三話
空は広がる。白く全てを包んでわたしを惑わす。酒を含んだ世界は、一歩進むたびにくらくらとわたしの頭を酔わせる。果てのない晴れの中、わたしはいき場所も見出せないまま彷徨っている。
「どこへ行こう……」
じゃり、わたしの靴底が砂を削る。
世界は構築されていない。代わりに、子どもの描いたラクガキのような壁紙が視界一面に張り巡らされている。知らぬ誰かからすれば、必死にハリボテで傷を隠しているこの世界は酷く滑稽に見えることだろう。
だが、正しい形を成している世界にわたしを導いてくれる彼はいない。先を歩めないわたしでは、道を作ることはできない。彼と歩んだ追憶が、唯一わたしが歩めた道だ。
そういえば、次、しーくんと遊ぼうとしたのはどこだったろうか。
「――公園」
呟いたと同時に、クレヨンで塗られた線が宙に溶けてわたしの中に思い浮かんだ形相が地面から生え出した。それは電柱であり、公園の遊具であり、緑溢れる木々たちであった。長方形に広がっている大きな公園を基に、象の形を成した滑り台や摩れた椅子をぶら下げたブランコなどが、ついさっき突如現れたとは思えないほどに、当たり前であるとそこに鎮座している。
わたしは疲労しているであろう足を癒すため、きいきいと悲鳴を挙げるブランコの椅子に腰かけた。重く長い息を吐く。胸の痞えは取れない。飲み込んだ苦痛は、未だにここを離れようとしない。
「……ははさま」
亡くなってしまった。
しーくんに否定されてしまった母の生の可能性が、わたしの中で渦巻いていた。お前ならば戻せるのだと、あの楽園を作り上げることができるのだと。ないはずの可能性を、中身のない卵に求めている。
だが、割ってはならない。何度求めようがそれは割ってはならない卵なのだ。軟弱な力で卵を叩き続けた結果、力加減を見誤ったのがこの母の消滅だったのだろう。次は、もう少し上手くやらなきゃ。
わたしは母の死が篭った球をポケットから取り出し、砂場に向けた。
――やはり、いる。
そこには、濡れて粘土状になっている砂で顔を汚したわたしが、砂場の端に座り込んでいた。作っているのは山だろうか、砂をかき集めては天辺から落とす作業を繰り返している。
音のないまま、映像は時を進めていく。時の止まったこの場所で、それは過去の記憶を流している。
『ねー、――ちゃんはかえらないのー?』
声が聞こえた。過去から目を離して辺りを見回すも、この世界には誰もいない。それも、わたしと同じような歳をした幼子の声など、聞こえるはずがない。
『うん、ははさま待ってるの』
もしやと思い、球を見ると公園の出口に向けて口を開けているわたしがいた。
初めてだった。夢の中の人が音を出すだなんて、そんな怖いこと、あっていいはずがないから。
『どうしてー?』
『ははさまがね、むかえにきてくれるの』
ああ、そうだ。母はいつだって迎えに来てくれた。お仕事で忙しくても、疲れてしまっていても、いつだってわたしを独りにしなかった。ああ、なんて優しい女性。だから今、わたしはあなたを乞い続ける。
『嘘言っちゃだめだよ。あなたのお母さんは来ないよ。もうこない。だって、もう来れなくなっちゃったでしょう?』
ガラス球の中で、小さなそれは三日月の口だけを見せて現実を告げる。
うそつきだ。夢の中の存在さえわたしに嘘を吐く。足のつけない沼に落ちてしまえと背を押している。それがどんなに苦しいことかわかっているくせに、わたしに行けと囁くのだ。
『「くるよ。絶対にくるよ。だってははさまはずっと傍にいてくれるって言ってくれたもの」』
『ずっと? ずっとっていつまで? 永遠なんてそこらに捨てられるよ。ほら、あなたが執念深く捨てられずにいる永遠を痛みが奪いにきた』
わんっ、と獣の啼く声が耳元で響いた。
がしゃんと、座板を吊らしている鎖が悲鳴を挙げて、恐怖に押されたわたしを振り落とす。足先には頬を震わせて地獄からの亡者の声を代弁している獣の姿があった。ぐるぐるぐる、喉を鳴らしてそれはもう一度吠えた。
がちがちと歯が幾度となくぶつかる。なんて悪夢だろう。わたしは犬が大の苦手なのだ。
数秒と犬と向き合って、その黒い瞳がどこを見つめているのかを、わたしはようやく気づく。これの目的はわたしではない。わたしの右手の中に隠されているものだ。
「だめだよ。これは、あげられない」
ぱり ぱり
遠くで何かが割れる音がした。
再度獣が吠える。よこせ、おれはそれが欲しいのだ。それを口に入れ、己の強靭な歯で噛み砕きたいのだ。
わたしは宝物を捕まえている腕を抱きしめて、それから逃げるように後すざりをする。
「これは、ははさまがわたしにくれたものなの。わたしが持ってるははさまの唯一のものなの……!」
ぱり ぱり ばり
風の音が聞こえる。どこかで穴が空いてしまったのだ。
ひび割れ欠けてしまっただろう穴からは、おおおおと底冷えする老人とも若者ともとれる呻き声が重なって聞こえた。人の吐息のような風が、尻餅をついているわたしの体を掠めて虚空を舞う。どこだ、どこにいる。あの子はどこだ。
みんな探している。この世界で唯一のものを探している。わたしも探さなきゃ──なにを? 広がってしまった穴を? ――わたしは、なにを忘れている?
