彼女が来た
窓際なら、日光にも月光にも当たるだろう。
日に焼けてしまわないか心配はあったが、私は陶器の人形を窓際に立たせる。
直に置いていいか不安になった私は、タンスの中をあさった。
真新しいタオルを見付け、ないよりはマシだろうと、三つ折りにして人形の下に敷く。
「……安定が、悪い」
カゴがあればいいかもしれないと思い、百円均一の店に私は走った。
底が平らで、縁の高さがあるもの。
店の中を三周して、やっと希望のカゴを見付けた私は、会計を済ませて家路を急ぐ。
なにかの為に、こんなに一生懸命になっているのは、仕事以外で久し振りかもしれない。
「ただいま」
人形に向けて発した『ただいま』も、久し振りに発した言葉だった。
たとえ人形でも『ただいま』を言えると、気持ちが違う。
私の気分は、とても高揚していた。
買ってきたカゴの中にタオルを敷き、人形を乗せる。
相変わらず安定は悪いが、カゴの縁のお陰で転がり落ちることはない。
満足した私は、人形の持ち主である好々爺から渡された一式をテーブルに広げた。
広げたといっても、筆だけである。
美術で使う、普通の筆。幅の広い平筆と先が細い筆の二種類だ。
埃を払うという行為は、人間に置き換えると風呂に入る行為と同じなのかもしれない。
朝飯と晩飯を供えろと言われて私の頭に浮かび上がった情景は、実家の祖母が仏壇に水とお茶、炊き立てのご飯を供えている姿だった。
風呂に入り、飯を食い、日光浴をする。
「君は、まるで人間だな」
窓際に立つ人形に話しかければ、人形が微笑んだように見えた。
陰影のせいだろうと思うが、人形の傍に寄った私は、おもむろに人形の頬に手を添える。
冷たい陶器に、私の温もりが奪われていく。
「温もりだけじゃなく、私の生気も吸い取って……喋り出したら面白いのに」
鼻の長いピノキオのように、この人形にも魂が宿らないだろうか。
「滑稽かもしれないが、それはそれで楽しそうだ」
伏せた目蓋の間から覗く深緑の瞳は、家の中で見ると深みを増している。
「主から離れて、寂しいか?」
問い掛けても、答えが返ってくるはずもない。
嘆息ついた私は、冷蔵庫に向かった。
中を覗けば、牛乳とビール、食パンしか入っていない。
冷凍庫には、炊いて冷凍しているご飯がある。
戸棚を覗けば、インスタントラーメンがポツンと一袋だけあった。
百円均一に行ったことで労力を使い果たした私は、惣菜を買いに出るのが面倒臭い。
「今日は、ラーメンとご飯で我慢してくれ」
人形に向けて語り掛ければ、なぜだか人形の機嫌が悪くなったように思う。
「明日の朝は食パンで、夜には惣菜を買って帰ってくるよ。なにがいい? 二週間の期限付きだから、君が食べたい物を買ってくるから」
まるで弁解だ。
ペットを飼い始めた同僚が、生活にハリが出て来たと言っていたのを思い出す。
私が人形に話しかけたように、同僚はペットに話しかけているのだろう。
人形とペットなら、生きている動物に話しかけるほうが自然な情景だ。
「……これだと私が、まるで寂しくてイタイ人間みたいじゃないか」
呟いて、私は頭を振った。
独り言まで増えている。
人形が一つ家に来ただけで、普段と行動が違ってしまうとは考えもしなかった。
鍋に水を入れた私は、蓋をしてコンロに乗せ、火にかける。冷凍したご飯も電子レンジに入れ、解凍ボタンを押した。
沸騰するまでに、人形の埃を払ってしまおう。
吹き零れないか気にしつつ、私は筆を手にして人形と向き合った。
幅が広い平筆で、頭の上から優しく掃く。段が付いて溝になっている部分は、先が細い筆を使った。
筆で表面をなぞりながら、人形の顔の作りを改めて観察する。
眉から鼻筋までの滑らかな曲線。頬の膨らみから移行する唇の湾曲。下唇から、顎に掛けての膨らみ。
顎から首に筆先を添わせながら、人形にも色気があるなと、そんな感想を私は抱いた。
鍋の蓋がカタカタと鳴る。
「やっべ!」
人形の傍らに筆を置き、身をひるがえした私は火の元へ急ぐ。
火を弱めて蓋を開けたら、予想以上に蓋の耳が熱い。
「熱……っ」
放り投げた蓋が、ステンレス製のシンクに打ち付けられてシンバルのような音を出す。
「ごめん、うるさかったね」
喋ってから、私は額に手を置いた。
「あ~……また言ってしまった」
イタイ人になるまいと、思った矢先にこれだ。
これはもう、諦めるしかないのだろうか。喋ってしまったと落ち込むくらいなら、認めてしまったほうが心的ダメージも少ないかもしれない。
インスタントラーメンの袋を開けながら、私は人形を振り向き見た。
彼女が家に来た男は、どんな心理状況になるのだろう。
鍋の中に麺を投入して、タイマーで三分を計った私は、丼とお猪口を用意する。
電子レンジが、解凍の完了を知らせた。
自分は茶碗でいいとして、人形にはどれを使えばいいのだろう。
「これで勘弁してもらおう」
悩んだあげく、小さな平皿を取り出した。
タイマーの知らせに従い、粉末を投入して火を止める。
自分と人形用にラーメンとご飯を盛り付け、私は盆に乗せて座卓に運んだ。
「さっきも言ったけど、今日はこれで勘弁ね」
お猪口と平皿に比べると、大きさが不釣り合いな割り箸を添えて、私は人形の前に食事を供える。
「さて、頂きますか」
手を合わせてからラーメンをすすっていると、カタンと小さな物音が聞こえた。
「なんだ?」
音がしたのは、人形のほうからだと思う。
じっくり人形を観察すれば、綺麗にしたはずの口元が汚れている。
慎重にティッシュで押させると、人形の口元に付いていた汚れは、ラーメンの汁だった。