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zero  作者:
激動
8/11

鎮静









気づいた頃にはそこにいた。


名前もなく、自分がだれの子供でどこから来たのかもわからない。はっきりとした育ての親のような存在がいたわけでもない。まわりには自分と同じような存在の人間がたくさんいただけだった。家はなく、収入もほとんどない、いわゆるホームレスの人間たち。


もちろん子供もたくさんいたが、大人たちはそういう子供を養うとか、そんな恩着せがましいことはしなかった。なぜならば、自分たちは仲間だからだ。他人を養ってやるほどの生活力はないが、助け合うことを忘れはしなかった。子供だろうが大人だろうが、自分の力で生き、自分という存在に誇りを持ち、しかし謙虚に、影でひっそりと生きる。そんな場所で、俺は育った。


自分たちの地区のホームレスが集まる生活場所を、みんなは「ホーム」と呼んでいた。俺のホームはTokyoの東部の下町、旧ビル群の影にあった。そこではみんな自分のテントやダンボールの家を持ち、助け合って生きていた。いつの間にかそこにいた俺は、たぶん親に捨てられた孤児だったんだと思う。人に聞いた話では、まだ産まれたばかりの俺が捨てられていたのをここのホームレスのひとりが拾ってくれたんだとか。ホームでは孤児を拾ってやるのは珍しい話ではなかった。その子供が自分で歩き、話せるようになるまではみんなで育て、そしてひとりで生きるようにさせる。俺もいつの間にか自分で稼ぎ、生きる術を身につけていた。


「きっぺー!こっちよってけや!」

「きっぺー!メシ食ってくか?今日はけっこう稼いだんだぞー。」


みんなは俺のことを「きっぺい」と呼んでいた。だれが名づけたのは知らないが、なかなか気に入っていた。ホームではみんな良くしてくれて、たとえ家がなくても、ホームは俺にとってとても幸せな空間だったのだ。


ホームの一番隅のビルの軒下。そこが物心つたときから俺が使っていい陣地だった。だけどある日、ホームの他の子供と仕事が休みの日にかくれんぼをして遊んでいたら、最高の隠れ家を見つけた。もう使われていない古い家の木の塀に隙間があって、だれにも見られないようにこっそり中に入ってみた。ドアはがちがちに目張りがされていたが、ペット用らしい小さな出入り口に張り付けられていた板は子供の手でも簡単にはがすことができた。中はホコリっぽかったが、屋根があり、壁があり、床があった。はじめて俺は「家」を持った。その日から、俺はそこに住むことにした。


「おい、きっぺい!」


ある朝隠れ家で家電の修理の仕事をしていると、外から呼ぶ声が聞こえてきた。塀の向こうには「けん」がいた。「けん」は俺よりも年上で、背も高く、がたいの良い男。ホームでは有名な良いやつで、みんなの人気者だった。


「けん!なんだよ。」

「お前騒ぐなよ。いいか。大人しく聞け。」


けんは伸びた茶色の髪をかいて、しゃがんで俺と視線を合わせた。


「お前、兄貴になる自信あるか?」

「あにき?」

「そうだ。兄ちゃんになるんだ。」


すぐに新しい孤児が来たんだと思った。俺は小さい頃からずっと憧れていたのだ。けんは俺の兄貴役で、いつでも面倒を見てくれていて。いつもそんなけんみたいになりたいと思っていて、そのチャンスが来たんだと俺は思った。俺がすぐにうなずくと、けんは笑ってわしゃわしゃと俺の頭をなでてくれた。


「よーし、お前も男だな!しっかりやれよ!」

「まかせろ!で、で、新入りは?どこ?」


それにけんは豪快に声をあげて笑い、また俺の頭をなでた。


「ははは!いや、新入りはまだいないんだ。」

「え?じゃあなんなんだよ。」

「お前が男になったか聞きに来たんだ。これからはお前はホームの兄貴になるんだ。それがお前にできそうか聞きたくてな。」


けんは黒人の血の混ざった混血児だった。その褐色の肌が見えるけんの右腕には大きな刺青が入っていて、それは風になびくライオンのような馬鹿みたいにかっこいいものだった。


そのかっこいい右腕でまた俺のことをなで、けんは少し真剣な目になった。けんの金色の目は、まだそのころには俺が見たこともなかった、本物のライオンの目とそっくりだった。


「きっぺい、お前は俺の大事な弟だ。だけど俺にとってはここのホームの人間もみんな大事だ。お前もそうだろ?」

「うん。」

「ここのやつらはみんな良いやつらだ。俺はホームを守りたい。だけどな、俺はホームを守るためにも、ここをしばらく離れなきゃいけないことになったんだ。」


けんの目を見てすぐにわかった。俺は拳を握り締めて、けんを見返した。


「けん、戦争に行くのか?」


けんはそれに優しい顔で笑って、なでっぱなしだった右腕を俺の頭から離した。


「ホームを守りに行くんだ。だから、きっぺい。俺の代わりに、お前がここを守れ。俺は遠くでここを守るから、な。」


言い切って帰って行こうとするけんの背中に俺は言った。


「けん。」

「なんだ?」

「けんはライオンなんだ。けんは強いよ。絶対負けない。」


それに笑ったけんの顔は一生頭から離れないと思う。心からうれしそうで、でも今にも泣き出しそうだった。


「さんきゅ。きっぺい、お前も強くなる。絶対だ。」

「……うん。」


けんは一度戻ってくると、俺の前で立ち止まった。


「お前はどんな男になりたい?」

「どんな……?」

「そうだ。強いって言ってもいろいろあるだろ?どんな強い男になりたいんだ?」

「俺は………」


けんの髪が風になびいて、本当にライオンのたてがみのように見えた。誇り高く、強く、そして優しいけんはライオンにぴったりだった。俺はそんな男になりたかった。だけど、けんの真似ばかりではだめだとも思った。だから。


「あきらめたりしない男になる!強くて、なんでもできて、いつかはけんを追いかけて追い越すんだ!」


それにけんはまたうれしそうに笑った。


「そっか。じゃあお前は鮫だな。」

「さめ?」

「そうだ。鮫は絶対に止まらないんだ。いつまでも進み続ける。歯が折れてもまたすぐ生えてくる。いつまでも強くあり続ける生き物だ。お前にぴったりだろ?」

「うん!!」


けんは拳を突き出し、俺はその大きな拳に自分の小さな拳を突き合わせた。けんに会ったのは、それが最後だった。


次の日、けんの住んでいたテントは跡形もなく消えていた。みんなけんが戦争に行ったことはわかっていたし、軍に所属していたわけでも、養成所に通っていたわけでもない一般人が戦争に行けばどうなるかもわかっていた。みんな悲しんだだろうが、それを口に出す者はだれもいなかった。


その日は、ひどい雨が降っていた。


けんがいなくなった次の日も、豪雨はまだ降り続いていた。修理し終わった家電を業者に引き渡し、隠れ家まで帰る途中、少し遠回りをして行くことに決めた。傘は持っていなかったし、土砂降りの雨で濡れることはわかっていたのだが、あの日はたまたまそんな気分だったんだ。


流れの早くなった川の堤防を歩いていると、向こうから小さな影が、ふらふらと歩いてくるのが見えた。今にも川に落ちてしまいそうな足取りだったが、物乞いか何かかと思って警戒しながらゆっくりと近寄った。


しかしそれは、小さな女の子だった。


汚れた服を着て、茶色がかった金髪は、汚れているからなのか、そういう色なのかわからないほど全身汚れてぼろぼろだった。俺に気づくと警戒したような目をして、あざだらけの身体をわずかに震わせていた。


