○ Two Years
「普段言いはしねえけど、べつにそんな特別な言葉でもないだろ」マルコが言う。「なんでそこを気にすんのかが謎」
それは自分でもわからなかった。なぜだろうと思いながら後部座席、バッグとクッションをひとつ助手席に置き、サイドと腰のあいだにクッションをはさんでそこにもたれた。
「どうでもいい言葉だとは思うけど、言われないことに気づいたら言わせたくなるでしょ」と、私。
「そんな言葉、普通すぎて意識したことねえわ」
そう言いながら身体を起こすと、彼は助手席のシートを前方にスライドさせた。運転席も同じようにする。靴を脱ぎながら運転席のうしろに移動するよう私に言い、私が用意した位置に座った。文句を言う私を引き寄せてまた、私の腰に両手をまわす。背中が引き寄せられ指を絡められて私はまた、アゼルのことを考えた。
彼に訊ねる。「この体勢、好きなの?」
「べつに好きってわけじゃねえけど」と、マルコ。彼の右脚はシートには乗っていない。狭いので。
「エデにもしてあげた?」
「してやったっつーかな、最初、ここくるかって訊いたんだよ。したら尻尾振って座った。それからはもう、隙あればみたいな感じ」
「犬か」
「お前もアゼルといたら犬になんだろうな」
「はじめて会った時、猫っぽいって言われた」
「まあそうだけど」
「だから私は、男はみんな犬だって言ってやった」
「初対面なのに」
「言ったじゃん、ふざけた態度ばっかりとりまくってたって。でもそのうち珍獣だとか言われた」
彼が笑う。「珍獣って、具体的にはなんだろな」
脚を立てた私は目を閉じたまま彼にもたれていて、彼の顔は私の左側にある。
「さあ。ネコ科の狼とか言われた気がする」
「お前どんだけかっこいーんだよ」
「珍獣ですよ。しかも私、さすがに遠吠えなんかしないってのに」
「キレたらなにするかわかんねえらしいからな」
「もう最近、キレる気力もない。なにもかもがめんどくさい」受験生だという自覚すらない。
「そういやお前、もうクリスマスの予定できてんのか。しかも二十八歳?」
「うん。年明けの一月に二十九歳になるらしいけど。どっか連れてってくれるんだって。今日放課後、学校にいる時に電話かかってきた。あんたのもそうだけど、これからはもうちょっとヒトがいない時に電話に出ることにする。じゃないと周りがうざい」
「せっかくクリスマス、アマウント・ウィズダムに連れてってやろうと思ってたのに」
「やだよ」シャレにならない。
「マジでもう行く気なくなったんか」
「どうかな」と、私。よくわからない。「ほんとはクリスマス、家でひとりじっとしてるつもりだったんだけどね。イヴは予定入ったし、同期の友達がうちでパーティーするとか言ってるし、無理っぽい」
「ひとりでいたらアゼルのこと考えるだろ。あ、それが目的か」
「クリスマスはさすがに、なにしてても考える気がする」忘れられない、去年の記憶。「ま、どうせ断っても、友達は無理やり押しかけてくる気がするから。けっきょくつきあうはめになるんだと思うけど」
「去年は二日ともアゼルと一緒だったんか」
「二十四日の夕方から。あいつ昼間は仕事だったから。二十五日は友達といたりアゼルといたり」
「お前、クリスマスがどうこうとかいうタイプじゃねえと思ってた」
「私がどうこうなんじゃなくて、世間がどうこうなってるから、私はアゼルと一緒にいたの。クリスマス大好き人間に用はないから」
「なんかプレゼントやろうか?」
「そう言われても、欲しいものが浮かばないから困る」欲しいものなど、なにもない。
「アゼルはなんかくれたか」
私は少し考えた。「──なんにももらってないような」あえて言うなら“血”をもらったが。
「マジか」
「そんなタイプじゃないし。私もくれとか言わないし。私はあいつにお金を使われるのがイヤだった。っていうかよくよく考えてみれば私、あいつに奪われるだけの二年間だった気がする」
「意味わかんねえ」
「ファーストキスを奪われた。処女を奪われた。初恋を奪われた。平常心を奪われた。無関心度を奪われた」
「よけい意味わかんねえよ。無関心はともかく、他は誰かに惚れたりすりゃ奪われて当然のもんだろ」
間違ってはいないだろうが、少し違う気もする。「あ。あとね、あいつ、私が当てたソフトクリームの半額クーポンを奪ったのよ。Kマートのデザートショップの」
「あのめったに出ないってやつ? マジで?」
