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zero  作者:
激動
10/11

転回










養成所の再開が知らされたのは桔平が起きてから1ヶ月後、あの事件から2ヶ月以上経った8月の下旬だった。


あの夜の訪問の次の日から飯田所長が戻ってきて、急ピッチで養成所の再建が進められた。この状況だからこそ、新しい戦士の養成が最重要事項であると軍も発表をし、かつての美しい校舎まではいかなくとも、充分な施設が完成した。


本来ならば夏休みである期間にTokyoの復興に力を注いだ功績が認められ、養成所の生徒たちには奨学金が与えられた。充分な休養をとり、9月から登校するようにとの通達が全生徒に送られ、復興の進んだ街でようやく平穏が返ってきたのである。


「ひゅっ!」


広いトレーニングルームで、サンドバッグが大きく鳴いていた。汗を飛ばしながら、鋭い息を吐き、重い拳をサンドバッグに叩き込む。


「あーーーーーくっそ!!!!」


ドン!!!


今日一番の力を込めてサンドバッグを殴り、桔平は天井を仰いだ。


怪我のせいでかなりのブランクが空いてしまった。思った以上に筋力が落ち、思い描いている動きが全くできない。びしょびしょのタンクトップの襟元を引っ張って汗を拭うと、どかっと床に座り込んで手に巻いたテーピングをはがした。


「おー、やってるやってるぅ!」


後ろからタオルを投げられ、頭に乗っかったタオルの隙間から後ろを振り向いた。すると運動着に着替えた莉亜が柔軟運動をしながらこっちを見ていて。


「なに、お前もトレーニング?」

「そ!今から気合い入れないと。」


短パンに黒のタンクトップを着て、足を伸ばしながら髪をひとつに結ぶ莉亜は、復興活動のおかげで少し痩せていた。さらに腕はかつてより確実に筋肉がついていて。その姿をタオルで汗を拭きながら桔平はじとっと睨んだ。


「お前らさー、俺が動けないうちに身体作りすぎじゃね?そういうの卑怯。」

「きっぺはしょうがないじゃーん。ぼっこぼこのべっきべきの身体だったんだしー。」

「喧嘩販売?」

「喧嘩いかがっすかー。」

「よし、買った。」

「子供だなあ。」

「お前商売上手な。」


莉亜がサンドバッグを使い始めるのを見て、俺はウエイトトレーニングに移った。少しずつ前の力が戻りつつあるが、それではいけないのだ。前よりも何倍も強くなる必要がある。負担をかけ、じっくりと筋肉を使っていく。


「ふー…………っなあ、莉亜。」

「んっ!よっ!なに?」

「お前さ、元気になってよかったよ。」

「え?」


莉亜が動きを止めたのを見て、桔平もウエイトを降ろして汗を拭いた。


「みんな拓也のことは大切なんだよ。みんな前みたいに戻りたいと思ってる。」

「うん。」

「今ヨルも由宇もがんばってくれてて、それがお前は嬉しくて元気なんだろ?」

「うん!」

「でもさ、お前はわかってねーことすげーある。」

「え?」


桔平は莉亜に向かって手招きし、ウエイトトレーニング用の椅子のとなりに座らせた。


「あのさ、あいつらがずっと拓也に関してなんもできなかった理由はお前もわかんだろ?」

「…………あたしたちみんなが、危なくなるから?」

「おう、そうだよ。お前もよくわかってんだろ?俺らよりもあの二人のがずっと賢くてずっとちゃんと考えてんだよ。」

「………うん。」

「それでいてあいつらは人一倍お人好しだろ?本当なら拓也も俺たちもみんな確実に安全な、拓也を忘れるって選択肢が正解だって、あいつらはだれよりもわかってんだよ。それでも拓也を取り戻そうとしてるわけ。なんでだと思う?」

「え…………あ、あたしのせい、かな……」

「ちっげーよ、ばかか。」

「う……うるさいな。」


すねたようにうつむく莉亜の頭を桔平はわしわしとなでた。


「あいつらは俺たち全員のために拓也を取り戻すって決めたんだよ。お前も、俺も、あいつらも、みんなお互いにお互いがそろってて成り立つ人間だから、みんなみんなのことすげー大事にしてるから、今がんばってんだよ。でもそれがやばいことで、危なくて、これからももしかしたらこの前の俺みたいに怪我するやつが出てくるかもしれねぇな。」

「そ、そんなの………」

「嫌か?でもお前も拓也のこと守りたいんだろ?こっちの道を選ぶってことは、そういうことなんだよ。あいつらも、俺も、もうその覚悟はできてる。お前は?できてんの?」

「……………」


莉亜は首にかけたタオルを強く握った。部屋には空気清浄機のモーター音だけが響いていて、すごく静かだった。


桔平はきれいな眼で真っ直ぐに莉亜を見つめていて、しばらく黙り込んだあと、ゆっくり立ち上がった。


「お前はすぐ落ち込むし、すぐ泣くし。どうせ拓也がいなくなったあとはしばらく普通じゃなかったんだろ?でもあいつらの気持ちも考えてやれよ。だれよりも優しくてだれよりも賢いあいつらが黙って大人しくしてなきゃいけねー状況だったんだ。それなのに落ち込みっぱなしのお前見てあいつらが平気な顔してられたと思うか?そんなわけねーだろ。お前さ、もっとあいつらの選択を信用してやれよ。」

「し、信じてるよ!」

「本当にそうか?本当に信用してられたら、馬鹿みたいに落ち込まずにあいつらに着いてけばよかったんだろうが。お前はまだあいつらに対する信用よりも、自分の感情のが先なんだよ。人を信用するってのはそういうことだ。そいつの選択全部受け止めて、自信持ってられなきゃいけねーんだよ。これから本当の殺し合いをしなきゃならなくなったとしてさ、俺たちのだれかが吹っ飛ばされたときに、また落ち込んだりしてたら殺られんのはお前だぞ?そんでそんなお前をかばって他のやつらも殺られるんだ。」