『お前、兄貴になる自信あるか?』


けんの言葉が頭に響いて、離れなかった。


「お前、どこから来たんだ?」

「…………。」

「家、ないのか?」

「…………。」


何も答えなかったけど、女の子の緑色の目はさみしそうで、思わず手を取った。


「うちに来い。」

「え?」


驚く女の子をよそに俺は隠れ家にそいつを連れて行った。メシを食べさせてやると、そいつはうれしそうに、悲しそうに泣いた。本当に弱々しくて、今にも消えてしまいそうな小さな女の子の頭をなでていたら、頭よりも先に口が動いた。


「俺は強いんだぞ。だから大丈夫だ!」


その日はそいつが落ち着いて眠るまで、隣でずっと頭をなでてやって、そして朝が来るまで、ずっと考えていた。


けんはなぜあんなに強かったのか。なぜひとのためにあんなに強くなれたのか。けんにとって強さとはなんなのか。自分の存在はどんな力と意味を持っているのか。


戦争が続く世界の片隅で、俺はここで何ができるのだろうか。これからこの国が、ホームが、どうなるのかはだれにも想像できない。みんなを守ると言っても、みんなに家を与えることができるというわけではないのだ。自分の力の限界を考え、そのうえでできることを決めるしかないのだ。それが人間というもので、それがまっとうな生き方だと思った。ホームレスはホームレスとして毎日を生きていくことが限界だ。けんにとっての限界は、ひとりの戦士になって、この国の盾になることなんだったんじゃないか。じゃあ、俺にできることはなんなんだろうか。


目の前では小さな女の子が俺の服を握って静かに眠っていた。名前もなにも知らないけど、この子が助けを求めているということを知るにはあの涙で充分だった。


じゃあまずは、この子を助けなければならない。ホームを守らなければならない。そのためには、強くならなければならない。強くなろう。だれよりも強く。みんなを守れるだけの力をつけよう。鮫になるんだ。


うるさく降り続けていた雨は、いつの間にか止んでいた。


朝日が登るのを待ち、女の子を起こさないように静かに隠れ家を出た。外は雨上がりで清々しく、残る水たまりを踏みながら走った。ホームには人の数だけたくさんの種類の商売がそろっていたが、その中に刺青を入れることを商売としているひとがいたのを知っていたのだ。俺はそこへ向かった。


「じんさん!」

「おお、きっぺーか。どうした。朝飯ならまだ作ってないぞ。」

「ちがうよ。仕事を頼みたいんだ。」

「お?仕事?なんだ、良いもん見つけてきてくれるじゃねぇか。だれだ?どいつに彫ればいい?」

「俺だよ。」

「あ?」


刺青を入れるのはとても痛くて、泣き出したいくらい辛かった。だけど、強い男は泣かない。これは俺の決意だった。強い男になってやるという、決意だったんだ。


「よーし、できた。もういいぞー。」


じんさんがそう言い、鏡で見せてくれた。それを見てみると青い鮫が俺の首の後ろから左頬にかけて泳いでいる姿が綺麗に浮かび上がっていた。痛くて触ることはできなかったけど、大満足だった。


じんさんにお礼を言って立ち上がると、道の向こうにあの女の子が来ているのが見えた。泣きそうな顔をしてこっちを見ている。


「なんだ、来たのか。」


そう声をかけるが、女の子は驚いたように言葉を失ったままだった。だから近寄って、言ってやった。


「俺は強いんだって言ったろ!これがその証拠だ!」


それに女の子はパクパクと口を動かしたあと、小さい声で言った。


「………いたくないの?」


そしてあざだらけの細い腕を震えさせながら刺青のほうへ伸ばしてくる。その手を握って、俺は家へ向かった。


「お前がどんなつらいことがあったか知らないけどさ、たぶん殴られるのよりはこんなのずっと痛くないよ。」

「………。」

「お前名前は?いまいくつ?」

「…………りあ。よんさい。」

「なんだ。俺とおんなじくらいじゃん。俺いま5歳。誕生日いつ?」

「ろくがつ。」

「6月?まだ来てないの?じゃあ同い年なんだ。へー。」

「………なまえ……きっぺ?」

「きっぺじゃないよ。きっぺー。」

「ふふ。きっぺ。」

「ちがうって言ってんだろー。」


はじめて笑ったのを見て、すごく安心した。笑った顔はすごくかわいくて、笑うのがとても似合う子だなと思った。ずっと笑っていて欲しいとも思った。その日はまずはりあを風呂に入れてやって、それからホームのみんなにりあを紹介して、一日中遊んだ。何をしても初めてのことみたいで、たくさんの遊びを教えたし、とても楽しそうで、俺も楽しかった。


夕方、りあの手を引いて歩いて帰る途中で、養成所の制服を着たひとたちが歩いていくのを見つけた。とてもかっこよかった。


「きっぺ。」


後ろからりあに呼ばれて振り向くと、会ったときよりきれいになったりあが、貸してやっただぼだぼのTシャツの首元が肩まで落ちたまま、にこにこと笑っていた。


「なんだよ。」

「あのね、今日ね、楽しかった。」

「そっか。」

「こんなにね、いっぱい笑ったのもね、おしゃべりしたのもね、はじめてだったの。」

「そうなのか?」

「うん。」

「つまんなかったろ。」

「……うん。」

「でもこれからは毎日こんなんだからな。」

「うん!」

「働かなきゃだめだけどな。」

「………それって…嫌なこと?」


りあの顔を見て、この子が今までどんな目にあってきたかすぐにわかった。ホームレスとして働いてる間にも、たまにそんな子を見かけることがあったから。親がいるのに、あやしい建物に連れていかれてしまう子供たち。あんなの、家があっても、ないのと同じだと思っていた。だから俺はりあの手を強く握って、家に向かって歩き出しながら話を続けた。


「全然嫌なことじゃない。」

「ほんとに?」

「うん。働くって言ってもな、自分でしごとを探して、そんで働くんだ。だから嫌なことはしなくていいんだ。」

「ほんとにほんと?」

「やくそく。」

「………うん。」

「お前はこれからずっとここにいていいんだ。お前が嫌にならなかったらな。」

「うん。」


夕日がすごくきれいで、向こうで鳥が飛んでいるのも見えた。昨日まで降っていた雨のおかげで、空気もとても澄んでいた。


「きっぺ。」

「んー?」

「あたし、きっぺのお嫁さんになってもいい?」

「はあ?」


思わずまた振り向くと、今度はりあが俺の手を強く握ってにこにこと笑っていた。夕日にきらめくりあの金髪は、やっぱり俺の金髪より茶色がかっていて、とてもかわいい色をしていた。


「なってもいい?」

「まだはやいよ。」

「おとなになったら。」

「そんなさきのことわかんね。」

「でもずっといっしょにいてもいいの?」

「それはいいよ。りあがそうしたいんならな。」

「うん。」


おとなになったら、ね。


おとなになったときの俺は、どんな男になってるんだろうか。


でもとりあえずは、強い男になっていて、そして横でこうしてりあがうれしそうに笑っていてくれたら、満足だなと思った。


だから莉亜には、俺の誇りにかけて、笑っていてもらわないと困る。俺がどれだけ強くなろうと、そこに莉亜がいなかったり、そこで莉亜が泣いているようでは、意味がないのだ。あいつが嬉しそうに笑って、俺の名前を呼んでいてくれることが、俺の…………
















