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見えぬ世界  作者: 秋花
水晶の中

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四話

 右へ、左へ。蜃気楼のように揺れている。

 ゆらゆらゆらゆら、異物が溶けて吐き出すことが難しく、それは暗闇で泳いでいる。それは魚ではない。わたしでもない。美しいなにか。声も出せない夢の中、わたしはそれがなんなのかもわからぬままに目を閉じて、それの泳いでいる音を聞いている。


 ――温かい。膝を抱えて、わたしは心地のよい世界でたゆたう。わたしは何かに守られている。わたしは小さく、柔らかい存在である。


 ここはどこだったろう。

 疑問にもならない(あぶく)のような呟きが、内で弾けた。


 どこでもいいよ。

 誰かが答えてくれた。いや、これはわたしなのだろう。だって、ここにはわたししかいないから。

 それはいいかもしれないと思った。何も知らなくて、何も知れなくて、ずっとこの心地のよい温もりに包まれていられるのなら、わたしは疑問を持つことを止めてもいい。


『――り』


 漆黒の海に流れてきた音の欠片に、わたしは身を震わせた。

 知っている。なにも知らないわたしは、この声だけは唯一の光であると知っていて、喜びに身を震わせている。もっとその声を聴きたくて、わたしは自分の全身を囲うようにできている殻を軽く蹴った。


『──ふ、──子また蹴っ──る』


 もっと聴かせて。もっと教えて。

 有限に散りゆくあなたの命の輝きを、もっと魅せて。

 わたしの愛しい夢。わたしの愛しい守り人。わたしの──。

 さわりと、殻の表面を温かな何かが撫でてきた。そこに籠められているのは、わたしを俯瞰している神に似た愛。わたしも、わたしもと、この愛を神様に伝えたくて、わたしはもう一度殻を蹴った。


『──元気に産まれてきてね、光』


 ──なんで、どうして、忘れていたんだろう。

 目頭が熱くなった。声は出せない。泣き声はあげられない。ここは母の子宮の中、わたしの、小さな原初の記憶の内だ。


 (ひかり)。わたしの大切な名前。みんなを照らせるように、母がわたしを慈しんで願ってくれた夢の形。わたしは、それをずっと忘れてしまっていた。


 ごめん。ごめんなさいお母さん。

 あなたを殺さないように必死になっていたわたし自身が、あなたがくれた大切なものの存在を亡くして、あなたを朧気な存在にしていたんだ。


 謝罪を口にしようと口を開いても、出せるのは音のない泡ばかり。ぷかぷかぷか、泡は上っていく。天井のない閉ざされた海の中で、ない出口を探して泡はわたしのいない場所を目指す。

 温かな世界が遠のいて、海の世界が広がっていくのを感じた。雨が強くなる。あの人の音が小さくなって、わたしの耳元を煩く叩くノイズの音が頭の中を支配していく。

 消えてしまうのだと思った。わたしの手が届かないところに、この愛の伝えられないところに、この人は消えてしまう。


 ――まって。行かないで。


 追いかけようとするが、この身は自由を忘れてしまったように身動き一つしようとしない。

 動け、動け! なぜ動かない!

 胸を焼くような焦燥が、今この瞬間にこの身を、この柔肌を駆けているというのに、この体はまるで他人の体のように自由が利かない。わたしのものが、わたしの手から離れてしまっている。この体はだれのものだというのだ。

 直に海が荒れて、激流がわたしを遠くへと押し流す。それは、まるで子どもが虫で遊んだときのような圧倒的な力の差があった。圧迫してくる世界の奔流に、わたしは抵抗できずに流されるしかない。

 やめろ。遠くへ行ってしまう。見えないどこかへあの人が往ってしまう。

 無理やり目蓋を開いて、わたしは先へ行ってしまう彼の人の姿を瞳に映した。

 自慢にしていた長い髪、貧しかったが故か、一般に見られる体躯よりも幾分細やかなその体。

 ああ、間違いない。あの人は――。


「――――」


 わたしの出した感情の何もかもを敷き詰めたそれは、憎たらしい現実(げきりゅう)に押し流されて届いたかすらわからなかった。











 ◇



 埃が微かに混じった木のにおいが充満している。閑静とした空気が、わたしの胸を締め付けて苦しくさせた。眩しい、だけれど、温かくない。ここは、まさしく形だけのハリボテの場所。