泣きそうだった。


全部の言葉が心の深いところに突き刺さっていくようで、鼓動が早まり、喉の奥が熱く、痛くなる。


全部わかってることだよ。全部痛いほどわかってる。落ち込んでるなんて、あたし馬鹿だなって、何百回と自分を呪った。だけど感情ばっかり先走りして、理性が全くついていかないの。あたしだって、どうにかしたいよ。


じっと桔平を見上げる莉亜の顔を見て、桔平は少し顔をしかめた。


また泣きそうな顔だ。泣かせたいわけじゃないのに。


だけど、俺は。


「…………………守ろうと強くなったって意味ねぇんだよ。守らなくてもいいように、強くなってなきゃいけねぇんだ。」

「え?」


まるで自分に言い聞かせるように低く静かにつぶやいた桔平に莉亜は思わず聞き返した。しかし桔平は一瞬目を伏せるだけで、また莉亜のほうをしっかり見つめた。


「だから、戦いの場でみんなを守れるようにトレーニングすんじゃなくて、守らなきゃいけない状況にならないように、お前はお前の方法であいつらを守れ。」

「…………うん。」

「お前のことは、俺が絶対守ってやっから。」

「昏睡したくせに。」

「だーかーらー、そういう危険なことにならないようにしてやるってこと!」

「ふふ、はいはい。」

「ったくよー、人がせっかく真剣に……」

「きっぺ。」

「あ?」

「ありがと。」

「おー。」


シャワールームに向かって階段を降りていく桔平の後ろ姿を見送り、莉亜は涙をこらえて微笑んだ。


結局きっぺは不器用なだけなんだよね。ヨルと由宇のこと優しいって言ったけど、きっぺも馬鹿みたいに優しい。ううん、馬鹿なんだけどね。


きっぺもきっとたくさん考えて、悩んで、今みたいにきついトレーニングにも耐えながら、力を求めてる。絶対に足を止めたりしない。止まることにはなんの意味もないから。進めば何かが変わる。きっと報われることがある。だからきっぺは鮫なんだ。止まらないで、進み続けて、強くなる。あたしはそんなきっぺにずっと着いていく。


「コバンザメ、かな。」


小さく笑って、莉亜はまたサンドバッグに向かった。













静かで穏やかな昼下がり。


由宇は部屋にこもって、机に向かって黒い手帳をゆっくりと読んでいた。それは情報屋の持っていた、中山が残した黒い手帳だった。


『俺さ、こう見えてけっこう本気でzeroのこと信じてんの。そんでいろいろ調べてここに書き込んであるわけ。いつか確信に迫ったらまた教えてやるよ。』


最後に中山に会ったとき、彼はそう言っていた。


手帳には下手くそな書きなぐったような文字で、確かにかなりの量の情報が書き込まれていた。zeroに関しての噂や、その信憑性。また当時の戦況を事細かに調べあげ、噂と比較している。


本当にもう少しで、確信をつくことができたのだろう。しかし。


手帳が半分ほど埋まったところで、メモは途切れていた。そしていくらかページをめくったところで、焦って書いたのか、恐怖に怯えくているようなぶるぶる震えた手で書いたらしいぐちゃぐちゃの文字が書き記されていた。



『手塚がいなくなった

あれはエスケープなんかじゃない

あいつもzeroを調べてた

なんで気づかなかったんだろう

今家の外に妙な車が停まってる』



『ころされる』



ところどころ血で汚れたその手帳を由宇は机に置いた。


このアパートの中でも特に日当たりの良いこの部屋はかなり居心地がいい。夏の日差しは少し強過ぎるが、薄いカーテンをひけば十分に涼むことができた。


椅子から立ち上がってベッドに向かい、勢い良く倒れ込む。


もう少しで養成所がはじまる。


今まで、例えいつ戦争がはじまってもおかしくない状況だったにせよ、平和な時代に生きていると勘違いしていた。しかし現実には、中村のように、社会の裏で密かに抹殺されていた人間が山のようにいたのだ。いや、その理由がzeroという特別な存在だったにせよ、人が死ぬことなんか、本当はなんら珍しいことではなかったのだ。


飢餓に苦しみ、死ぬ。病に倒れ、死ぬ。不運な事故にあい、死ぬ。くだらない理由でだれかに襲われ、死ぬ。自ら命を絶つ。


いったい今日この1日だけでも世界では何人が死んでいるのだろう。死ぬことなんか、何も特別なことではないのだ。今この瞬間にだって何かが起きて死ぬのかもしれない。あの日だって、いつもと何も変わらない1日を過ごしていたはずの人間が何百と死んだわけで。今生きていること自体が幸運。そう考えるべきなのかもしれない。


そんな中で、戦争に備え、死なないように、強くなれと言われる養成所がまた始まるのだ。これほどに死に溢れた世界の中で、ほんの小さなガキたちがちょこまかと悪あがきをする。


きっとカリキュラムも変わるだろう。本格的な戦闘に向け、実用的な訓練の時間を増やすはずだ。


あの日、気づいた。


あんなにも訓練に勤しんでいたというのに、炎に包まれる街を見ながら、生きていてよかった、と思ってしまっていた。大量の血を流す市民の手当をしながら、死にたくない、と思っていた。いつ死ぬかわからない中で生きていたのに、それに気付かず、死から逃れようとしている自分がいたことに衝撃を受けた。


