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見えぬ世界  作者: 秋花
水晶の中

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1/5

一話

 卑しいまでの空虚の群れが、わたしの心を巣くっていた。

 そこに痛みはない。苦しみはない。それもそうだろう。空っぽなものが傷つくわけがない。皮肉だが、わたしはそれを憎んでいたものの、同時にそれを快楽として手放すのを惜しんでいたのだ。


 わたしは、わたしと足りえるものを失った。言ってしまえば、その瞬間のわたしはあまりにもか弱く、愛玩動物にさえも容易く噛み殺されるほどの弱者だった。

 だが、そのように弱ってはいてもわたしが壊れることはなかった。また、それがいっそうわたしという人間の首を絞める結果となってしまった。胸中を中心に、見えない痛みがわたしの身を焦がした。それこそ、地獄の業火に焼かれるのと同じ痛みがわたしの肉体を打った。

 痛みはいやだ。亡くすのはもっといやだ。


 だからこそ、亡くしたくない一心で伸ばした手を、亡くしたくないその人に払いのけられたときのわたしの絶望は計り知れないものになったのだろう。

 なんで、と叫ぶわたしのわめき声に、その人はおまえをなくしたくないためなのだと言う。


 そんなのはあなたの勝手な言い分じゃないか。わたしはこんなにもあなたを亡くしたくないのに、なぜあなたは腹立たしくもそんな困ったような顔をするの。あなたを亡くすために、わたしの(プシケー)を壊していったい何が残るというの。


 泣き叫ぶわたしをあやすように、その人は痛くて苦しいくせに目を細めてゆっくりと言葉を紡いだ。


『あのね――』



 ―― どうしたの? ――


 現実の声が耳に入り、わたしの中で暴れていた仮想の世界がかき消えた。途端に、形成されていた世界が霧がかったように真っ白に染まる。

 意識を取り戻したわたしは、痛いものから目を逸らして疑問の声に首を振る。


「ううん、なんでもない」


 ははさま、と闇の中に溶かした声は母に届いたようで、なんだいと冷たい手がわたしの手を包んでくれた。

 怖いくらいに冷たい手。だけど、ここではわたしにとって一番温かいものだから、声をかけるだけで包んでくれるその温もりが、今のわたしにはひどく愛おしい。


「さびしかったの。とても、さびしかった」


 あの瞬間、わたしはなにもかもを覆い尽くす見えない谷底を俯瞰(ふかん)していた。今は見えないけど、あの先にはなにもない。だれもいない。知っていたなにかの前では、わたしはだれよりも孤独だった。


 ―― そう。今は、さびしいかい? ――


 まさか。そんなわけがない。わたしは首を振った。


「ははさまがいるから、もうさびしくないよ」


 どんな怖い世界でも、どんな寂しい世界でも、母というあなたがいるかぎり、わたしは決して傷つくことはないだろう。

 だって、あなたがいる世界はこんなにも愛おしい。

 だから――ずっと一緒にいて、ずっとわたしの孤独を慰めて、ずっとわたしに忘れさせて。


 わたしにとって、この世界はあまりに怖くて愛おしいから。






 わたしには、一人だけだけど友だちがいる。

 表情はよく見えないけど、彼は灰色のもやが人型に固まって出来たような姿をしている。

 彼は母と同じような冷たい体温を持っているが、それでも、そこにある背筋をひやりとさせる恐ろしさは母とは違うものだ。母のものは安らかな心地に至れるのとは相対的に、彼のものは少し怖い。しかし、彼自身を怖いとは思わなかった。だって彼はたった一人の友だちなのだから。

 わたしはそんな彼のことを〝しーくん〟と呼んでいた。いつからだったかはわからない。いつの日だったか、会ったその日にだったか、気づけばわたしは彼をしーくんと呼んでいた。書架に無数に並べられた書物の中に、その名前がひょいと紛れ込んでしまったかのよう。だが、それでいいのだ。理由なんてくだらない飾りはいらない。在るように在るのが友だちというものだろう。


『今日はあそこに行こうか』


 しーくんはわたしを色んなところに連れて行ってくれる。そこは家であり公園であり学校であり病院であったりする。だが、時々しーくんが行けてもわたしが行けない場所があった。そこはしーくんにとって形のあるもののようだけれど、わたしにとっては姿を隠した白い世界でしかない。そんなとき、わたしはしーくんに文句を言わないで黙ってついていく。そういうところを見に行くとき、しーくんは酷く楽しそうだったからだ。顔は見えないけど。