 暗闇のベールを破いて見えた景色は、見覚えのある教室だった。失われたはずの腕は、全てが夢であったとでも言うように、何事もなくわたしの腕から生えている。わたしがつい先ほどまで両腕を枕に頭を寝かせていたのは、――あの失われた球が見せてくれたのを思い出すに――わたしが挙手し、わたしが奮起し、わたしが学び舎での大半を過ごしてきた席だ。椅子を引けば、床の叫びが止まっていた時を動かした。床一面木の模様で、所々ワックスが剥がれてきているのがわかる。しーくんと見た、日の光一つなく、また影一つない絵のような世界はそのままだ。


「どうして……学校に……」


 ぽつりと、孤独な音がまた世界を壊した。

 不安に背を丸めて、一先ずは外に出ようと真新しい上履きで床を鳴らす。がらがらと引き戸を開け、廊下に出て右に視点を向けると、そこには灰色染みた白い人型の彼がいた。


『おかえり』


 しーくんが言った。


「しーくん……?」

『うん。今度は、全部覚えてる?』


 こんど? 〝こんど〟とはなんだろう。


「――? それよりもしーくん、お母さん知らない?」

『……知ってるよ。でも、知ってるだけで会ったことはないんだ』

「そっかぁ……わたしね、お母さん探してるの。でも、ずっと見つからないの」

『それも知ってる。きみとぼく、一緒に探してたから』


 あれ、そうだったっけ? よく覚えてないなあ。


「どこにいるんだろう、お母さん。ねえしーくん。もう一回、一緒に探してくれる?」


 しーくんは首を振った。


『もう、だめだよ』

「なーんだ、じゃあ独りで探さなきゃ」


 ううん、としーくんはもう一度首を振った。


『一緒にってことじゃない。()()()()()()のが、だめってことだよ』


 わたしは首を傾げた。

 では、どう母を見つけろとしーくんは言うのだろう。

 しーくんは小さいわたしに目線を合わせて、宥めるように言った。


『ねえきみ、そろそろここから出よう』

「出るよ。だってお母さん探すんだもん」

『違う。この世界から出ようって言ってるんだ。……嘘を吐くのはもうおやめ。きみは知っているはずだよ。今度の君は覚えているはずだ。ここにはお母さんはいない。わかっているんだろう? だって、きみの中のお母さんはしっかりと認めたじゃないか』


 ──認めた? そんなわけがない。“ははさま”は己の消滅など認めていない。だって、こんなにも生きていたいと足掻いている。こんなにも苦痛に溺れている。今だって、空気を吸いたい(死にたくない)と足をばたつかせているじゃないか。


「……ひどいことを言うんだね。しーくんは」

『わかってるよ。ぼくは、とても酷いことをしているんだって』


 ――思わず拳を握った、できれば、血が滲むほどに握り締めたかった。


「しーくんはわかってないよ。ここを出て行ったらわたしがいなくなるんだよっ。わたしの世界が壊れちゃうんだよ? なのに、なのにしーくんはわたしに壊れろって言うの?!」


 止まらなかった。沸々と、炎で熱する水の如く、わたし中の激情が溢れかえって湧いてくる。

 彼はわたしに消えろと言うのだ。母に死ねと言うのだ。それをどうして許せようか。いいや許せやしない。わたしに痛みを見せつけてくる彼は、ここにいちゃいけない。


『ああ、そうさ。ぼくは君に壊れろって言っているんだ。今のきみはいなくなってしまえと言っているんだ』

「もういい、もういいよしーくん。しーくんはわたしに必要ない。もう、出て行ってよ。ここにはわたしと〝ははさま〟がいてくれればいいの。しーくんは最初からいらなかったんだよ」