本当なら、今ここにいなくてもよかった命のはずなのに。昔は死なんて全く怖くなかった気がする。いつのまに、こんなに生に縛られてしまうようになったのだろうか。


まったく、くだらない。


頭の下で組んだ手がぶるぶると震えるのを感じ、立ち上がって机の引き出しを引いた。小さな小瓶に、飴玉状の薬。しかしそれも、もう残りひとつになってしまっていた。


この騒ぎのせいで、この薬を手に入れるパイプにも影響がでてしまった。


「……………」


薬を取り出すことなく、引き出しをしまう。


「由宇ー!ごはんだよー!」

「はーい!」


下の階から莉亜の声が聞こえ、返事をした。震えの止まらない右手を左手で抑え、ゆっくりと深呼吸をする。徐々におさまっていくのを確かめ、部屋を出た。







「わあー!そーめん!そーめん!」


テーブルのまわりでシャワーから出たばかりの莉亜が跳ね回っていた。素麺の入った大きなガラスの器をテーブルに起き、ヨルは笑う。


「ほら、莉亜ももう座って。髪の毛濡れてるんだから、床までびしょびしょになっちゃう。」

「はーい。」

「おい、由宇お前なにしてたんだよ。引きこもってばっかだと身体なまっちまうぞ!」

「あはは、ずっと寝てた桔平ほどじゃないよ。これでも作業でかなり筋肉ついたし。」


冷房のついたリビングは涼しくて最高に気持ちよかった。みんなで素麺をつつき、やっと普通のバラエティーチャンネルが戻ってきたテレビをながめる。


「おい、あのモデル太ったよな?」

「ほんとだー。あたしけっこう好きだったのに。」

「まあまあ、今でも十分かわいいじゃない。あの人結婚したんじゃなかったかな。妊娠でもしたのかもね。」

「ええー!!!なんかショックだよぉ。」

「あ!あれ最近出たゲームじゃん!桔平、割り勘で買おうよ!」

「まじだ!買おーぜ買おーぜ!いいだろヨル!」

「いいよ。最近ゲーム買ってないしね。」


この家にももう明るさが戻ってきていた。和気あいあいと、くだらない話をして、盛り上がって、ごはんをいっぱい食べて。


莉亜はふと、その光景を無表情でぼんやりと見つめていた由宇に気づいて顔の前でひらひらと手を振った。


「おーい、ゆー?」

「え、あ、なに?」

「なんか元気ない?」

「ううん、そんなことないよ。」

「もしかしてお腹ひえたり?」

「してない。大丈夫。むしろもっとひんやりした気分味わってもいいかも。」

「ひんやり、かあ………」


んー、と考え込むように天井を見上げ、莉亜は閃いたらしく両手をパンッと打った。


「ねーねー、あたしアイス食べたーい!かき氷とかーパフェとかー。」

「おーいお前そういうこと言うなよな!腹が求めちまうだろ!」

「確かに俺も甘いもの食べたいかも。」

「いいんじゃない?ごはん片付けたら食べに行こうよ。」

「ほんと?!」

「うん。確か向こうの通りのカフェが営業はじめてたはずだよ。」

「おおー!あたしあそこのパフェ好きなんだあ!」

「よっしゃあ!はやく食おうぜ!」


素麺を食べきって、みんな部屋着から普段着に着替えるために部屋に戻った。桔平はシンプルな黒のTシャツにジーンズ、由宇は白と紺のポロシャツにチノパン、莉亜はパステルカラーのカラフルなノースリーブにデニムの短パン、ヨルは黒いブラウスにスキニーパンツという姿になった。


みんなで遊びに出かけるというのはとても久しぶりだった。外に出てみると夏の日差しは刺さるように強くて、アスファルトからはじめじめとした熱が上がってくる。あの事件以来人通りがぱたりと止んだ路地には、今はぽつぽつと通行人が見受けられるようになっていた。


路地を抜け、大通りに出る。もうそこはほとんどかつての盛り上がりを取り戻していた。まだ軍の制服を着た作業員がかなり目立ってはいるものの、人混みのざわめきの中には笑い声も響いてきていて。


「……………ほんと、よかったね。」


莉亜がにこにこと微笑んで言う言葉が、三人にもはっきり聞こえた。


少し大通りを歩き、脇にある木造のテラスを模したカフェに入った。軽やかな鐘が鳴り、入店を店内に知らせる。中は冷房で冷やされていて涼しく、ジャズの音楽が控えめに流れていた。


「あら、いらっしゃいませ。」


奥のキッチンからきれいな奥さんが顔を出した。北欧系の色白で華奢なひとで、店の常連の顔と名前はしっかり覚えているような優しいひとだ。


「まーりあさーん!!久しぶり!」

「莉亜ちゃん、本当に久しぶりね。無事でよかった。みんなも、元気そうね。」

「はい。マリアさんも元気そうでよかった。」

「ありがとう、ヨルちゃん。」


カウンターの席に並んで座ると、マリアはすぐに水の入ったグラスとピッチャーを持ってきてくれた。


「はい、どうぞ。みんな、来てくれて本当にうれしい。本当に安心したわ。」


薄い茶色の髪を揺らしてマリアは静かに笑った。パフェやアイスを注文する。


マリアはそれを準備しながら、本当にうれしそうに話し続けた。


「みんなここ2ヶ月何してたの?ああ、そうだ。桔平くんが怪我したって聞いたけど、もう大丈夫なの?」

「おー。もう全然平気。むしろ身体がなまっててそっちのがつらいわ。」

「ふふ、桔平くんらしいね。でもまだ無理はしちゃだめよ。ほら、怪我とかって変に癖になっちゃうって言うじゃない。」

「確かに。つーか姉さんは大丈夫だったわけ?あの日も営業してたんだろ?」

「姉さんって呼ばれるのも久しぶりね。あの日も営業してたのよ。でも爆発の前の地震でグラスとか割れちゃってたし、店を閉めたところだったの。」


ワッフルを焼く機械にスイッチを入れたところで、マリアは一度手を止めて虚空をぼんやりと見つめた。何かを思い出すかのように、ぼんやりと。そしてその顔はいつもにこにことしたマリアにはそぐわない、影のある顔だった。