「ひどいでしょ。アイスは奪うしクレープは奪うし、おばあちゃんに作ってもらったサンドウィッチは奪うし? あいつだけじゃないんだけど、もうなんか、みんなに奪われてばっかり」
「取り返せるもんなら取り返せよ」
当たり券は一生取り返せないような気がする。「どうでもいい」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
時間なのか気温なのかマルコの体温なのか、話してるうちに眠くなってきた。
「──タクシーで」私はふいに切りだした。「アマウント・ウィズダムに行ってもらったら」
「あ?」
「どれくらいかかるかな」
「バカ高だぞ。行きたいなら連れてってやるって」
首を小さく横に振った。
「行く気があるわけじゃない。ただどのくらいなのかなって思っただけ」
行くとすれば、クリスマスイヴだ。ディックと会ったあと、夜中。着く頃には日付が変わって、二十五日なのだろうけれど。
あと一時間半の距離に、アゼルがいる。
「知らねーけど、一、二万はいるんじゃねえの」マルコが答える。「けどそれやったらマジでアホ」
行けない金額ではない。だって、寂しい。今の私の人生は、穴だらけだ。
「っていうか、なんで毎回こんな体勢になってんの? なんで私は不倫してるみたいな気分にならなきゃいけないの?」
「いつ俺が結婚したよ」
「エデとつきあってたし、なぜかケイにまで嘘ついてるし、なんかね」
「こういうことしてるってのを喋ったら、お前がローア・ゲートの施設見て泣いたってのも言っちまいそうだろ」
「べつにいいよ、言っても」アゼルにこうしてもらう時も、背中はこんなふうに温かかった。「私はね、たぶん、終始強がってるってわけじゃないのよ。その時その時の気分がそうさせてるだけなの。ケイの前だからとか友達の前だからって理由で強がってるわけじゃない。平気なふりをしたい気分だからそうしてるだけ。平気だと思いこみたくて、平気になりたいからそうしてるだけ。あの時もしケイがいたとしても、けっきょく泣いてた」
「──そのまえに、施設見たいなんて言うか? ケイがいたら」
少し悩んだ。「──それは、どうだろう」微妙だ。「や、でもあの時の気分なら、けっきょく言ったかもしれない」
「へえ。んじゃ今からケイに電話してみるか? ソイル・アシーヴのみやげ、なんかいるかって」
「どうぞ?」
「なにやってんだって訊かれたらなんて答えんだ」
「ドライブ」
「なんでそんなことになってんだって問い詰められる。あげく手出してないだろうなってまた俺に詰め寄ってくる。お前に訊かねえぶん俺に被害がまわる」
「私は正直に言ってもよかったのよ、最初だって。なのにあんたが嘘つくから、なんかものすごく面倒なことに」
「あいつ、なにげにアゼルのこと気に入ってるからな。親にもツレにも俺のこと話せなかったから、数えるほどだけど、あいつと会って話すのが楽しかったんだと。だから実は、アゼルが施設入ってけっこうヘコんでる」
初耳だ。「私に対してはざまあみろと思ってるわよ」
「思ってねえよ。それっぽく言いはしただろうけど、俺が帰ったらアゼルとお前と四人で話すの、楽しみにしてたって。アゼルのこと気に入ってるし、お前のことが大好きだからよけい、俺とお前がどうにかなんのを気にしてる」
「私が落ちると思ってんのか」
「喧嘩と女じゃ俺が百戦錬磨の負けなしだってこと、知ってるからな」
「逆にあんたのことを心配してんのかも。私に惚れたら最悪なことになるから」
「あの卒業した奴な。あれは最悪だな」
「最高でしょ。ほぼ全校生徒の前で、告白もしてないのにフラれるのよ」あげく行方不明。「我ながらよくやったと思うわ」いろいろな意味で。
「とりあえずお前、誰でも脅しにかかるのやめろ。したらもっとモテるはずだぞ。なんで口説かれる前から誰かれかまわず脅してんだよ」
「脅したつもりなんてないけど。卒業生のあれは、私、本気でそいつのことがキライだったの。なんか不良とは違う意味で絡んでくるみたいな、とりあえず存在がうざかった」うざい存在のくせにアニタを利用するなどというふざけたことをしたから、私はキレた。「それにモテたいわけじゃないし。興味ないし。男なんてどうでもいいし」
「アゼルとヨリ戻すんじゃなきゃ、一生ひとりでいるつもりか」
「そうよ。もともと、恋だの愛だのなんてのは信じてないし。別れて周りにやたら心配されて、友達との関係までぐちゃぐちゃになっちゃうようなのが恋愛だっていうなら、もう誰ともつきあいたくない。めんどくさい」