 わたしがその存在を否定しようと、しーくんは依然としてそこに在り続けた。

 なぜ? どうして? わたしの疑念は潰えない。消えるはずなのに。この世界にとって異質なもの(しーくん)は在るべきではないのに、なぜ彼はまだそこにいるのか。


『なぜかって、思ってるね。それの答えも、君は知っているはずだよ。――ほら、空を見てごらん』


 しーくんの白陶のような指が指す窓に駆け寄り、わたしは言葉を失った。いや、失わざるを得なかった。


「なんで、空が……」


 ぱらぱらと、元は青空を模していた破片がハリボテの上に落とされていく。割れた部分から次へ次へと主役の席を奪っていくように、真っ暗闇が天井を覆っていた。それは、まさしく世界の終わりを示していた。


『この世界は機能を失いかけている。夢は終わりだ。だから、きみの思いに従ってぼくは消えるはずだったのに、消えなかったんだ』

「やだ、やだ……! まだ、終わりたくない! 消えたくない! だってここには〝ははさま〟がいてくれる! ここにはシアワセがあるんだ! だからわたしは――!」

『それは、本当に幸せかな』


 胸を穿れたような気分だった。え、という呟きに神経の全てが注がれたような錯覚に見舞われた。


『執着して、固執して、それで苦しんで、それは幸せかな』

「でも、でもっ、お母さんがいないと楽しくないの! お母さんがいないと世界は明るくないの! お母さんがいない世界なんて、わたしには、死んでいるのと同じなのに……!」

『そうだね。変わることは怖い。痛くて、辛くて、苦しい。世界が変わってしまうことはあまりに恐ろしいよ。ぼくだって怖いさ、何が起こるかわからないからね。でも、逃げちゃいけないし、逃げられない』


 逃げてはいけないのなら、どうすれば痛みのない世界にいけるのだろう。

 わたしのような弱者は、逃避という行動によってこの苦痛からようやく身を守ることができるのに、彼のような強者は逃避をしてはいけないと言う。逃避などできるものではないと言う。

 なら、わたしはどこへ行けるのだろう。どこへ行けば、この痛みを捨てに行けるのだろう。


「わたしは、痛いのなんてイヤだ。辛いのも、苦しいのも、何も見たくない」

『うん、ぼくも嫌だよ。一緒だね』

「一緒じゃないよ。だって、しーくんは強いでしょう? 全部知ってる。全部見てる。わたしと違って目を逸らしてない」

『……逸らせなくなっただけだよ。ずっと逃げて、押し付けて、甘えて、でも逸らしきれなくなったから今ここにいる』

「怖く、なかったの?」


 もちろん、怖かったさと言うしーくんの表情は白い靄で隠されていてわからない。


『本当のことを言うと、認めたくなんかなかった。ずっとそこにいたいと思ってた。でも、泣いているあの人を見て、ここにいちゃいけないんだってわかった』


 あの人が誰かは知らない。わたしは、しーくんのことは〝しーくん〟という形を持った誰かという事実でしか認識できないから。だけれど、しーくんがその知らない誰かのために苦しんで行動したのがわかった。


「やっぱり、しーくんは強いよ。その人のためにしたいことを止めて、その人の思いを叶えたんだから」

『強いかな。逃げただけだよ。だから、その人は泣いてしまったんだから』

「強いよ。だって、わたしはまだ認めたくない。怖いの、わかるの、お母さんが消えちゃうの。わたしを大切にしてくれたお母さんも、笑ってくれたお母さんも、わたしの中から消えちゃう。ねえしーくん――わたし、お母さんを忘れたくない。亡くなってほしくない」


 だからまだ認められない。認めたくない。あの人を鮮明に覚えていたいこの思いが、わたしの一歩を躊躇させている。生きていてほしいお母さんを、わたし自身が殺してしまうのではないかという恐怖が、わたしの胸中で蹲っている。


『……それは、とっても怖いね。でもね、それはどうしようがいずれは亡くなってしまうものなんだ。怖くて怖くてしょうがなくても、いずれは消えてしまう。――でも、希望はある。きみの世界が亡くなってしまうように、ぼくも消えてしまうだろう。今この瞬間にでも数秒先には知らない自分が立ちふさがってる。古いぼくが消えて、新しいぼくが先に行くんだ』