「そう………ちょうど、ドアの札をcloseにしようと思って外に出たところだったの。大きく地面が揺れて、爆音が鳴って。慌てて道に出たら空が真っ赤になってた。」


そこで慌てて笑顔を取り繕い、アイスの入っているガラスケースを開けてころころと丸いアイスを作り始めた。


「ふふ、わたしったら。こんな暗い話やめましょ。」

「いいよ!なんかつらいことあったんじゃないの?」

「そうだよ。俺たち聞くからさ。」

「………ありがとう、莉亜ちゃん、由宇くん。でも、本当にしんみりしちゃうかもしれないわよ。」


それでも話を黙って待つ四人の顔を見てマリアは少し笑うと、 由宇の注文したフレンチトーストを作るため、甘い液に浸した食パンを熱したフライパンに載せた。


「単刀直入に言って、先週旦那が亡くなったのよ。」


フライパンの上で焼けるトーストがおいしそうな音をあげる。


マリアの夫は数年前から寝たきりの状態だった。重い病気で、市立病院の集中治療室にこもりきりなのを看病しながら、彼女はこの店をやりくりしていて。寝たきりと言っても話すこともできるし、よく笑っていると前に話していたのを4人とも覚えていた。


「あの事件のあと、病院への薬の配達も滞って、怪我人は増える一方なのに薬はどんどん減るし。停電なんかも続いて、あの人の治療はそれまでみたいにはできなくなった。ここ2ヶ月はそんな人ばっかりだったわ。あ、そうそう、あの人の隣の病室に小さな男の子がいてね。あの人と同じ病気で、小さいから体力も低いし、ほとんど危篤状態だったの。今月になっていくらか薬は届くようになったけど、重い病気のための特殊な薬は全然足りなかった。それであの人は、自分の分はいいから、隣の男の子を治療してやってくれって、お医者様に言ったの。あら、ワッフルができたわね。」


フレンチトーストを皿に乗せ、ワッフルをまな板の上で刻む。店には相変わらず静かにジャズの音楽が響いていた。


「わたしはもちろん悲しかったわ。自分勝手な話なのよ。あの人の優しさも、その行為の正当性も、全部痛いほどわかってはいたけど、それよりもあの人に置いてきぼりにされることが何よりも怖かった。でもあの人は何度も何度も謝って………。病気と戦うのが嫌になったんじゃない、君のことが心配、だけど、自分に残されている時間より、あの男の子のこれからの未来のほうが世のためにも大切なんだって。あの人は言い出したら聞かないから、結局そのまま………はい、できた。」


莉亜はワッフルパフェを、ヨルはアフォガード、由宇はフレンチトーストを、桔平はブルーハワイのかき氷をそれぞれ受け取り、静かに口につけた。その様子をうれしそうに眺め、マリアはグラスを拭き始めながら穏やかな表情で微笑んだ。


「今はね、こうしてお店をまたはじめられたことがうれしいし、みんなが心配するほど落ち込んでもいないの。あの事件のときはたくさんのひとがたくさん悲しい思いをしたわけだし、孤独じゃなかったわ。だからね、みんなも心配しなくて大丈夫。あ、だけどたまに話相手になりに来てくれるとうれしいな。」


ふふ、と笑うマリアの表情は本当に明るくて。無理に笑っていることもきっとあるのだろうが、しかしその微笑みが嘘ではないことは確かだった。その顔を見て4人は安心すると、それぞれスプーンやフォークを進める。


「んーーーーーおいしい!!相変わらずマリアさんのワッフルおいしいー!!!」


じたばたと足を揺らして莉亜は幸せそうに顔を歪めた。


「うおあー、頭痛きたー!これな。これぞ夏だな。」

「はあー、癒される。このトースト毎日食べたい。」

「ふふ、みんな素直でかわいいわ。毎日食べに来てくれてもいいのに。」

「マリアさん、このアフォガードのコーヒーって何使ってるんですか?」

「あ、それうちのブレンドなのよ。どう?おいしい?」

「すーっごくおいしいです。」

「あら、ヨルちゃんのお墨付きなら自信持てるわね。」


わいわいとみんなで騒いでいる間にも同じく食後のデザートを食べに来たり、遅めのランチにやってくる客が続々と店に入ってきていた。さっきまで貸し切りだった店も、段々と賑わいを見せ始める。


「こんちはー、マリアさーん、来ちゃいましたー。」

「あらー、竹内さんお久しぶりです。よかった、お元気そうで。」

「マリアさん、いつもの。」

「はいはい。」

「お邪魔しますー、あ、マリアさん、これいつものおすそ分け。」

「あらあら、いつもすみませんー。」


本当に、ついこの前までの平和だったTokyoに戻ったかのようだった。4人はカウンターの空になった皿の前でくだらない話をしながら、人の話し声と盛り上がっていくジャズの音色に耳を傾けていた。


確かに、Tokyoは着々と復興が進んでいるのだ。決して、元通りというわけにはいかない。もしかしたらこれからさらに酷い事態になってしまうのかもしれない。しかし今は誰しもが、この一時的な平和の香りを味わっておきたいと願っているのだ。


このまま何も起きなくていい。これ以上良くもならなくていい。ただ、ただせめて今は、どうか時間がゆっくり過ぎますようにと、そう、望むばかりだった。















鏡の前で、久しぶりに制服に腕を通した自分の姿をじっと見つめた。


昨日ヨルにアイロンをかけてもらったばかりの制服にはシワ一つなく、まるで入学したときに戻ったかのようにも思える。自然と背筋が伸び、前、横、様々な角度をつけて鏡の中の自分を何度もチェックした。髪型も完璧。いつものツインテールは今日は特に調子が良い気がする。