 ただ、一つ残念なことと言えば、しーくんの世界にわたしが行けないという、そういう事実だろう。


 しーくんと歩く道では時々そんな白い世界がうつらうつらと漂っている。

 道行く先々で白く散ったもやが溢れている中、それでも色形がしっかりしているものだってある。好きなアイスクリーム屋や駄菓子屋だったりと、それはだいたいがわたしの知っているものだったりした。だから、この白いもやは、わたしの知らないもので満ちているのかもしれない。

 わたしは白くて冷たい手に引かれてコンクリートでできた道を歩く。ざくざくとわたしの運動靴がコンクリートの隙間に挟まっている砂を踏む音が響くものの、しーくんは滑るようにわたしの先を進む。音は一つ。世界は二つ。しーくんとわたしの世界は決して混ざらない。

 ある程度歩くと先に見える少々使い古された色が目立つ白い建物が見えた。どうやら今日のお散歩先は学校らしい。

 学校の正面にくると、しーくんは何して遊ぼうとわたしに訊いた。


『かくれんぼにする?』

「一人ぼっちで寂しいからいや」

『じゃあ鬼ごっこ?』

「しーくん速いもん。わたしすぐ捕まっちゃう」


 遅くするからとしーくんは言うが、それでは意味がないではないか。わたしは平等に楽しみたいのだ。もっとたくさん友だちがいたら別であろうが、いないのだからそれは却下である。孤独は二人で癒せるが、楽しめるのが不公平だなんて最低にもほどがある。

 他にもしーくんは様々な遊びを提示してくれるが、それらはもう飽きるほどやってしまったのでわたしは首を振るばかりだった。わたしの味気ない反応に、しーくんは困ったように爪の形すら見えない五本の指で丸い頭を掻いた。


『うーん、もうお散歩はあらかた攻略済みだし……どうしようか……』

「むふふ、そんなしーくんに面白い遊びを教えてあげましょうっ」


 いつもは教えてもらってばかりのわたしが教えてあげるのだ。自然と頬も緩んでしまうというもの。しーくんはどんな遊びなのだと興味を示してきた。

 わたしはポケットをごそごそと漁ると、宝物のように扱っていたそれを手のひらに乗せてしーくんに見せる。


『――ビー玉……? ビー玉転がしでもするの?』

「しーくんわたしを子どもだと思ってるでしょう」


 それはしーくんの言うとおり、ビー玉と同じような球体のガラスを模している。

 以前、母からもらったそれはわたしの宝物だった。

 透明なガラスの殻に覆われたそれを覗いた先には、実際に見る景色とはどこか違ったものが入っている。夢と幻が篭められている。小さな世界を閉じ込めたようなガラス球が、わたしはいたく気に入っていた。

 しーくんは自慢げにガラス球を渡したわたしをよそに、手渡された違う世界(ガラスだま)を通して学校を見ている。


『へー、すごいねこれ。あっちの世界が見えるの?』

「――? あっちの世界?」

『だって子どもがたくさん見えるよ。サッカーボール蹴ってる』


 疑問符を頭上に浮かせたわたしは、しーくんから返してもらったそれを、しーくんが見ていた校庭へと向ける。わたしはガラス球を覗いた。

 驚くことに、しーくんの言うとおり、玉の中では小さな少年少女たちが一つのサッカーボールを追いかけて遊んでいた。咄嗟に現実の校庭を見るも、そこには砂煙一つ起こっておらず時が止まったままだ。再度ガラス球を覗くと、一人の少年がゴールに見事ボールを蹴りこみ、同チームの子どもたちと仲良さげに手を叩き合う瞬間が映っていた。


「うわぁ……なにこれ」


 わたしは感嘆の声を挙げた。口元は喜びと驚きが混じりあい、だらしなく開けられている。


『そうだ。今日はこれを見ながら学校を回ろうよ』

「うん! それ楽しそう!」


 わたしの目はまだガラス球の子どもたちに向けられていた。時のないわたしの世界で、唯一小さな現実を描いている彼らは覗かれているとは知らずに動いている。



 