「………………………」


さわかな白い光が差し込んでいた。石みたいに重たい瞼をゆっくり持ち上げ、周りを見回す。見慣れた本棚に、見慣れた机、クローゼット。俺の部屋だ。


水が沸騰するような音と電子音が聞こえ少し顔を動かすと、ベッドの脇には物々しい医療器具が取り付けられ、たくさんのチューブが自分の体に繋がっていた。徐々に冴えていく頭に、最後の記憶が蘇ってくる。


(ああ、そうか俺は…………生きてたのか…………)


最後に感じたのは頭を打ち付けた感覚と、ぴくりとも動けないほどの体中の痛みだった。しかし今は、


「………………あ………」


左腕が動かない、と思ったが、変わりに感じるぬくもりに、一気に目が覚めた。


莉亜は俺の左手を握って、そこに顔を乗せて気持ち良さそうに眠っていた。ベッドの脇の椅子に座り、前のめりで眠る体勢は苦しそうなのに、寝息は穏やかなようで安心する。どこでつけたのか、頬にはかすり傷を隠すような絆創膏が貼ってあり、桔平の手を握る小さな手も絆創膏や包帯だらけだった。


ベッドに垂れる長い飴色の髪を右手でなでてやり、ふと気になって時計を探した。ベッドの脇にある時計を見ると、半透明の小さなスクリーンにデジタル数字で「8:45」と浮かび上がっている。そして、日付は7月22日。


「うそだろ…………」


予想以上に過ぎていた時間に驚愕し、思わずそうつぶやいてしまう。すると、


「んー……………」


莉亜がもぞもぞと動き出し、目をこすりながら起き上がると、ふと桔平を見た。桔平はそれに笑って、開放された左手をついて上半身を起こし、つけられていた酸素マスクを口から外す。


「おっす。」

「………………。」


まだ寝ぼけているのか、莉亜はしばらく不思議そうに桔平の顔を見つめていた。しかし突然目を見開き、いすからずり落ちる。


「…………え?え、き、きっぺ…………」

「おー。おはよー。」

「うそ………うそ………………」


(来るぞ………そろそろ来るぞ…………)


するとやはり、予想通り莉亜の大きな瞳からぽろぽろと涙が溢れ始める。あまりにも想像通りの姿にまた桔平は笑って、椅子から落ちたままベッドの端からこっちを見上げる莉亜の髪をもっと乱すように思いっきり頭をなでてやった。


「おはよ、莉亜。心配かけたな。誕生日祝ってやれなくてごめん。」


もう堰を切ったように溢れ出す涙をそのままに、莉亜は顔を歪めてぼろぼろと泣き出してしまう。でも、それでよかった。


「きっぺ…………よかったあ……よかったよおぉ………うー………」

「はは、泣きすぎ。」

「ばかぁ……忘れものしたって言ったのに……すぐ帰るって言ったのに………おそいよぉ………」

「ああ、悪かったって。」

「なに呑気にくまとってんの!どんだけお金かけたのー……ばかー……」

「あー、あれはけっこうかかったなー。でも気に入っただろ……ぐあ!!!」


突然抱きついてきた莉亜を痛む胸で受け止め、まだ震えたままの莉亜の頭を次は優しくなでてやった。


「ふざけんなばか!!もう単独行動禁止!!ばかばかばかばか!!!」

「ごめんって。ほんとごめん。」

「謝ってすむと思うなよー……」

「えー、くまあげただろ。」

「くまもう一匹。」

「金のかかる女だな。」


変わらない莉亜に心から笑い、そして桔平は心の中で莉亜に謝った。


泣かせてごめん。もう心配かけないから。本当にごめんな。


時計はいつの間にか9時をさしていた。









「桔平!!」


一時間ほどして、莉亜が連絡したようで、帰ってきたヨルが部屋に飛び込んできた。


「よ。1ヶ月ぶり。」


手を挙げて笑いかけると、ヨルは心底安心したようで潤んだ目で微笑み、長くため息をついた。


「本当に……起きたんだ。よかった。」

「心配かけたな。」

「ううん、いいの。起きたからって動き回らないでよね。しばらくは絶対安静。」

「へーい。」


もうすっかり元通りの桔平の態度に、ヨルは心底安心する。ベッドの脇の椅子にはテディベアを抱きながら座って上機嫌ににこにこしている莉亜の姿もあった。顔には泣き腫らしたあとがくっきり残っていて、それだけで莉亜の喜びようが目に見えてヨルまでうれしくなる。


桔平は横目でちらりとヨルを見た。医療器具を調整してくれるヨルは、少し痩せたように見える。もともと細身のヨルだが、見るからに疲れているようで、身を包んでいる制服もかなり汚れ、ヨルには珍しくシャツのシワがよく目立った。今のTokyoの現状、みんながしていることが手に取るようにわかる。


「なあ、やっば外はひどいのか?」


それにバルブをひねりながらヨルが軽く肩をすくめる。


「かなりね。養成所もまだ再開はできなそうだし。毎日復興のお手伝いって感じ。桔平はどう?まだやっぱり痛む?」

「まあ少しだけな。大したことねえよ。つーかこれだれが治療してくれたんだ?」


何気ない質問のつもりだったのだが、返ってきたのは 莉亜とヨルからの一瞬の緊張だった。


「あ?」


妙な雰囲気に眉を上げるが、ヨルは答えないまま部屋を出ていこうとし、ドアの前で少し困ったような微笑みを浮かべて振り向いた。


「もう少ししたら由宇も帰ってくるから………話したいことがあるの。それについても、いろいろ……」

「……………わかった。」

「お腹へってるでしょ?朝ごはん持ってくるから、待ってて。」


静かになった部屋で、莉亜は相変わらずにこにこと笑って桔平を見ていた。でもそこにはさっきより、どこか陰りがあって。


「おい、莉亜。」

「んー?」

「お前、どんだけ泣いた?」

「え?」

「どうせすげー泣いたんだろ。」

「こらあ!自信過剰だぞ!」

「ちげーよ。なんかあったろ、他に。」

「……まあね!」

「そうか。」

「うん。」

「がんばったな。」

「………………うん。」


また少し涙をこぼし、莉亜はゆっくり微笑んだ。何が起きたかわからないけど、とにかく今は莉亜のそばにいてやらないと、と思った。









「それで……………拓也が…………」


ヨルが事情を話終え、悲しそうに目を伏せた。だけど桔平の頭では、あまりにも突拍子のないその状況をなかなか理解できないでいた。


あの日のACはレベル11で、他国からの宣戦布告かもしれないと。そして治療は「サイトウ」という名前だったという情報屋がしてくれたが、彼はもう下の階には住んでいなくて、それは彼の目的が本当は「zero」だったという拓也だっただけで、自分たちにもう用はなくなったからだという。拓也は姿も過去も俺たちには隠していて、実際にzeroに間違いない。俺が前に助けた女も実は拓也の知り合いで、超人実験の成功個体である「eve」という生き物らしい。俺たちは軍の工作員に殺されないためにも、今後一切拓也には関わってはいけないのだという。