「…………よし。」


最後にもう一度ネクタイを締め直したところで、明らかに強ばったままの顔の自分と目が合った。


あの日以来、はじめての養成所。一体どれだけの数の生徒が無事に登校することができるのだろうか。爆心地となった養成所では、かなりの数の生徒や職員が犠牲となり、そして多くの生徒が遠く安全な田舎町へ引っ越していったはずである。今日養成所で顔を合わせる生徒たちは、みながみなあの恐怖を体験し、多くの犠牲者を瓦礫から掘り起こし、戦いに向けての生半可でない覚悟をした者たちばかりなのだ。


それを考えると、緊張もするが、気の引き締まる思いだった。


自分と同じように、泣いて、苦しんだ人たちばかりなのだ。そしてあんなに苦しい思いばかりしたはずなのに、それでもこの国の兵士となるべく困難を乗り越えてきたひとばかり。みんな同じ。そんな中でうじうじしているのは少なくとも自分だけだろう。そんな馬鹿みたいなこと、絶対にあってはいけない。


それに。


あの事件は、ここにいる4人のせいでもあるのだ。情報屋が勝手にしたこととはいえ、4人を守るために、軍を遠ざけ、結果多くの一般人が死んだ。本当は助かるはずだった命が、自分のためだけにあっさりと切り捨てられた。


だれかの家族だったひとが、だれかの恋人だったひとが、結婚を控えていたかもしれない、お腹に赤ちゃんがいたかもしれない、何年ぶりかの友人との再会を控えていたひともいるかもしれない、未だ身元がわからず、知らない土地の共同墓地で眠っているひとも、いるのかもしれない。


みんなは、その件に関してはあまり考えないほうがいい、と言っていた。考えてもその命は戻っては来ない。自分たちのせいだと、公表することもできない。ただこの罪を忘れず、償いの気持ちを持って生きていくことしか、もうできることはないから。


「………………できること…………」


そういえばきっぺが、この前妙なことを言っていた。


『…………………守ろうと強くなったって意味ねぇんだよ。守らなくてもいいように、強くなってなきゃいけねぇんだ。』


あれは、どういう意味だったんだろう。


守らなくてもいいように、強くなる。


意味はまだよくわからない。だけど、その考え方は、人よりも何歩も先を見据えているようなその考え方は、まるで。


「…………拓也………」


久しぶりにその名前を口に出しただけで、心臓がひどく高鳴るのを感じた。涙がじんわりとにじむのを感じ、ゆっくり、目を閉じる。


あの日以来、思い出そうとすればするほど、拓也との思い出の少なさに飽きれてばかりだった。その場にいたようで、実はいなかった。断片的に思い出せる拓也の姿は、やはり銀髪碧眼の異常に整った顔立ちの悪魔の姿で。


だけど、それが本物の拓也なのだ。だから、最近では拓也がいない思い出に悲しむよりも、もう一度拓也との思い出を再構築していくように、思い出せる部分は必死で思い出すことにしていた。


『おいー、莉亜。』


『莉亜、ゲームしようぜ。』


『だめ、このクッションは俺の相棒なの。』


『ん、このオムライスうまいじゃん。』



『莉亜。』




『莉亜。』







『莉亜。お前はいつか…………』










「莉亜。」


はっと正気に戻り、ノックされる部屋のドアに目を付ける。


「莉亜、準備できた?」

「うん!今行くー!」


ドアの向こうから聞こえる優しい由宇の声に返事をして、慌ててベッドの上のカバンを引っ掴んだ。



階段を降りると、すでにリビングではヨルと桔平がふたりが来るのを待っていた。


改めてみんなの制服姿を見ると、それは本当によく似合っていて、それでいてみんなが養成所のひとたちに尊敬されるのもわかるくらい、強さがにじみ出ていた。小さい頃憧れていた、年上の養成所のひとたちの姿そのもの。そうか、みんな養成所のエリートなんだよね。そんなことを実感し、頬が緩む。


「おまたせ!もう行けるよー!」

「だあああ、朝っぱらからうるせえな!」

「ふふ、元気なのは良いことだよ。」

「莉亜がなかなか出てこないからさ、みんなで心配してたんだよ。でも元気そうでよかった。」


優しく微笑んでくれる由宇を見上げ、笑って返す。みんなを見ていると不安がどんどん小さくなっていくのがわかった。だけど。


心の隅で、ほんの小さくくすぶっていた不安が、じくじくと痛み続けていることには変わらない。


「ん、どうした?」


笑顔のままでいたつもりだったが、由宇に鋭く気づかれてしまう。


「あはは…………」


なんとか笑って誤魔化そうとするが、余計に由宇が心配そうにするだけで。ああ、だめだなあ。もっと嘘のうまい子にならないと。


逃げられないような気がして、うつむいて大人しく白状した。


「あの、ね………もし、もしも養成所のひとたちに拓也のこと聞かれたら……なんて答えようかなって…………」


おずおずと顔を上げると、由宇は困ったような、悲しそうな顔で笑ってこっちを見ていて。桔平にいたっては、もう判断をみんなに託したらしく、興味なさげに窓の外をぼんやりと見つめていた。


しばしの沈黙のあと、ヨルがソファから立ち上がり近づいてくる。そして優しく頭をなでてくれると、いつもの静かな微笑みを向けた。


「情報屋が行方不明ってことにしてる以上、わたしたちもそれで貫くしかないね。でもみんなそんなに根掘り葉掘り聞いてきたりはしないと思うよ。だから安心して。ね?」

「……………………うん!」


元気良くうなずくと、ヨルは微笑んでまたあたまをなで、ソファに置いた荷物を取りに行く。


すたすたと玄関に向かってしまう桔平を見送り、


「じゃ、行こっか。」


そう言って笑う由宇に莉亜も着いていった。


養成所がはじまれば、忙しくもなるし、きっと何かが変わると思う。強さを求めて、知識を手に入れて、そしたらまた何かの打開策が見えてくるかもしれない。もしかしたら大戦争だって回避できるのかもしれない。そう思うと、玄関に向かう足もとても軽く感じた。


