二話
「ははさま、ははさま聞いて。今日はしーくんがたくさん遊んでくれたの。――うん、ははさまにもらったビー玉を覗いてね、いろんなところを見て回ったの。子どもたちがたくさん勉強して遊んでたんだよ。次は公園へ行くんだー。そしたら、またははさまにたくさん話してあげるね」
わたしは浮かれきっていた。母の太ももの上に猫のように寝転がって、わたしは母の腹部に顔を埋めている。母は甘えきっているわたしの頭を、絹を撫でるがごとく触れてくれる。やはり、母は温かい。きっと、わたしはこの心地のよい温もりを手放せないのだろう。
―― そう、楽しかったならよかった ――
「うん。うん。……ねえ、ははさま。ははさまはどこにもいなくならないよね? ずっとわたしの傍で、こうして撫でてくれるんだよね?」
わたしの耳元では、未だにしーくんの声が凝り固まり、そこに留まっている。今すぐにでも剥がし取りたい瘡蓋のようなそれは、痛いほどにわたしの傷口を刺してくる。
あれは、わたしが最も現実から目を背けたいものだ。
―― あるはずのものがそこにないんだ。僕には辛くて、あまりに痛い ――
彼は叫んでいた。見えない瞳から月の泪を零して、口にできない叫びを堅い黒色の帰り道に落としていた。その苦しみはわたしには到底理解したくないものだったが、それでも理解しなければならないことぐらいわかってる。
あるはずのもの――ははさまがいなくなる。そんなありえてほしくない現実。それが脳裏を過ぎっている。失う恐怖が、体を震えで埋め尽くしていく。
こんな妄想なんて見たくもないのに、どうしてわたしの中から出て行ってくれないのだろう。どうしてわたしを幸せにしてくれないのだろう。イタイのなんて、大嫌いなのに。
だから、わたしは求めるのだ。痛みのないだろう母の言葉を待って、わたしは母の冷たい温もりに顔を埋めた。
―― ええ、母さんはいなくならないわ。ずっと、ずっとお前といっしょにいるよ ――
「ほんとうに? ずっといっしょにいる?」
独りにならない?
―― 独りになんてさせないよ。寂しいのは嫌でしょう? ――
「うん、大嫌い」
独りは、冷たくて怖いから。だからわたしはずっとここにいるの。だからわたしはずっとこうして心地のいい世界に浸り続けるの。だって、そのほうが幸せだもの。
だけれど、なぜだろう。こんなにも満ち足りているはずなのに、わたしの中にある穴は埋まってくれない。虚無を主張し続けるがらんどうの穴は、いつまで経っても満ちてくれない。母がいるのに、しーくんもいるのに、わたしの心は満たされない。束の間の極楽に浸っているわたしの穴は、一度虚無を思い出されれば狂ってしまいそうになるほどに、弱い。
母は暗い表情に落ちたわたしの頭を撫でて、次の言葉を口にした。
―― でも大丈夫、お前はみんなを照らしてくれる明るい光だから。だから、お前は独りになんてならないさ ――
「ひかり?」
―― そう、〝光〟。みんなが怖がらないように暗い夜道を照らしてくれるお月様そっくりな光でね。ずっと高い場所に浮かんでいるんだ ――
「ははさまは? ははさまは近くにいないの?」
―― いるよ。ずっとお前の傍にいるよ。お前が母さんから離れたって、母さんはお前の傍にいたいから ――
耳元に囁かれた言葉にくすぐったくて、わたしは小さく笑い声をあげて身をよじった。
母がいてくれればいい。どんなに苦しくても、痛くても、母がいてくれさえすれば、もうなにもいらない。こんなに綺麗な宝物が残ってさえくれるのなら、わたしは今大切にしているビー玉を捨て去ってしまってもいい。
わたしは母に捧げるようにして、ビー玉を持っている手を開いた。
「ねえははさま、これを見て。今日はこれでたくさん遊んだの」
―― わたしがあげたものだね。それで、なにが見えるの? ――
「違う世界だよ。動いているたくさんのものがいるの。わたしもそこにいたんだよ」
―― じゃあ母さんもいるのかな。お前がそんなに楽しそうにしているのなら、きっとそれはいいものになっているんだろうね ――
「うんっ。だって、ははさまがわたしにくれたものだもん!」