「……………」


黙り込んだままの桔平に、ヨルと同じく汚れた姿で帰ってきた由宇が申し訳なさそうにうなだれた。


「桔平、ほんとごめん。止めようと思ったんだけど、俺たちも全然わけわかんなくて………」

「いや、それはまじでお前らのせいじゃないだろ。むしろ俺も寝てただけで申し訳ねえよ。それよりさ…………」


桔平はまだ少し痛む頭を押さえて長いため息をついた。


「俺らって拓也のことさ、なんも知らねーよな。」


どれだけ記憶を辿っても、どれだけあいつの顔を思い出そうとしても、なぜかうまく思い出すことができないのだ。


唯一はっきりと覚えているのは、あいつに出会ったときのことだけ。俺たちがいた施設にあいつがやってきて、同じ部屋になって、みんなで遊んだあの日だけ。俺たちはそれぞれお互いの過去はある程度知っている。由宇やヨルには消したい過去もたくさんあって、すべてを聞いているわけではないのだが、それでもある程度は知っている。いや、知っているつもりだった。だが、拓也の過去に関しては、いま思えば一切聞いていなかった。それでも知っているつもりでいた。


「んだよ…………どうなってんだよ………」


頭を押さえたまま強く髪を握る。


「そんなはずねえんだよ……俺らはずっと拓也といたんだ………あいつのこと知らねえはずねーのに………なんで…………」


あいつとの思い出はたくさんある。それは事実だった。あいつとの喧嘩、殴り合い、みんなとの食事、通学、たくさんのことを拓也を含めたみんなでやってきた。そこにはいつでも一歩遠くから、しかし確実にそこに存在して微笑んでいたあいつがいたはずなのに。


今どれだけ記憶を掻き回しても、あいつの記憶と存在だけがとても希薄で、空っぽな気がする。気味の悪い感覚だった。


俺たちは結局あいつのことを何も知らない。


「………わたしたちも、たぶん今桔平が感じてるのと同じ感覚なの。」


顔を上げると、ヨルも悲しそうに顔をしかめて頭を押さえた。


「あの情報屋が言ってた通りなんだと思う。ずっと拓也は「存在感」を消してわたしたちと暮らしてきた。確かにそこに存在するのに、まるで景色の一部みたいにその場に溶け込んでしまう。だからわたしたちにとって拓也は確かに存在したはずなのに、家族だったはずなのに、何も知らないままになってた。それだけで拓也が……………会ったころからずっと拓也じゃなかったって、ことになる……。」


ヨルは泣き出しそうな顔に無理に笑顔を浮かべて、小さく笑った。


「おかしいよね。拓也はまだ15歳のはずなのに、わたしたちとは比べ物にならない15年を過ごしてきたんだよ。あの会ったころの拓也はもうzeroで、たくさん戦って殺して、わたしたちの前に現れてずっと姿を隠してた。わたちがずっと苦しいと思ってた生まれてからの7年間に、拓也は想像もできないような生活を送ってたの。変な感じだよね、ほんとに…………なんかうまく言えないけどこれって……ほんと馬鹿みたいだよね。」


泣き出しそうになる前にヨルは立ち上がり、静かに部屋を出て行ってしまった。その後ろ姿はいつもの冷静で強いヨルではなくて、か弱い小さな子供のようだった。莉亜も泣いてしまったのか抱いたままのテディベアに顔をうずめて黙り込んでしまう。


「あー、だめだ。俺やっぱまだ調子わりぃ。」


桔平はベッドに倒れ込み腕を顔に乗せた。


「俺またちょっと寝るからさ、一回ひとりにしてくんね?」


それにふたりが立ち上がって出ていく音がする。あいつらはもうとっくに悩んで考えて前に進んでいるというのに、寝てばっかりだった俺が今ここでうじうじしていることはただただ申し訳なかった。


静かになった部屋で、腕を降ろして天井を見上げる。見えるのはどれも見慣れた景色ばかりで、ドアからはヨルが作っているらしい昼食の香りがわずかに漂ってくる。このまま本当は何も起こってなくて、リビングに行けばいつもどおりの生活が待っていればいいのに。そう思ってしまう。


明日からはまた養成所に行けて、拓也もいっしょにいて………













嘘みたいに赤い夕焼け。


そういえば莉亜に会ったときも、こんな夕焼けだったかな、なんて思い出したりして。


「なあ。」


「んー?」


あのときは確か、俺たちはまだ養成所に入学したばかりで。まだ新しい制服を着て、莉亜とヨルと由宇が掃除当番か何かをやらされているのを屋上で待っていたんだ。


あいつはいっつも眠そうな顔をしていて。よく思い出してみれば、あのときから確かにきれいな銀髪をしていた。もっと思い出してみれば、あいつの横顔はいつも馬鹿みたいに整っていた気がする。


なんで、気づかなかったんだろう。


「お前は強くなって何がしたいわけ?」


「なにそれ。」


「いや、気になっただけ。」


「えー……なんだろうなー………」


「なんかあんだろ。」


「んー………………」


今思えば、馬鹿みたいな質問だよな。


あいつはもうずっと、戦い続けてきて、だれよりも強くなって。そういえば、なんであいつは強くなったんだろうか。なんて、答えたんだっけ。


そうだ、あいつはなぜか楽しそうに笑ってた。振り向いて夕日を遮ったあいつの顔は悲しそうで楽しそうで。



「答えたってお前は忘れるよ。」


「はあ?なんだそれ。」



あの時はその言葉が意味がわからなかったけど、今ならわかる。たぶんあいつはあのときいつもよりもずっと自分の存在を消していたんだ。だから俺はあの日のことを忘れていた。


フェンスにもたれて見つめる夕日が徐々に沈んで、赤色の光も少しずつ強くなっていた。あいつはその眩しい日差しを真っ直ぐに見つめて、地平線よりも向こうを見ようとしているかのようにその視線は揺らがなかった。



「強くなった理由なんて、なんとなくだよ。最初は目的があった。だけど………そこまでが遠くて、遠回りしてるうちにここまで来た。」


「目的ってなんだよ。」


「さあね。」


「むかつくなてめぇはよ。」


「ははは。桔平どうなんだよ。なんで強くなんの?ああ、莉亜のためか。」


「はあ?!なに決めつけてんだよ!」


「わかりやすいなー。」


「うるせぇな。あいつは別だよ。約束したからだっつーの。」


「はは、はいはい。それで?なんでなんだよ。」


「そりゃあ強くなくちゃなんもできねぇだろ?何かを守りたいと思っても、俺にその力がなければなんにもならねーんだからよ。何か守ろうと決めた時に守れるだけの力がほしいんだよ。」


「…………ふーん。」



舌打ちをして黙り込んだ俺のことをあいつはずっと笑ってた。それから何か、約束を…………













「…………」


ぼんやりと霞む頭の中で現実と夢とが混同する。しかしゆっくりと晴れていく意識の中で、あいつの声だけはしっかりと残っていた。


「あー………………まじかよ…………」


夢だと気づき、そして夢から覚めてしまったことにひどく落胆してしまっている自分に腹が立つ。顔をこするとなぜか目尻から耳元にかけてかすかに濡れていて。


「…………くそ。」


起き上がって時計を見ると、いつの間にか昼の2時を回っていた。


(はら………へったな……………)


腕につながるいくつものチューブを引っペがして部屋を出る。あくびをしながら階段を降りると、かすかにチャーハンの匂いがしてきていることに気がついた。


「お、チャーハンか。」


そう独りごちながらリビングに降りてきたところで、部屋のソファで本を読むヨルの後ろ姿が見えた。すぐに気づいて振り向く。


「あ、おはよ。」

「おっす。」

「あ!ていうかチューブ抜いてきたの?もーーー、絶対安静って言ったじゃん。」

「だって腹減ってよー。俺がチャーハン好きなの知っててわざと作っただろ。」

「あはは、そうじゃないよ。でも食べれる?病み上がりなんだから無理しないでよ。」

「おー、全然平気。」

「んー、ま、いっか。じゃああっためるから座って待ってて。」

「さんきゅ。」


ソファに座ると、思ったよりもふかふかで予想以上に体の沈む感触に少し驚く。思えば毎日の定位置だったこの場所にも座るのは久しぶりなのだ。こんなに柔らかかったっけ。変わらないテレビ、変わらない窓、変わらないテーブル。それだけで安心し、そして同時に自分が本当に危険な状態だったんだろうことがわかる。