しかし。


一番にドアを開けて外に出たきっぺが、階段の下のほうを見下ろしてあからさまに嫌そうな顔になった。さらには舌打ちをして、呆れたように空を仰いだりなんかして。


おかしいな、と思っていると、由宇もそう思ったのか、ひょいと開いたドアから顔だけを出して下を見て、


「ああ。」


と納得したような声を出した。その由宇の脇の隙間から顔を出し、


「あ。」


莉亜もそう声をあげてしまった。





「おはようございます。」






非常階段の下、1階の部屋に通じるドアの前にしゃがみこんだ情報屋がこっちに向けて手を振っていた。


「えっと…………」


莉亜の中では、また、じょー、と呼んで駆け寄りたい気持ち、銃口を向けられたときの恐怖、何者か正体の掴めない懐疑の念、いろいろな感情が渦巻き、なんと声をかけてどう行動すればいいのかわからなくなっていた。


しかし、


「はい、渋滞してますよー。」


ヨルは立ち止まったままの三人を外に押し出し、情報屋を一瞥すると何事もなかったかのようにドアに鍵をかけた。そして桔平は大きくため息をつくと、ポケットに手を突っ込んだままがにまたでゆっくりと階段を降りていった。それに由宇と莉亜も続く。


「なに?」


情報屋の前までたどり着いた桔平は、顔をしかめてただその一言を発した。その様子を階段の上から見て、ヨルは小さくうなずいた。


桔平の反応は無愛想なだけのように見えて、あまりに的確だった。


わたしたちと情報屋、斎藤の関係は軍に警戒されている。それなのにこんな公の場で親しげに話すのはあまりに危険だ。情報屋のことだから、なんの警戒網も張らずここにのこのこと現れるはずはないが、それにしてもこちらとしてはそうそう無用心なことはできない。たとえまた情報屋の手によって軍が遠ざけられていたとしても、どこからどのように一般人にこの現場を見られているかわからないのだ。そして例え無関係な一般人とはいえ、目撃者がいれば直ぐに軍に足がつく。だからこそ、桔平の聞きようによってはただの不審者を追い払うだけのようなあの一言は、完璧な反応だった。


何も考えていないようで、瞬時に状況を理解し最適な判断を下す。それが桔平の才能であり、ずば抜けたカンだった。


情報屋も感心したのか、驚いた顔になったあと声をあげて笑った。


「あはは、さすがですね。ですが今は私を中心とした半径5メートル圏内の外部への音声伝達を遮断してますので、会話しても平気ですよ。ですがこの現場を透明にすることはできないので、手短に。」

「あっそ。で?」

「あはははは、手短すぎるなあ。」


そこで情報屋は階段を降りてきたヨルに手を振る。


「水樹さん、わたしのプレゼントどうでした?気に入りました?」

「うるさい。要件をどうぞ。」

「あはは、ひどいなー。ま、それはさておき。」


情報屋は立ち上がってジーンズについた砂を払いながら続けた。今はまとめていない伸びた茶髪が、絶妙にうつむいた情報屋の口元を隠していた。


「zero………ああ、いや、ここでは椎名拓也くんと呼んだ方がいいでしょうか。彼は今日養成所に行きますよ。」

「…………っ。」


莉亜は声をあげそうになるのを必死でこらえた。手で口を押さえそうになるが、それもこらえる。その様子を見て情報屋はわずかに微笑む。


「ただ、前にもお伝えしたように、彼には関わらないでください。違和感を周りに与えないような、必要最低限の会話はよしとしましょう。ただほぼ不可能かと思います。まあその理由については、会ってみればわかるでしょう。要件はそれだけです。だれかに彼のことを聞かれたら、彼が今日は来るであろうことだけ伝えて頂ければ結構です。根回しは終わってますので、あまり問い詰められることはないでしょうが、ね。それでは。」


本当に要件だけを淡々と伝えると、情報屋は飄々とした様子でゆったりと立ち去ってしまった。


「なんだあいつ。」


桔平は吐き捨てるようにそうつぶやくと、大通りに向けてすたすたと歩いていってしまった。


「ふーん、なるほどね。」


由宇もそうつぶやき、桔平のあとを追う。


「あっ、えっと………う、うん。行かなきゃ。」


莉亜も追いかけようとして、一度ヨルのほうを振り向く。するとヨルは無言でいつの間にか取り出したタブレットに素早く何かを打ち込んでいて。ヨルが顔を上げると同時、莉亜の携帯タブレットがポケットの中で振動する。取り出して画面を見ると、そこにはここ最近出来上がった、ヨルの空間パネルで作ったシステムに繋げたチャット用のアプリのウインドウが開いていた。4人だけしか使えず、他者に覗かれることのない防御システムを組み込んだチャットだ。


そこには、


『yoru:たぶんあの女の子もいっしょに来るんだと思う。』


短く、ヨルからのメッセージが届いていて。ヨルに手を引かれ、歩きながらその画面を見つめていると、間髪を入れず由宇からのコメントが届く。


『yu:俺もそう思った。一応前にも咲って名前で紹介されたし、こっちで生活するためのプロフィールが用意されてるんだろうね。』

『kippei:その名前とかプロフィールとかって軍が用意してんの?それともあの情報屋?』

『yoru:そこは微妙だけど………でも拓也は軍に名前をもらったって情報屋が言ってたでしょ?あの子は最近まで軍にいたみたいだし、やっぱり軍からもらってると思う。』


目の前ではもう全員桔平に追いつき、すたすたと養成所に向けて歩いているだけのように見える。しかし、3人は時たまタブレットを取り出しては素早く何かを打ち込み、またポケットにしまうということを繰り返していて。なんでもないような顔をしているのに、3人の頭は素早く情報を分析し、共有しているのだ。高度なその能力にも感動していたが、莉亜は何よりも、みんなの絆の深さを感じてとにかく嬉しかったのだ。そして置いていかれないように、すべてに素早く目を通し、理解していく。