「しーくんが、しーくんじゃなくなるってこと?」

『うん、新しいぼくは、もう今のぼくじゃない。でもね、ぼく自身が消えるわけじゃないんだよ』


 よくわからない。しーくんがしーくんじゃなくなって、なのにしーくんは消えないとは。

 しーくんは、頭がこんがらがって混乱しているわたしの頭を撫でてくれた。冷たい。でも、前と違って怖くない。


『そこには確かにぼくの意思があったんだ。あったという事実はなくならない。きみがここにいたという事実もなくならない。お母さんがきみに生きて欲しいと願った事実だってなくならない』


 町は崩れていく。底のない闇に沈むように、家々の一つ一つがハリボテの世界から見慣れた姿を落としていく。世界を取り囲む白い雲に似たもやも、異なる世界と共にその身の終わりを体現している。

 あったものがなくなる。

 己を守るために建てていた全ては、世界の終焉によって剥がれ落ちる。生きていて欲しいと願った思いがあった。いなくなってほしくないと否定していた思いがあった。それらは黒い水面に飲み込まれてどこかへ消えてしまったのか。


『何にだって意味はあるんだよ。壊れるのだって、消えてしまうのだって、誰かが進むためなんだ。その誰かは新しいきみだったりもするし、違う――それこそ見知らぬ誰かなのかもしれない。いいかい、この世界はきみが前に進むためのものだ。きみがきみであるために、きみが生きるために必要な痛みだ』

「わたしが、わたしであるため?」

『お母さんが大好きなきみでいるため、ってことさ』


 ――なるほど。それは、きっととても素敵なことだ。

 わたしの愛が永遠なんだ。それはつまり、母がわたしの中の母がいなくならないことを意味する。今未来を恐怖するわたしが消えて、母を愛し続けるわたしという個人は残るのだ。それは、とても素敵なことに違いない。

 さあ、としーくんは手をこちらに差し出した。


『もう立ち止まっちゃいけない。大丈夫、怖いことも泣きたいこともたくさんあるけど、それでも、きみは独りじゃない。たくさんのきみがきみを支えてる。たくさんの誰かがきみを救ってくれる。

 ――前へ進もう』


 ぱり ぱり

 黒色の侵食は進み、校舎の壁は卵の殻のように剥がれ落ちた。ぱきぱき、黒いヒビが廊下にも現れた。目の前に広がるのは、真っ暗な目に見えぬ道。出口はわからない。どこへと通じているのかすらわからない、見えぬ世界が形成されている。


「しーくん」


 わたしが名前を呼ぶと、しーくんはうん、と優しく返事をしてくれた。

 彼は、本当に優しい。優しいがゆえに、涙が出てきそうなくらい痛いのだ。


「お母さん、死んじゃったんだ」

『……うん』

「燃えてね。熱い熱いって、死んじゃったんだ」

『……うん』

「お母さんね痛がってたの。だけどね、わたしに、生きてって……幸せに、なれるって……言ってっ……」


 うん、としーくんはこちらに差し出していたはずの手を、わたしの頬を流れていたそれを拭うことに使った。

 ああ、なんて温かい。母もよく撫でてくれた。あの優しい手で、痛かったね痛かったねと慰めて頭を撫でてくれた。でも、もうわかるよ。もう、それはありえないんだって、わかるんだ。あの撫でてくれるお母さんは、わたしがこれから歩む道にはもういないんだって。

 わたしの夢の中で生きていた母は、とっくの前に現実で死んでいたんだって、それこそとうの昔に、本当はわかってたんだ――。

 しーくんの指から零れた涙は、顎を滑り、漆黒に染め直された地面の上に落ち、その雫の残り跡はどこにも見当たらなかった。


 わたしは、久しぶりに大きな声を出して泣いた。

 喉が痛くなるまで、お婆ちゃんみたいなガラガラな声になるまで、母以外の前で、久しぶりに泣いた。どうしていなくなってしまったんだと、わたしにはまだお母さんが必要なのにと、どうにもならない言葉を叫んだ。

 言葉にもならない叫びもあったように思う。けれど、しーくんはわたしが泣きやむまでずっとわたしの頭を撫でてくれた。

 いいから早く手を取ってあげて!しーくん待ってるから!プルプルしてるから!光ちゃん泣いてるけどしーくんの顔も見たげて!かっこよく決めたのに、お手々取ってもらえなくてめっちゃ悲しそう!

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