昼下がりの穏やかな空気とまだ覚めない眠気にうとうとしながら、ふと気がついてキッチンにいるヨルのほうを見る。


「なあ、そういえばあいつらは?」


ヨルはお皿に盛ったチャーハンをレンジに入れ、スープらしい鍋を温めながら、ああ、と顔を上げる。


「また復興作業に行った。桔平はよく寝てるみたいだったし、みんな安心して行けるって。」

「そうか………」


なんだか妙に平和なこの空間にすっかりくつろぎながら、ぼんやりと窓の外を見つめる。


「なあ。」

「なに?」

「あれからさ、拓也には会ってないわけ?」

「…………うん。全然。見かけもしないよ。」

「ふーん………。どこにいんだろうな…………」


ヨルは妙に感傷的な様子の桔平に顔を傾げた。窓の方を見ているため顔は見えないが、寝ぼけているだけではなさそうで。温まったスープとチャーハンをお盆に載せ、テーブルまで運ぶ。


「お、うまそー。」


顔を輝かせてすぐにチャーハンを頬張る顔はいつもの元気な桔平だが、やっぱりどこか意識が別のところにあるような気がしてならない。


「ね、桔平。」

「このスープもうめー!!むも、なに?」

「何か変な夢でも見たの?」

「ん?」

「ほら、お姉さんに話してみなさい。」


桔平は驚いたように固まり、レンゲからぽろりとチャーハンをこぼす。あまりにあからさまな反応に笑って、ヨルはコーヒーを入れに一度キッチンに戻った。そのヨルを呆然と見つめ、桔平は慌てて口の中のチャーハンを飲み込む。


「え?なんでわかったわけ?エスパー?」

「ふふ、ちがうよー。でもまあ、ここに住むひとたちに対してはエスパーかも。」

「すげぇ。まじで感動した。」

「はいはい。」


桔平は本当に感動したようで、さっきよりもずっと明るい表情で食事を続ける。コーヒーを煎れ終わって桔平に向かい合うようにヨルはテーブルについた。


「あのな。」

「うん。」

「さっき拓也の夢をみたわけ。」

「ああ、それで…………」

「そ。そんでさ、あいつは、この会話をしたことはきっとお前は忘れるって言ってたんだよ。そんで実際俺もついさっきまで忘れてて。」

「それも存在感の話なのかなー。」

「ああ、たぶんな。よく思い出してみたらあいつってやっぱ銀髪碧眼のイケメンでよ。あーやっぱ俺が気づいてなかっただけなのなーとか思いつつ。けっこう俺ら大事な話してたんだよ。」

「大事な話?」

「ああ。なんでお互いに強くなろうと思ったのかって話。」


それにヨルも驚いて桔平を見た。桔平はスープを片手で飲んで一息つくと、窓の外を見つめながら続けた。


「あいつは、もう理由なんて忘れたって言ってた。初めは目的があったけど、そこにたどり着くまでが遠くて、そのうちに今になったって。その目的が何かは言わなかったけどさ。」

「うんうん。」

「で、俺はやっぱり、守ろうと思ったものを守ることができるだけの力が欲しかったって、言ったんだよ。そしたらあいつバカ笑いしやがってよ。ひどくね?」

「あははは!拓也らしいね。」

「まあなー。」


桔平は本当にあくまでも昔の話をしているだけのように楽しそうにしていた。ヨルもなんだか拓也とのつらい別れなんて忘れて、目に浮かぶ桔平と拓也の会話を楽しむことができていた。しかしそこで桔平が一瞬黙り込み、わずかに声音も落ち着く。


「そんでさ……あいつしこたま笑ったあとさ、俺に約束しろって言ったんだよね。」

「約束?」

「ああ。」




『ははは………桔平らしいな。俺も………俺も本当はもっと…………』

『あ?なんだよ。』

『…………いや、なんでもないよ。それよりさ、ひとつ約束しろよ。』

『約束?なんだよ。』

『あのな、強くなるのは大事。守りたいものがあっても、弱くちゃ守れない。だけど、守りたいものを守らなきゃいけないときに本当に自分が強くなってるかはわからねーだろ?』

『ああ………まあたしかに。』

『な。だから約束しろ。お前は守らなきゃいけないときに強くあるために強くなっちゃだめなんだ。守りたいものを守らなきゃいけない状況にならないために、強くなるんだ。それが一番。だから、好き好んで戦いの場に行くもんじゃねー。約束な。』

『あ?まあ、いいけどさ。お前どうした?変だぞ?』

『はは、いつものことだよ。』



あのときは今思えば随分平和だった気がする。養成所だってあって、みんなそろって、勉強して、訓練して、食事して、遊んで。変わらない毎日がどれだけ大切かなんて、結局なくしてみないとわからないものなのだ。


「……………結局さ、あいつは俺たちの力不足をだれよりも知ってた。そんでこのままの俺たちではこれからの大戦争を生き延びてはいけないってこともわかってた。だからあいつは、俺に戦いの場になんか行くなって言ってた。守るために強くなるなんてただの理想論だ。現実では俺は到底お前たちを守ってやれるほどの力には遠く及ばなくて。本当はこんなことにならないようにお前たちを「守っておくべき」だったんだよ。馬鹿だよな……俺は…………」


桔平はくるんとレンゲを手の中で回し、まだ食べきっていないチャーハンをぼんやり見つめていた。


「俺はあいつとの約束を守れなかった。それにあいつのことも守ってやれなかった。それを償いたい。なんとかしてーんだよ。」


桔平はすごいな、とヨルは思った。桔平の顔にはずっと絶望の色が見えない。悲しくても、つらくても、それよりもずっと前に進もうという気持ちのほうが強くて。わたしみたいに困難から目を逸らして落ち込んでいるだけではない。常に解決法を探しているのだ。


だからわたしたちは桔平に着いていく。こんなとき、悩んだとき、結論を出すのはいつでも桔平だった。昔からずっと、桔平がわたしたちを先導してくれていた。


「うぉ、どした!!」


桔平が驚いた顔をしてレンゲを落とす。いつの間にか目から涙がこぼれていた。濡れるほほに触れ、心配げな桔平を見て小さく笑う。


「あはは……ほんとによかった……。桔平が起きてくれて………本当によかったよ………」


その言葉に目を細め、桔平はゆっくりうなずいた。


「………お前もチャーハン食え。痩せすぎだろばーか。」

「うん………うん……。」


ぼろぼろと溢れるくらいチャーハンを盛ったレンゲを無言で差し出してくる桔平にヨルはまた笑った。ここ最近笑ってなかった気がするのに、今日は心から笑えた気がした。


「あーんって言ってくれないの?」

「うるせーばーか。」

「ふふ、いじわる。」


桔平は不器用だから、食べさせるのも本当に下手で、くわえたあとのレンゲからまたぽろぽろとチャーハンが溢れた。まだ多過ぎたチャーハンが口に残っているというのに、また盛りに盛ったチャーハンをレンゲで運んでくる。その間も涙は止まらなくて、チャーハンは少ししょっぱく感じた。









