が柔らかくなっていて人間らしいのだ。
白い頬には赤みが差し、指で触れても冷たくない。勘違いでなければ、指で触るとほのかな温もりが伝わってくる。埃を掃うために筆を這わせれば、人の肌を撫でたときと同じように、人形の肌がわずかに動くのだ。
もうしばらく日が経てば、伏せ気味の目蓋が持ち上がり、ゆくゆくは小さな唇から言葉を紡ぎ出す日が来るかもしれない。
この人形がどんな声音をしているのか、とても気になる。
赤子が言葉を覚えるように、語り掛け続けていれば……いつか、喋り出すかもしれない。
妄想なのは重々承知しているが、そう思わせる要素がある。
私の名前を口にしてくれる日が来たら、喜びに狂ってしてしまいそうだ。
人形が人間に近付いているのは、好々爺が言っていた障りというものと関係しているのだろうか。
しかし私にとって、それはもはやどうでもいい。
憂うとすれば、好々爺と約束した日が明日だという現実だ。
私は、人形を手放したくない。
約束の日に行かなければ、好々爺に再び出会わなければ、人形はずっと私と共にいる。
言われたとおり朝と夕には食べ物を供え、筆で埃を掃っているのだから、それをずっと続けていけばいいだけの話だ。
そう、もう少しこのままで、このままずっと……。
タンポポの茎の中央を数ミリだけ裂いて、茎の先を裂いた穴に通す。
子供の頃に作った、タンポポのブレスレット。
人形にとってはネックレスとなる大きさのそれを人形の首にかけ、肩近くに位置している花を胸元にずらす。もう一本のタンポポも輪にして、私は左手の薬指にはめた。
「婚約指輪! なんつって……」
自分で言っておきながら、とても虚しい。
「どうして君は、人形なんだろうね」
人形の前髪をそっと撫で、陶器の質感ではない柔らかな頬に触れる。
「人間になりなよ。そしたら一緒に散歩だって出来るし、もっと美味しいご飯を食べに行ける」
ためらいながら、心の中に秘めていた想いを口にした。
「君が人間になったら、私の好きな人だと……堂々と言えるのに」
ふふふと、可愛らしい笑い声が耳に届く。
テレビに目を向けても、帰ってから電源を入れてないのだから画面は暗いままだ。
こっちよ、という声に、私の心臓は高鳴る。
ゆっくりと人形に顔を戻せば、伏せ気味だった人形の目蓋は完全に持ち上がり、深緑の瞳が私を映していた。