『ria:じゃあ本当にしばらくは大人しく様子を見てた方が良さそうだよね。拓也はともかく、あの子は軍に居場所とか追跡されてる可能性大。』

『yoru:そうだね。今日はふたりの出方を見て、その設定に合わせるしかないと思う。』

『yuu:賛成。』

『kippei:了解。』


一様にタブレットをしまい、しばらくは無言で養成所への道のりを進んだ。だれもが緊張し、これから起きることに向けて覚悟を固めていた。










養成所には予想していた以上の生徒達が登校していた。ただその様子は以前とは大きく違う。だれもがお互いの無事を喜び合い、そしてその場にいることのできない友人たちを想い涙したりしていて。


しかし、活気は失われていなかった。


ここでまた挫折してしまうような生徒はここにはもういない。だれもが状況を受け止め、覚悟と信念を抱き、前を見つめていた。ある意味、大戦争に向けて、良い意味で生徒をふるいにかけることができたのかもしれないとさえ、思えるほどに。


「………………。」


その様子を、すべての校舎の中で最も高く、その中でも最上階に位置する自室から、飯田は見下ろしていた。


以前ほどとは言えないにしても、これほど短期間で創ったとは言えないほどの設備を備えた新しい校舎を再建することができたのは、軍から多額の寄付金がここに寄せられたからだった。これからのために、より多くの、より有能な戦士を育てることが現在の軍の課題であり、それに最適なのがこの105軍営養成所だと判断されたのだ。というのも、やはり今回の事件を体験したことは生徒たちにも大きく影響しているはずで、良い意味で成長が見込めると思われたからである。


そしてそれは、やはり間違いなかった。


「またしても彼らのおかげ、だな。」


ぽつりとそうつぶやくと、後ろで書類をまとめていた田中がふっと笑ったのが聞こえた。


「ええ、本当に。」


振り向き、丁寧に整えた書類を机に置いてくれている田中を見つめた。彼の腕には、痛々しい火傷の跡が残っている。あの日、あの男によって負った傷は深く、腕を切断する必要があるかもしれないと言われた彼の手は、懸命なリハビリのおかげでほぼ以前と変わらぬ働きをするまでに回復していた。


今はそれを隠すように、長袖の制服と、黒い手袋が右手にだけはめられている。


窓際に並んだ田中と共に、再び校門を見下ろした。そこではあの功労者4人が登校し、そして彼らを称賛する生徒たちが人だかりを作り始めている様子が伺えた。


「ん?椎名拓也の姿がありませんね。珍しい。」


田中はそうつぶやき、手元に持ったノートほどの大きさのタブレットを操作した。


「彼は本日は登校できるとの報告が入っているのですが………」


つい数日前、椎名拓也本人から、この養成所の本部、つまりは飯田の元に電話が入り、無事に帰還したと報告を受けていた。行方不明者となっていた彼だが、どうやら出先で先の事件に巻き込まれ、タブレットなどの通信機器を失いながら、復興作業に携わっていたのだという。あの4人にも連絡をとれなかったため迷惑をかけた、と、丁寧に謝罪までしてきていたのだが。


「ま、彼が遅刻するのはよくあることですからね。」


ふふ、と小さく笑い、田中はタブレットを切った。


「はは、確かに。常習犯だからな。とにかく、彼ら5人が無事でいてくれたことは他の生徒たちにも励みになるだろう。本当によかった。」

「ええ、彼らの影響力は凄まじいですからね。ああ、彼らといえば。」

「ん?」


田中は机に置いた書類からひとりの生徒のプロフィールファイルを取り出し、飯田に差し出した。


「今日付けで新しい期待の星もやって来ますからね。」

「ああ、そうだったな。」


飯田もそれをめくり、パラパラとめくる。「特待生:編入」と書かれたその書類に目を通し、長く一息ついた。また、忙しくなりそうだ。


「……………休暇が、ほしいな……」


空を飛びたい、と同じほど虚しく、無意味なその言葉を空気に解き放ち、飯田は小さく笑った。






登校した途端生徒たちにもみくちゃにされ、4人が教室にたどり着いた時にはもう予鈴が鳴り始めていた。一様にぐったりと椅子に座り、泥に沈んでいくかのようにゆっくりと背もたれに体重を預けた。


「あ、だめだ。俺死ぬかも。」

「え、死なないで。ただでさえ一回死にかけたんだよ。」

「うるせぇよ。喧嘩売ってんのか?お?」

「ちょっと、ふたりともやめて。由宇、ボタンとれちゃってるよ。」

「え?あ、ほんとだ。」

「どこのアイドルだよ。」

「由宇のファンは熱烈なの多いよねー。」

「貸して。縫い直してあげる。」

「ありがと。」


教室は机や椅子、スクリーンなど、最低限の設備は用意されていた。しかし何人の生徒が残ったかもわからず、さらに教室においてあった教科書などの類はすべてなくなったため、今は各々が好きな席に座る形になっていた。四人は窓際の一番後ろの角の席を4つ使う形で座り、ヨルと由宇の前に莉亜と桔平が座っていた。


由宇の上着をヨルが受け取ったところで、教官が教室に入ってくる。


「みんな、久しぶりだな。今日ここで再会できたことは本当にうれしいよ。そして、戻ってきてくれてありがとう。よし、じゃあ出席を確認するからな。」


Aランクの生徒はやはり半数以上が登校していた。犠牲となった者以外、ほとんどが出席しているのだろう。生半可な覚悟でAランクに上がれるほど、この養成所は甘くないのだ。