Tokyoの街は相変わらず瓦礫の山だった。しかし街のシステムはほぼ回復し、街中では出勤通学をする人間に溢れ、巨大スクリーンも以前のようにニュースを映し出している。瓦礫処理のための重機が行き交い、軍の職員たちが多く見られる景色に変わりはないが、少しずつ活気づく様子は確かに人々の生気を回復させつつあった。


爆破の中心地となった養成所は未だ開講できていないが、何よりも飯田所長が軍の本部に召喚されていることが理由であった。所長が帰ってくるまでは当分開講の目処は立たず、その間生徒たちの多くは復興作業に駆り出されている。養成所でこうした緊急事態に備えての訓練を行ってきた生徒たちは、復興に急ぐ各所で大いに活躍してた。


「おい!!こっち来てくれ!!」

「そこの機材どかせ!」

「リフトあげろー!!!」


耳が壊れそうなほどの瓦礫と重機の騒音の中で、たくさんの怒号ともとれる叫び声が飛び交う。ボランティアの人々や軍人、そして養成所の生徒たちがビルの瓦礫処理をしている中に莉亜もいた。いつの間にかやってきていた夏に、ヘルメットの下も汗でびしょびしょになる。


「はあ…………」


額の汗をジャージの袖でぬぐい、かがめたままの腰を伸ばすように背伸びをした。日が長くなったとはいえもう太陽はほとんど沈み、辺りは暗くなっていくが、大型ライトに照らされている現場は昼間よりも明るい。スクリーンの時計は19:35を指している。普段は深夜近くまで作業を続け、一番疲労が溜まる時間帯だ。


すでに軍から支給されたレーダーで瓦礫の下に生存者がいないことはわかっているが、それでも重機だけでの瓦礫撤去ばかりしているわけにはいかない。助からなくても中には人がいるかもしれない。たとえもう語り合うことはできなくても、そのひとの帰りを待っている人がいるかもしれない。しかし、終わりの見えない作業。努力とは裏腹に日々発見する遺体の数々。報われない時間が経てば経つほど、だれもがすべてを事務的にこなすようになっていた。


しかし、莉亜はまた心を改めることに決めた。


きっぺが起きたのだ。それだけで世界が明るくなった。おはようって言われてうれしかった。頭をなでてもらって涙が出た。つらいこともいっぱいあったけど、それでもきっぺがいるだけでなんとでもなるような気がした。拓也のことを全部考えないように、ただただ働くだけの毎日だったけど、それでもひとつ大切なものが報われた。どれだけ長い道のりでも、その先にはきっと何か報われるものがある。


(がんばらなくちゃ…………)


そう思い再び作業に戻ろうとしたところで、


「おい!!あんた!!!」


瓦礫の山の上からだれかに呼ばれ、振り返る。すると作業をしていた軍の職員のひとが、騒音の中でこっちに向かって叫んできていた。


「はい!!なんですか!」

「あんた!!聞いたよ!!起きたんだろ!?幼なじみ!!」


思わぬ言葉に呆然としていると、周りで稼働し続けていた重機がいくつか動きを止め、ボランティアの人や軍の職員、そして生徒たちの数人が莉亜のほうを見上げた。


「あんたの連れが今日慌てて帰っていったからな!そんときに聞こえたよ!」

「あれだろ?!あの日ACと戦って負傷した生徒ってのがそうだろ!」

「みんな感謝してるのよ!こんなことになってもそういう子がいたってだけで救われるのよ!」

「金森先輩!おめでとうございます!」


堰を切ったように莉亜に声援が送られた。


ありがとう

大変だったな

本当によかったな


あまりに多くの声にすべてを聞き取ることはできなかった。でも莉亜のいる瓦礫の周りに立つ人々の顔を見るだけで、その温かい気持ちが伝わった。喉の奥がじりじりと熱くて、そのままへたりこんでしまいそうだった。


そこで最初に声をかけてくれた職員が山から降りてきて、莉亜の前でヘルメットを外す。金髪碧眼の40代に見えるその男性職員はポケットから取り出したタブレットを莉亜に差し出し、ホーム画面の1枚の写真を見せてくれた。


「あ………この子…………」


見覚えのある女の子の映った写真を見て、莉亜は呆然と男性職員を見上げた。


「あずさちゃん?じゃあ……」


彼は莉亜が名前を出したことにうれしそうに笑い、タブレットを受け取った。


「ああ。あずさは俺の娘だ。あんたの幼なじみについてはあずさから聞いた。ずーっと気になってたよ。たとえ養成所のエリートとはいえ、あの若さで戦いに向かうなんて普通できることじゃない。その子が死んだかもってあずさはずいぶん落ち込んでたんだが、あんたに励ましてもらったって帰ってきてからは養成所の作業に毎日遅くまで出かけてるよ。」


職員は莉亜からヘルメットをとり、脇に抱えた。


「毎日毎日、ここに来てくれるあんたたちを見て俺もがんばっていられた。家族が死にそうで辛いはずなのに、そんな顔一つ見せないあんたは確かにあずさの憧れだな。」

「………ありがとうございます…………」


泣きそうになるのを必死でこらえ、莉亜はなんども頭を下げた。彼はそれに声をあげて笑うと、


「今日はもう帰れ。帰ってみんなでゆっくり休んで来い。ここはもういいから。」

「はい!!」


疲れているはずの体は嘘みたいに軽かった。瓦礫を駆け下り、由宇がいるはずの他の倒壊ビルに走る。


こんなに幸せな日はない。みんなに言おう。あずさちゃんとお父さんのことをいっぱい話そう。励まされた言葉を全部みんなに伝えよう。


休憩所らしいプレハブの前でコーヒーを飲む由宇を見つけ、由宇がこっちに気づいたか気づいてないかのタイミングで思いっきり駆け寄り、抱きついた。


「ぶわあ!!な、なに?!」

「由宇!帰ろ!」

「は?え、いやいいけど……ちょ、まずはコーヒーがこぼれて……」

「みんながね、もう帰れって!桔平が起きたことお祝いしてくれたの!」

「コーヒー……え?」


びしょびしょになった左手をぶらつかせながら、由宇は目を丸めた。しかし莉亜の心底ご機嫌な顔を見て、いろいろわかったように優しく微笑んだ。


「………そっか。よかったね。」

「うん!」

「じゃ、帰ろっか。」

「うんっ!」











「ただいまー!」


莉亜は勢い良くドアを開けて部屋に飛び込んだ。しかしそれに応えたのは「おかえり」の言葉よりも先に、


「くさぁっ!」


鼻をつく焦げ臭さに思わず莉亜はのけぞる。由宇も鼻をつまんで莉亜の後ろから部屋の中をのぞいた。


「何これ?何ごと?」


すると部屋の中から、


「うそでしょ!桔平何したの!」

「なんもしてねぇよ!ヨルが言った通りの分量しか入れてねえし!これとこれとこれだろうがよ!」

「ちーがーうーよ!それベーキングパウダーだし!薄力粉はこっち!」

「あ?!んだよ、同じ粉じゃねーかよ!」

「全然ちがう!もーーーーー桔平のばかばかばかばか!」


ここ最近で一番うるさい部屋を見て莉亜と由宇は顔を見合わせて笑った。靴を脱いで鼻をつまんだまま廊下を抜ける。リビングに入ってみると、何をどうしたのか灰色の煙がうっすらと天井を覆い、開け放たれた窓からもくもくと外に逃げ出していた。キッチンではまだ桔平とヨルが手でパタパタと煙をはらいながら言い合いを続けていて。