ほら、見てて、と母を急かして二人で球を覗く。
黒いカーテンで閉じられているこちらの世界とは違い、夢の中では溢れ返るような眩しい色に満ちていた。そこは一つの家庭のようだった。
居間とキッチンが同室とされた部屋の他に二つの部屋、そのうちの一室には小さい四畳半の空間がある。随分使い古されたのか、藁が畳から飛び出している。柱には小さな子どもが落書きをしたのか、歪なチューリップの花のようなものがある。
何かないかと球を動かすと、居間と見られる場所で何かが動いているのが見えた。
小さなそれは、無邪気な笑みを大きなだれかに向けて積み木を組み立てている。手のひらにも満たない者にしか住めない家を建てようとしているらしい。一風吹けば崩れ去ってしまうだろうに、小さなそれは一生懸命手を動かしている。
―― お前がいるね ――
「ははさまもいるね」
しかし、その母の顔は曇っていてよく見えない。まるでのっぺらぼうみたいだと、わたしは残念な思いで息を吐いた。
―― ふふ、懐かしいね。確か、このあとお前は自分で積み木を蹴って泣いてしまったのだったっけ ――
「壊しちゃったの……?」
わたしは不安に唇を震わせた。
壊れてしまったものはもう戻ってこない。それを知っているから、壊れてしまうことがとても悲しい。わたしの立てた積み木はもう帰ってこないのだ。わたしの手で亡くしてしまったから。積み木が死んでしまったことに対する痛みが、球の中のわたしの涙となって崩れてしまった積み木に落ちた。
―― でも、わたしが元通りに直してあげたらまた笑ってくれたよ。お前はすぐ泣くけれど、すぐ笑ってくれる ――
小さなわたしが壊してしまった積み木を、夢の中に沈んでいる母が容易くもとの形へと戻していく。驚いたように両目を開けたわたしの顔には、太陽のごとく眩しい笑みを浮かんでいた。
もう、そこには痛みはない。壊れてしまったものは母が元に戻してくれた。傷だらけのそれは治された。母は苦労をしているだろう荒れている手で、わたしの心の穴を埋めてくれる。
「もう、その言い方だとわたしが能天気みたいだよ、ははさまっ」
―― ごめんごめん ――
謝っているものの、それでも楽しそうな母の声を聞けて、わたしは嬉しくてたまらない。
母はわたしを愛してくれている。わたしも母を愛している。この心はだれにも歪められない光だ。胸に突き刺さっていた針は、もうそこにはない。だって母が治してくれたから。だから、もう痛くない。
なんて幸福だろう。
これならば、わたしは母を亡くす妄想になどに囚われずにいられるはずだ。
―― それでね、確か、このあと……――燃えたんだ ――
「え」
透明な球の中に、赤い業火が灯る。ゆらゆらゆらゆら、夢は赤く揺れる。秋でもないのに、無数の紅葉が舞っているかのようだ。
―― そうだよ。燃えたんだ、わたしは。火が、蛇みたいにわたしの足に絡み付いて、痛くて、肉が焼ける臭いが鼻に飛び込んできた ――
「は、ははさま? やめて、怖いよ。ねえははさ――いッ……!」
握り締めていたガラス球は、火で炙ったかのように赤くわたしの手を焼いた。肉を焼く感触に、わたしは痛みを覚えて地面に落とす。割れるかと思われたガラス球は、一度だけ地面を跳ねると黒いカーペットを敷いたような地面を転がっていった。
火が揺れる。火を含んだ球が転がる。だめだ、あれは、落としちゃいけない。拾わなくっちゃ。
―― 痛くて痛くてしょうがなかった。でも、目の前でお前が泣いていた。足が焼けているわたしを見て、お前は逃げようとしなかった。それどころかわたしを助けようと手を伸ばしてきた。だめだよ、だって、ここにはもう火しかない。お前まで燃えてしまう ――
わたしは必死に球を追った。だけれど、ころころと球は転がるばかりでわたしの手の内には戻ってきてくれない。揺らぐ火は、まるで笑っているように見えた。逃げないで、逃げないで、あなたに逃げられたら、わたしは――。
―― わたしは、唯一燃えていない両腕でお前を外に投げた。そして、わたしは ――