 少年が手を挙げている。少女が歪な絵を描いている。子どもたちがかけっこをしている。

 巡り巡って、全ては遠いところで動いている。わたしはしーくんという隣人の手を引きながら、小さな球を通してその動きを眺めている傍観者であり、どんな視点からでも全ての喜びや罪を知ることの出来る神様のようなものでもあった。しかし、神様(わたしたち)はガラス球を掲げることでしか世界を覗けない。干渉すら出来ない。なにもかもがそう在り続け、わたしはそれを見つめているだけ。それが歯痒くないわけではない。だが、憧憬の念は感じてはなかった。わたしの愛は小さな世界にいる彼らには届かないけれど、隣にいる白い彼には届いている。

 だが、残念なことに白い彼が見たかったであろうわたしの知らない世界の動きを、ビー玉は映してくれなかった。わたしが見上げてみた彼の横顔は、わからないはずなのにどこか悲しそうに見えた。

 どうにかして見れないものかとビー玉を転がしてみるが、失くしかけただけで変化はみれなかった。肩を落とすわたしに、しーくんは感謝するように頭を撫でてくれた。



 とある教室をガラス球で覗いたとき、その教室だけ他のものと違うように感じた。まるで、一つ一つの教室という部屋の中で、それは唯一ノイズがない一室のようだった。それこそ、細やかに人という人を、背景となっている机に書かれている落書きの数々を映し出している。夢のような曖昧なガラス球の世界で、己の形を確かに持った空間は初めてかもしれなかった。理由はわからないが、唐突に映像が途切れたりするよりはいいだろうとわたしは首を傾げるのを我慢しながら、ガラス球を教室内に向けた。

 その世界では、子どもたちが真面目に席に座っているのに対し、複数の大人たちが子どもたちを見守るようにぎっしりと教室の後ろ側にひしめいていた。音は聞こえないが、一部の大人がこそこそとなにかを話し合っているのが見える。たくさんの人間を小さな四角い世界に押し込んだ様子は、どこか窮屈そうだ。


「なんであんなにたくさん大人がいるの?」

『授業参観なんじゃないかな。ほら、子どもたちがいつもよりあんなに手を挙げてる。多分親御さんが来てるから一生懸命なんだね』

「へー」


 確かに、わたしも母がいたら頑張ってしまうかもしれない。母はとても優しいから、きっと褒めてくれる。母に褒めてもらったとき、わたしの世界は一瞬にして明るくなって何もかもを許せそうな気分になるのだ。わたしは、母に撫でられるために手を挙げるのだろう。

 ガラス球で教室全体を見回す。


『――あ、ここ。きみがいるよ』

「え、どこ?」


 ほらここ、としーくんが指差すところを見ると、確かにそこには意地張って手を伸ばすわたしの姿があった。でも、背丈が小さいからかわたしの手は他の多くの手の群れに隠されてしまって、隣の女の子に問題を答える権利を取られてしまったようだ。次こそと意気込むわたしの姿がそこにあった。

 ガラス球を下げれば、わたしの視界に映るのは静寂が沁み込んだ教室だった。陽射しはなく、影といった心に暗雲をもたらすような場所はない。一定の明るさが空気に溶け込んだように教室に巡っている。先ほどガラス球に映っていた子どもたちが座っていた椅子は、その体の大半を机の下に仕舞われていた。

 ――無論、わたしのいた場所も同じだ。体温の残り跡すらないそこは、空気の座るところとなっていた。


『ここにいたんだね』

「うん」


 寂しいと腕を抱くことはない。悲しいとも泣かない。

 わたしは現実の世界から消えて、この世界にいる。そこになんの後悔がある。あの世界でのわたしはもう死んでいた。生き残れる可能性のあるこの世界に移っただけで、わたしは間違っていない。一つの現実が死んで、また新しい現実がわたしの中で生まれた。それだけだ。

 わたしはしーくんの手を引っ張った。


『帰るの?』

「うん。そろそろ戻らないと、ははさまが心配しちゃうから」

『……そうだね。それじゃあ、また今度この遊びの続きをしようか』


 しーくんの嬉しい言葉に、わたしの中で夏に高く育つ橙色の大輪が咲いたような気分になる。あまりの嬉しさに、わたしは彼の腕を振り回した。


「本当?! しーくん約束だよ?!」

『もちろん、約束だ』

「じゃあねえ、じゃあねえ……! 公園行こう! 次は公園で遊ぶの!」

『うん、うん。決まりだね。……あと、きみ。嬉しいのはわかったけど、そろそろ腕が千切れそうかな』

「やったぁ! ふふふー、今日はははさまに話すことがたくさんあって嬉しいなぁ!」

『……まあ、いいか』


 白いヒトと小さなわたしが歩く帰り道。わたしは在るはずのない彼に笑顔を向けて、心の底から幸せだと謳う。一つに繋がった右手と左手が青い空に向かって大きく上る。固く結ばれた両手の上に太陽はない。無数に浮かんでいる動かない雲が、風がないのを寂しがるようにそこに静止している。