「もっと軽く考えろよ。お前の言ってた“共有”の意味は知らねえけど、まだお前、中坊だぞ。その歳なら一回の色恋でボロボロになんのだって普通。けど普通はそのうち諦めて振り切って、また他の男見るんだよ。そうやってそのうち、男に弄ばれる側から男たぶらかす側になんだよ」
思わず笑った。弄ばれる側から、たぶらかす側。
「そういう気持ちの切り替え方が、よくわかんない。失恋してものすごく泣きまくってた女友達も、気づいたら次に行ってるけど。悪いことだとは思わないし、羨ましいとも思う。でも私は無理」
“最高”も“最悪”も、ぜんぶアゼルから教わった。
「アゼルは私を惚れさせたけど、元は私、他人に興味ないし。たぶん恋愛にだって興味なかったよ。友達と違って、誰がかっこいいとか誰が好きだとかもないし。好きなのは音楽と食い物だけ。アゼルと別れてよけいに恋愛なんかする気がなくなったし、実際、誰のことも好きにならない。友達は友達だし、大事だとは思うけど、アゼルを好きになったみたいに、誰かを好きになったりはできない。あの恋愛がデフォルトになっちゃったから、もう誰ともつきあえない」
アゼルとの恋愛は、“赤”だった。激しく燃えていて、地獄のようにめちゃくちゃな、そんな真っ赤な愛だった。とても脆くて繊細で、だけどとても強いなにかで結ばれていた。他の誰とも、そんな恋愛はできない。アゼルとじゃないなら、あんな恋愛はできない。
少しの沈黙のあと、呆れたらしく、マルコは溜め息をついた。
「重症だな」
本当に重症だと思う。自覚はある。アゼルは私の、“生きる意味”だった。
いつ死んでもいいと思っていた。でもアゼルが、私がいなくてめちゃくちゃする人間に戻ってしまうなら、私は生きていなければいけないと思った。傍にいなければいけないと思っていた。義務のように感じてたわけではない。傍にいたかった。アゼルのために生きていたいというのとは違うけれど、アゼルと一緒に生きていたかった。
私たちには、あの約束があった。あの約束は、“死ぬ時は一緒”だったけれど、できることなら、“死ぬまで一緒”にいたかった。そんな約束と想いがあったから、アゼルは私の“生きる意味”だった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
複数のエンジン音が近づいてきたと思ったらそのうち、バックドアガラスが白っぽいライトで照らされた。照らし続けるのではない。おそらく小道を挟んだところにあるグラウンドを蛇行している。
逆光とスモークで見えるはずもないのに、マルコは改造スクーターが四台だと言った。もしかするとそのうち二台は二人乗り。わかるらしい。しかも遠のく気配がなく、それどころかこの車を挑発しているのだとわかった。
おそらくすべてのスクーターのライトが、迷惑にも後方からこの車を照らすよう停まった。スモークを貼っているとはいえ、あからさますぎて少し眩しい。
「田舎のガキって恐ろしいな」マルコが言う。「誰に喧嘩売ってんだ」
「ちょっと行ってくる」
そう言うと、私はバッグとクッションをよけ、サンダルを履こうと助手席に移った。
サンダルを履いていると少しだけ開けた窓がコツコツと叩かれ、声をかけられた。
「すいませーん」男が軽い調子で言う。死角になっていて首から上は見えないものの、スモークもあるものの、黒っぽい写真のようなプリントが入った白いパーカーを着ている。「金くださーい」
まじで? カツアゲ?
すぐに運転席側の窓も叩かれた。「とりあえずドア開けろや」中を覗きこんでいるらしく、窓の隙間から白い肌と目が見える。おそらくこちらは少し太っている。「おい、そっち女座ってる」ドアのアウター・ハンドルを乱暴に、ガチャガチャとしはじめた。「開けろっつってんだろこら!」怒鳴っている。
私はわくわくしていた。おもしろい。
助手席のロックを解除してドアを開けた。こちらにいた男がそれに気づき、そのままドアを大きく開く。
白いパーカーの彼は前髪をM字型に剃った坊主頭のブロンドヘアで、ブルーの褪せたジーンズを履いている。その傍ら、向かって右には清々しいほどの青いパーカーに灰色のシャツ、黒いジーンズといった服装で木製の古そうな野球バットを持った、色黒黒髪ショートカットの男が立っていた。どちらも手に軍手をつけている。