ばりん、と渦巻くような暗い闇が巨大な穴と化して世界に姿を現した途端、黒い影が穴からは飛び出てわたしの腕を食いちぎった。
ぶちぶちぶち、それはまるで乾いた粘土のように容易く獲られてしまった。
「──あ」
わん、と獣が吠える。仲間が増えたことを喜んでいるのだろうか。
ぼとりと地面の上に腕を落として、世界の穴が生んだ獣はこちらを威嚇している。地の上に転がっている人の腕を模したそれは、拳に守られていた丸い球を残して地面に溶けていった。
「な、なんで……?」
それは何に対しての疑問だったのか。
わたしを傷つける獣が現れたことに? 痛みを感じないことに? 腕がどこへとも言えぬどこかへ消えたことに? 世界がひび割れていくことに?
答えは見つからない。わたしは答えを見つけてはならぬ逃げの本能しか持ち得ないが故に、その行動が許されない。なぜ、なぜ、なぜ。疑問ばかりが水面に浮かんでは沈んでいく。
気づけば、獣たちは消えて公園の夢を閉じ込めたガラス球が風に乗って空に浮いていた。
――遠くへ行くのだと、なんとなく感じた。
わたしの知らないどこかへ行くのか。わたしが行けないどこかへ、ビー球は消えてしまうのか。
「やめて」
首を振ってもそれは地面に落ちてくれない。泣きそうに拒否するわたしを嘲笑うかのように、それはふよふよと風と戯れている。目に見えぬ妖精がいるような錯覚を覚えた。
「ねえかえして、お願い。わたし――」
わたし、まだここにいたいの。
強い風が吹いた。風を操る何かが大きなくしゃみをしたかのような突風だった。わたしは吹き飛ばされるのを防ぐために、小さな身を固めて目を強く瞑った。世界を荒らされていく束の間、わたしは顔を覆う腕の間から、目を細く開いて傍観者を務めた。
ぱりぱりぱり。黒い線が空を駆け、地面を走り、木々を割っていく。世界を映している球が、風巻に巻き込まれてしまったのか、悪戯好きの妖精の手から離れた代わりに、砂に連れられて砂場に吸い込まれていくのが見えた。先には底などなさそうな真っ暗闇が、砂場の絵を金槌で叩き割ったような裂け目の中に佇んでいる。
わたしは走った。風の速さなどに追いつけないだろうに、わたしはだめだと叫びながら水溜まりに溺れる蟻の如く醜く、執着深く、己が願いに手を伸ばす。届かない。強風が砂を持って暴れている。砂が目に入ったのか、角膜を守ろうと溢れてきた涙で視界がぼやけた。
「邪魔、しないで!」
わたしは強風を振り払い、恐怖など捨て去って、闇に沈みこもうとしている母に飛びかかった。
浮かぶわたしの体。これ幸いと、待っていたかのように、闇色の出口は強い力でわたしを引っ張っていく。抵抗もできずに、わたしは夢の終わりに飛び込むこととなる。
眼前に迫る黒色不透明な先のない、世界の外側。大丈夫、怖くないよ。外側から見えないだれかが、わたしの残った腕を掴んで闇に落とした。
――とぷん。
壊れてしまった世界に入った瞬間、水が跳ねたような音がした。