「うーさーぎおーいしー、おーいーしーいー」


 うろ覚えの歌を時間の止まった街中で流す。確か、夕方の五時にこんな曲をよく聴いた気がする。伸びやかなリズム感無視なわたしの歌声が、沈静している世界を壊していっているよう。そう、世界はわたしのさじ加減一つで壊れてしまうほどに脆い。わたしはこの世界の支配者なのである。そんな子ども染みた物語がわたしの脳を愉快にさせた。

 しーくんは何を思ったのかくすりと笑った。


『そこは〝兎追いし、かの山〟だよ。懐かしいなぁ、ふるさと』

「あ! しーくんも聞いたことあるんだ!」

『うん、でも、この曲嫌いだったんだ』

「キライ? どうして?」

『友だちがみーんな家に帰っちゃう時間によく流れてたんだよ。お家のお母さんが早く帰りなさいってみんなを迎えにきてね。僕だけ誰も迎えにきてくれなくて、うじうじと誰かがきてくれるんだって変な意地張って、いっつもブランコ揺らしてた』


 色のない光が橙を帯びて世界を染める。影のない世界を、上から布を被せるように深く深く夜の海に沈み込ませる。地面と空、音もないのにあの曲が流れて震わせている気がした。

 ざくざくと、帰り道を一人ぶんの音が歩んでいる。


「しーくんのお母さんは迎えにきてくれなかったの?」

『母さんは迎えにこれないくらい遠いところへ行っちゃったからね。だけど、代わりに姉さんが迎えにきてくれたんだ』


 音は一つ。だけど、一人じゃない。その隣には確かに誰かがいる。わたしの小さな手を握って、彼が付き添ってくれる。


「じゃあ、しーくんは寂しくなかったんだね」

『僕はね。だけど、姉さんは寂しがってる』

「どうして?」

『――姉さんが迎えに行っても、そこに僕はもういないから。寂しいよ。あるはずのものがそこにないんだ。僕には辛くて、あまりに痛い』


 白い点が、夕闇に落ちた地面にこぼれる。それは、しーくんの顔から垂れてきているようだった。

 ぽつぽつぽつ、しーくんは足音の代わりに小さな月を地面に写した。闇色の雨が墨の代わりに世界を黒く濡らしている。しーくんはまるで弱った迷子のように見えた。


「帰らないの?」

『帰りたいよ。でも、帰れないんだ……。ううん、帰っちゃいけないんだよ』


 わたしにはわからない。帰ってはいけないとは、どういうことなのか。

 彼が苦しんでいるもの、それはつまりわたしがははさまのところへ帰れないのと同じなのだろう。そんなもの、わたしには到底耐えられない。なのに、彼は耐えようとしている。わたしにはそれが理解できなかった。

 帰り道は終わりを迎えていた。目の前にあるのは、わたしの家だ。ははさまが待っている家だ。暗闇の中でも光を湛えているかのように、その家だけが見失われていなかった。


『ほら、お帰り。きみには帰る場所があるんだから』

「しーくん」

『なんだい?』

「しーくんは、なんでここにいるのかわかる?」


 わたしがここにいるように。ははさまが待ってくれているように。

 誰かがいて誰かがいる。声も届かないだろうに誰かが待っている。それは思いのようで、苦しみのようで、わたしは圧倒的なまでの暗闇を流すのだ。


『……呼ばれたから、ここにいる。今はそれじゃあだめかな』

「誰に呼ばれたのかを教えてはくれないの?」

『いつか教えてあげる。……大丈夫だよ、答えはすぐそこにある』

「……わかった。いつか教えてね」


 うん、としーくんは言ってわたしの背を押した。

 押す力はそれほど強くない。それどころか、浸るほどに心地いい。甘い蜜に沈んで、わたしはしーくんに別れを告げた。ばいばい、またね。わたしが手を振ると、しーくんも手を振ってくれる。必ず返ってくる返事に、わたしは安心して息を吐ける。


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