「ばかって言うなばか!」

「ばかだよ!あのね、ベーキングパウダーはケーキとかふくらませる粉なの!そんなの薄力粉の量でどかどか入れたらこういうことになるに決まってんじゃん!」

「んなこと俺知らねーし!!」


「そこまでー!!!」


莉亜がふたりの間に入り、喧嘩を止める。ふたりとも一瞬驚いたようになり、そしてすぐにお互いに顔をそらしてしまう。莉亜は臭いの原因らしい煙の上がるオーブンのほうを見た。そこは真っ黒で、蓋が空いているはずなのに蓋が閉められている。


「え?」


恐る恐る閉まっている蓋をつついてみると、それはふかふかのスポンジケーキだった。料理好きなヨルのために買った大きめのそのオーブンに、ぎっしりとケーキが詰まっていたのだ。真っ黒に焦げたそのケーキを、鍋つかみに手を通してプレートごと取り出す。音を立ててすっぽりと抜けたケーキははっきりとオーブンを型どっていた。


「……………………。」


呆然と手に持った煙の上がるケーキを見つめる。


「…………ふ……あはは!あははははははは!」


こみ上げてきた笑いを我慢することができず、莉亜はお腹をかかえて笑った。見ると由宇も涙を流しながら爆笑していて。


「ふふ、あははははは!な、なにこれ!なに作ろうとしたわけ?!すんごいのできてるよぉ〜。あはははは!」

「くっ、やばいよこれ………腹痛い!それ、ははは!どっかやってよ!笑いが止まらない!」


もう転げ回りながら笑うふたりを見て、そっぽを向いていたヨルと桔平も小さく笑い出してしまう。


「もう。それ桔平が責任持って食べきってよね。」

「あ?これうまいの?」

「知らない。作ったの桔平だもん。」

「んとにかわいくねーなー。」


やっと笑いが収まったらしい莉亜と由宇が涙を拭きながら起き上がる。


「ふふ、あーおかしかった。」

「もう腹筋割れそう。桔平は一体何を作ろうとしたわけ?」


巨大な四角い物体をふかふかとつつきながらため息をつく桔平の代わりにヨルが答えた。


「寝てばっかなのが嫌だからって料理教えろって言うから、スポンジケーキ作らせてたの。混ぜて焼くだけだから分量だけ教えて洗濯物片付けてたら煙出てくるんだもん。びっくりしちゃった。」

「いや、だから俺は言われたとおりにしたって。」


また喧嘩のはじまりそうな雰囲気だったが、次はヨルが桔平を無視して話を変えた。


「あ、そういえば今日はふたりとも早いね。どうしたの?」


それに莉亜ははっとして突然はしゃぎはじめる。


「そう!あのね、みんなきっぺが起きたことお祝いしてくれたの!そんで、今日はもういいから帰れってあずさちゃんのお父さんが……」


興奮して何を言っているのかよくわからない莉亜をなだめ、由宇もうれしそうに笑った。


「ま、とにかくみんなが桔平のこと喜んでたよって話。」

「そっか………だって、桔平。」


ヨルの言葉に桔平は照れたように頭をかき、しかしまだ傷が治りきっていない頭が悲鳴をあげて顔をしかめた。


「いって………それは、まあ、申し訳ねえようなありがてーような。とにかく、あれだ。俺はまだ動けそうにないからよ、その、みんなによろしく言っといて。」


それにみんなで微笑んだところで、部屋のインターホンが鳴った。


「なんだなんだー?」


莉亜が壁のインターホンの画面を見に行く。するとそこには、


「え、軍の人が来てる…………。」


莉亜の言葉に3人もインターホンの画面を見た。確かにそこには男が一人たっていて、その制服は復興作業に来ているような軍人のものとは少しちがっていた。ピンと伸ばされた紺色の制服に、赤と白の装飾が施された、軍の将校が身につけているもので。


「中尉の腕章ついてっぞ……」


桔平のつぶやきと同時、ヨルが慌てて玄関に行きドアを開けた。引き締まった体格のその男はヨルの顔を確認すると、びしっと敬礼を決め、姿勢を正す。


「夜分遅く申し訳ない。こちらは105軍営養成所所属の五名の自宅で間違いはないか?」


淡々とした声でそう聞く男にヨルはうなずく。すると男は懐から一枚の書簡を取り出してヨルにわたした。


「Nippon軍最高指令室から伝令を預かっている。今すぐに目を通してくれ。」


由宇と莉亜と桔平も部屋から出てきて、ヨルが開封した封筒から出てきた一枚の紙に目を通した。するとそこには、査問会への招集を命じるといった内容の文章が書いてあった。みなが目を通し終わったらしいことを確認し、中尉は話を続ける。


「順番がちがってすまないが、東桔平。」

「はい。」

「君が昏睡から覚めたことは復興担当からも伝令が入った。最高指令室からも激励の言葉を頂いている。」

「あ、ありがとうございます………」

「それで、だ。本来なら本部で査問会を開くことになっているが、功労者、東桔平の体調を考えて担当の監査官がこちらに赴いていくつかの質問をする型式となるが、承諾するか?」


それに四人は顔を見合わせてうなずく。中尉も満足げにうなずくと、すぐに申し訳なさそうに顔をしかめた。


「事は急を要している。本部はできれば今日のうちに査問を終わらせたいとのお考えだ。」

「え?今日ですか?」


思わず聞き直してしまう莉亜に中尉は一度頭を下げると、振り向いて非常階段の下を目で示した。すると下の道路には黒い高級車が止まっていて。


「君たちに罰則があるわけではない。ただいくつか重要な問題に君たちが巻き込まれている可能性も高く、本部としても事態の収集を急いでいるのでな。深夜までには終わらせるつもりだ。」

「………わかりました。」


ヨルの返事に中尉は制服の襟に隠してあるらしい無線を入れる。するとすぐさま、下の高級車からスーツを着たふたりの男が降りてきた。


「所長!」


その姿に莉亜が声を上げると、飯田所長は上を見上げて軽く手を挙げた。












「突然押し掛けてすまないな。」


ヨル出されたコーヒーを一口飲み、飯田は小さく頭を下げた。


ソファには先ほどの飯田所長ともうひとりの中年の男が座り、その背後にさっきの中尉が立ったまま控えていた。四人はテーブルを挟んで3人に向かい合う形で座り、同じくコーヒーに口をつける。


「東くんのこともとても心配していたんだ。無事目が覚めたようで、安心したよ。」

「すいません。ありがとうございます。」

「ああ、それから椎名くんのことも聞いたよ。行方不明なんだってね。」


思いがけない言葉に4人は一斉に顔を上げた。飯田はコーヒーカップを置きながら長くため息をつく。


「こちらとしても彼の捜索には全力で取り組もうと思う。君たちには養成所側としてもたくさん借りがあるからね。椎名くんはAC解体講義で目覚しい成績を残しているようだし、東くん同様、あの日の戦闘に参加してくれたのかもしれない。とにかく彼のことは心配するな。我々が必ず見つけ出してみせるからな。」

「………………。」


4人の沈黙を同意と受け取ったのか、飯田は満足げにうなずくと姿勢を正した。


「この男を紹介するよ。」


飯田は隣に座る男を指した。がたいがよく、かなり大柄なその男は飯田よりは若く、三十代のようだが、しかしその深くシワの刻まれたしかめっ面のせいでもっと年上のように見えた。