「…………よし。出席が確認できてる者で来てないのは椎名だけだな。東、何も聞いてないのか?」


思わず3人とも桔平に視線を向けてしまう。しかし、


「なんも聞いてないっすよー。来るはずなんですけどね。」


頭をがしがしとかくだけであくまでも普段通り桔平は答えた。それに3人が安堵のため息をついたところで。



「おお、来たか。」



ドアがゆっくり開き、教官が声を上げる。ドアの方に目を向け、4人は一様に緊張を走らせた。


「すんませんー。遅刻しました。」

「お前新学期早々それはないだろ。とにかくさっさと座れ。」

「はいー。」


拓也は本当におもむろにそこに現れた。


どれだけぶりなのだろうか。あの日、最悪の別れ方をしてから、一度も会っていなかった。


莉亜はうるみそうになる目を必死で乾かしていた。拓也は、今はzeroの姿なんかではなかった。ずっといっしょだった、ずっと仲良しだった、大好きだった拓也の姿が久しぶりにそこにあって。いつもの眠たそうな顔、ゆるんだ猫背、何も変わってなんかいない。この2ヶ月の出来事のほうが本当は嘘で、拓也が帰ってきたんじゃないかと思えるくらい、心が満たされていくのを感じていた。


しかし、目に集中し、あの日見たzeroの姿を必死で思い出すと、確かに拓也の姿はzeroで間違いなかった。銀髪碧眼。整った、整いすぎた顔立ちと、引き締まった体躯。奇妙な感覚だった。少しでも気を抜けば、まるで霞がかかるようにその特殊な見た目が脳から隠れていくのだ。


ぼんやりとその感覚に身を委ねていると、拓也は教官の前を通り、由宇と桔平の脇を通り過ぎていくところで。


どんな顔をすればいいのか。そんなことを莉亜が考えている間に、拓也は何も言うことなく由宇の隣の一番後ろの席に腰を下ろした。


「よし、これでそろったな。それから今日は重要な知らせが………」


そこまで教官が話したところで、再び教室のドアが開かれた。するとそこに現れたのは飯島所長で。


思わず全員が席を立ち、姿勢を整える。


「はは、いやいや、そんなに固くならなくてもいい。今日は紹介したい子がいてね。これから君たちの学友となる子だ。さあ、入りなさい。」


飯島に導かれるようにして教室に入ってきたその姿に、4人はため息をこらえるのに必死だった。あまりにも想像通りの姿。恐ろしいはずなのに、今は何故か知り合い程度にしか感じられなかった。


教室が少しざわめき、それだけで彼女のこれからが目に見えるようで。


「中央特殊軍営施設からこの度特待生として編入の決まった羽水咲さんだ。これからこのAランクで学んでもらう。」


「…………羽水咲です。よろしく。」


真っ直ぐに教室を見回した絶世の美女に、クラス中の生徒が一挙にファンとなってしまったことは、言うまでもなかった。


そして何よりも、クラス全員が驚いたのは彼女が所属していた施設の名前だ。


中央特殊軍営施設。『中央施設』、『特施』、などと呼ばれるそれは、Nipponの施設の中核を担う国内最高峰の施設の名前だった。軍の本部内に置かれ、直属の講師が子どもたちの教育に当たり、入学当初から厳選された子どもたちが卒業に向けてふるいにかけられ、卒業した暁には工作員や幹部をはじめとした軍の中枢を担う役職に配属される。つまり、エリート中のエリートを育てる施設なのだ。


長年その存在は謎に閉ざされ、卒業生も多くが工作員として姿をくらませてしまうため、もはや噂だけの施設なのではと疑われるほどだったのだが、今まさに目の前に、幻の存在がいるのである。


ざわめきの止まないクラスに飯田は苦笑し、そして思いたったように一言付け加えた。


「ああ、それから彼女がここに慣れるまでは椎名くんが面倒をみてやってくれ。知り合いなんだってね。」


『ええっ?!!!!!!』



飯島の言葉に、4人を含めたクラス全員が声をあげて振り向く。


(そこはばらすのかよ…………)


桔平の呆れたような視線に3人ともうんうんとうなずいた。


一方拓也はというと、


「あー、まあ、前のがっこーで………ははは。」


なんて困った顔で頭をかいていて。


「え?前の学校って……え?どういうこと?」

「椎名って中央の施設出身だったの?」

「で、でも東とかと一緒のとこなんだろ?」


教室中が軽くパニックになる中で、咲だけが冷静にため息をつく。


「あの………拓也とは小さい頃に同じ施設で育ったってだけで、拓也が特施にいたのは6歳とか7歳までだったと思います。そのあともたまにスパークリングには付き合ってもらってたんで…。幼なじみみたいなものです。」


ああー、とクラス全体から納得の声が漏れる。


「ま、とにかく彼女は実戦に備えた訓練を中心に受けていたらしくてね、これからのこの養成所の方針を定める上で手本になる存在ではあると思う。よろしくたのむよ。」

「はい。」

「それじゃあ、みんな、がんばってくれ。」


軽く手を挙げて教室を出ていく飯島を見送り、教のざわめきはどんどんと高まっていくとばかりだった。


「まじかよ……すげぇ………」

「女神だ………女神…………」

「女の子で特施ってすごくない?あこがれるなー。」

「椎名ころす…………椎名ころす………」


良く分からない異様な空気に包まれる中で、生徒同様ぼんやりと咲を見つめていた教官がやっと覚醒した。


「お、お前たち!静かにしろ!羽水もさっさと座れ。好きな席でいい。」

「はい。」


教官の前を横切り、咲は迷いなく拓也の隣の席に向かった。だれもが恍惚の表情でその一挙手一投足を見つめる中、咲は席につき、椅子に座る直前で、惚け顔の四人の方を見て薄く微笑んだ。




「はじめまして。よろしく。」














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