球の中の火は、ガラスを通り抜けて外へと抜け出した。一本の縄を伝うように、見事にわたしを避けて赤い蛇は母の元へと素早く這い寄る。母は逃げない。いや、逃げようとしなかった。
――嫌だ。
「――やめてっ、亡くならないでぇ!」
―― そうか。わたし、死んだんだ ――
白い母は小さな呟きを吐くと同時に、その体を白から赤へと変異させた。
炎に全身を焼かれながらも、母は痛みにもだえることもせずにただ呆然と立ち尽くしている。声も、意思も、何もかもを炎に焼かれておきながら、母はその脅威から逃げるようなことはしない。受け入れているのだ。事実をそのままに、わたしのように逃げるようなことはしない強い母は、ただ自身の未来を受け入れている。
――置いていかないで。
沈むような叫びがわたしの中で溢れた。
乾いた黒い瞳がゆらりと揺れる炎を映している。痛みに汗を流す母の顔が、死を否定したがる思考の雨の中で見えた。母は笑っている。わたしは泣いている。なんで消えてしまうのだと、手を伸ばす先にはもうあの人はいないのだ。ここにあるのは幻想、わたしの、願い。
『あのね――痛いけど、辛いけど、それでも、生きていて。失ったぶん、幸せなことだってたくさんあるんだから。だから、お前は幸せになれるよ』
「うそだ」
ははさまはうそつきだ。
あなたのいない世界に、幸福なんてあるわけないじゃないか。光を失った世界に、もう一度光が灯されるわけがないじゃないか。こんなに痛いのに、こんなに苦しいのに、これを忘れることなんてできるわけがない。
だから、わたしは――。
「ははさまは、死んでなんか、いないもん」
母だったものは、くしゃりと泥のような炭の塊になって地面に焼け落ちた。
そこには温もりはない。冷たくも温かなあの心地よさは、もうどこにもない。死んでしまった母を、母は認めてしまった。だけれどわたしはまだ母の死を認めていない。だから、相反するわたしたちの意志で、以前の母はもとよりいないものとされてしまったのだ。
「壊れちゃった……」
ぽつりと、独りきりの世界に孤独な呟きが広がった。
わたしは母の素であるそれに近寄り、散らばってしまったそれらを一箇所にかき集める。肉片のようにしっとりとした感触のするそれを、砂山状に固めていく。
『なにをしているの』
いつの間にか、そこにはいなかったはずのしーくんがいた。
そうか、彼は優しいから、わたしを孤独にするのを許さない。だから、わたしの夢の中でも彼は存在し続けられるのだ。わたしを傷つけないから。
「直してるんだよ。ははさま壊れちゃったから、戻さなくちゃいけなくて」
また、新しいははさまを作り直さなくちゃいけなくて。
母とは違う灰色染みた白い手が、母をかき集めるわたしの腕を掴んだ。
『だめだよ。だってそれはもう治らない。終わったものは、もう戻せない』
「どうして――どうしてしーくんはそんなひどいことを言うの?! 終わってなんかない! わたしはまだここにいる! まだははさまは直せる! なのに、どうして……!」
『亡くなったから言ってるんだよ。積み木はまだ直せるさ、物だからね。でも、君のお母さんは物なの? 違うよね。生きている、大切なヒトだったよね? ヒトは直せないんだよ。君のお母さんは直せない。大切だからこそ、もうこの夢は終わりにしなくちゃいけない』
「――やめて」
わたしは必死に首を振った。見たくないものなんて見たくない。わたしはずっと心地のいいここにいたいのだ。痛いものなんて見たくなんてない。苦しいものなんて欲しくない。
「ここは、わたしの現実なの。どこでもないここが! わたしの現実なの! しーくんならわかるでしょうっ? ここは苦しくない。わたしをシアワセにしてくれる! なのに、現実にいるあなたがわたしの現実を壊そうとしないで!」
わたしは動くのを止めたガラス球を掴むと、しーくんのいる世界から駆け出して逃げた。
苦しいのは嫌。痛いのは嫌。だからわたしは逃げる。わたしを苦しめないどこかへ向かって逃げ続ける。でも、知ってるの。わたしを苦しめないものなんてないんだってこと。わたしがいる限り、痛みはどこまでも追ってくる。