「これは軍の本部で監査官をしている男でな、武藤直樹だ。今回は彼の担当する案件に君たちが関わっているかもしれないということで同行した。」

「武藤だ。突然の訪問ですまない。どうしても気になることがあってな。」


武藤は一度軽く頭を下げると、持ってきていたアタッシュケースからいくつかの書類を取り出し机に置いた。


「まずはこれを見てもらいたい。」


ヨル受け取ったのは1枚の写真だった。少し古く、色あせたそれには一人の軍人が敬礼をしている姿が写っていて。


「………………。」


ヨルは声をあげそうになるのを必死で抑え無表情を保った。まだ10代に見える写真の男は、若いがしかし確かにあの情報屋の面影があった。整った顔立ちで凛々しく立ち、その目は軍への忠誠に満ちている。横から写真を覗き込んでくる3人をバレないように机の下で制す。


「…………これは?」


4人の反応を試すように見ていた武藤は、ヨルの言葉で残りの書類をヨルに渡した。


「彼は現在我々が探している男だ。詳しくは言えないが、見てのとおり元軍人。今回の騒ぎに彼が関与している恐れがある。」


渡された書類は報告書だった。AC乱入のきっかけとなった養成所のシステムの故障の原因と彼との関連、その後の調査による追跡結果と使われたウイルスの分析。要はすべての元凶はこの男の仕業で、しかし捕まえることはできなかったということだ。横から書類に素早く目を通した由宇はすべてを理解したようで、落ち着いた様子で武藤を見上げた。


「それで、この男は俺たちになんの関係が?」


武藤は由宇の表情を確認するとわずかに口の端を釣り上げてソファにもたれた。


「彼が君たちと接触したらしいという報告がある。だから聞きたいんだ。正直に答えなさい。彼とは面識があるのかね?」


飯田も真剣な面持ちで4人を見つめていた。ヨルは書類を見つめる振りをして考えていた。


情報屋が元軍人だったというのは驚きだが、それよりも今は現状をどうにかしないといけない。武藤はプロの監査官だ。ここでどれだけ誤魔化したところで嘘は簡単にバレる。わたしや由宇が知らない顔をしていることだってとっくにわかっているはずだ。ならばやはり真実を言うべきなのだろうか。


しかし情報屋と関わりがあったことを言ってしまえば、より深く質問されるに違いない。彼がここへ来た目的、彼の今の所在、そしてあの日のこと。そのすべてには必ず『zero』のことが絡んでくるはずである。情報屋のことを話すということは、拓也と『zero』のことも話さなければならないということなのだ。それはあまりにも危険だ。わたしたちの身の安全も保証できなくなり、拓也の身まで危うい。


「会ってるかもしれませんけど、覚えてないっす。」


突然口を開いた桔平の言葉に3人は弾かれたように振り返った。桔平はなんでもないような顔をして書類をのぞき込むと、再び首をかしげて頭を横に振る。


「最近俺らの家によくわかんねー情報屋みたいのが何人か訪ねてきてたんすよ。そのうちの一人かもしれないですけど、いちいち覚えてないんで確かじゃない。」


武藤は疑うように桔平の目をのぞき込んでいた。しかし桔平は武藤のその視線に気づかないかのように顔をそらして呆然とした莉亜を見つめた。


「そういえばお前あのころ変な男に街で絡まれたって言ってなかった?」

「え?」

「ほら、あの時だよ!繁華街で輩とひと悶着あったろ?」

「あ、ああ………うん。確かにそんなこともあったね。」


戸惑っているようだった莉亜が思い出したのを見て武藤はわずかに顔をしかめた。その反応に思わず笑い出しそうになるのをヨルは必死で抑えこらえていた。莉亜は嘘は言っていないのだ。莉亜は確かに繁華街で輩に絡まれている。だからこそ、彼女の表情からは嘘を見破ることはできないはずだ。


武藤の様子から察するに、おそらく彼は一番素直な莉亜の表情と仕草を観察することで真実を見出そうとしている。その莉亜が本当のことを言っているようでは、それ以上探りようがないはずである。


桔平は今、この場にいるだれよりも得ている情報が少ない。由宇や莉亜やヨルとはちがって恐怖にもさらされていない。だからこそ、桔平のみがだれよりも冷静に、客観的に、そして単純に物事を捉えることができたのだ。いまヨルたちが回避しなければならない問題はただ一つ、とりあえずは武藤からの質問である。そして武藤は人の嘘を見破るプロ。ならば真実を盾にする他ないのだ。


「もしもこの男が今回の件の首謀者だとして、俺たちがこいつと接触していたとして、何か罰を受けなきゃいけないんなら俺たちは受けます。ただ、俺たちには身に覚えがないんです。」


武藤をまっすぐに見つめる桔平を見て、莉亜はなぜか楽しそうな顔をしていた。ふたりはホームレスをしていたころから、ずっとこんなふうに生きてきた。悪さをしても嘘を言って、咎められたら誤魔化して。嘘はだめだと施設で教わって、それ以来つかないようにしていた嘘。だけど今、その封印は解かれたのだ。


「この街には元軍人なんて人はいっぱいいるし。あたしもこの人と会ったかもしれないけどよく思い出せないし、大体この写真は少し古いから、今のこの男の人の顔がどうかはわからないです。」


ふたりの顔を見て武藤はさらに顔をしかめ、すぐにまた無表情に戻った。


「…………そうか。とにかく、この男は非常に危険だ。これからも接触された場合には飯田所長にすぐに報告するように。もちろん思い出したことでもな。」


武藤立ち上がり、4人から書類を受け取るとすたすたと玄関に向かっていってしまう。飯田も立ち上がって軽くコーヒーの礼を言うと、中尉を連れて武藤を追った。


「いや、本当に夜分遅くすまなかった。東くんはしっかり療養してくれ。」


靴を履きながら飯田はそう笑顔を浮かべると静かに部屋を出ていった。4人は外に出て飯田たちの乗った車が遠ざかるまで見送り、その姿が見えなくなると一斉に大きくため息をはいた。


「ふあああ、緊張したねぇ〜。」

「そうだね。でも莉亜も桔平もナイスフォローだったよ。俺すげー感心した。」

「だろ?」


緊張が解けて和気あいあいとする3人をよそに、ヨルはきょろきょろと辺りを見回した。軍の本部の監査官ともあろう武藤があれだけあっさりと引き下がったことに違和感を感じるのだ。明らかに自分たちは軍にとって危険因子でもある。盗聴や盗撮があってもおかしくはない。


そこでヨルは、すっかり忘れていたあることを思い出した。


「ねえ、由宇。」

「んー?」

「あれの解析ってどうなってたんだっけ?」

「あれ?」


由宇は一瞬、よくわからないといった顔をしたが、すぐに思い立ったようで視線だけで周りを見回した。


「あー、まだだけど。確かに気になるね。」

「でしょ?でも下手なことしてもきっとわかっちゃうと思うの。」

「そうだよね…………」


意味不明な会話を続けるふたりを桔平と莉亜は不思議そうに見つめていた。しかしそこで。


「あ。」


莉亜が声を上げるので、3人とも莉亜を見る。すると莉亜は少し困ったような顔をして目を泳がすと、こっそりと指だけである方向を指した。それは家に入る非常階段のほうで。いや、それよりももっと上だった。それにみんなその方向を見ると。


「あ。」

「あ。」

「あ。」


アパートの上、屋上の柵から顔を出す男を見て3人も思わず声をあげた。いつの間にかそこに現れていた情報屋はにこにこと微笑んでこちらに向かって手を振ると、静かに部屋に入るようにとジェスチャーをした。
















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