* Wishing
「──お前が、施設に行ったら」
言葉を切り身体を少し離すと、マルコは私の顔を上げ、右手の親指で涙を拭いた。
「今度こそケイがキレる」
──ケイ。
そうだ。私が施設に行ったら、ケイにも同じ思いをさせることになる。過去に彼にしたことを、また繰り返すことになる。そんなこと、するべきではない。
そう思った次の瞬間、ものすごく最悪な状況であることに気づいた。
「──来るんじゃなかった」
「あ?」
「なんで私、あんたにこんなことされてんの? 最悪。最低」
彼の口元が引きつる。「お前、マジでうぜえ」
「私もあんたうざい」
そう言ってまだ頬に残る手から逃げるよう、マルコの胸に顔を伏せた。深呼吸する。涙は止まった。もう泣かない。泣くべきではなかったのに、こんなところに来たからか、施設は施設でも、みんなはいないと思い知ったからか、気が緩んだ。寂しくて死にそうなことに変わりはないけれど、どうしたって後悔も怒りも消えないけれど、なにもかもがもう、今さらだ。無意味なことをしないのが、私だったはず。
もう一度、深呼吸した。
「──ケイ、迎えに行かなきゃ」
彼はまた私を抱きしめるようにして、私の髪を撫でている。
「そのわりには離れねえな」
「離れるタイミングがわかんない」
「顔上げたらキスしてやる」
「絶対イヤ」
「ケイとはしたんだろ?」
あのお喋り少年はいったい、なにをどこまで話しているのだろう。
「変な意味じゃないし。あんなのただの間違った挨拶だし。嫌がらせだし」
「俺、自分は浮気も二股もするけど、女がしてたらキレるわ。キスだけでもキレるわ」
つまり、アゼルが怒らなかったことも知っている。「どんだけ自己中」
「お前らが変なだけ」
「アゼルはね、男友達が寝不足で不機嫌で、スクーターの試験がまずいかもってなった時に、キスでもしてやれば目覚めるかもよって、さらっと私に言ってた」
「は? マジで?」
「うん。さすがに深いのはやめろって言ったけど。で、友達はほんとにした。あいつはそれを見て笑ってた。まるでオモチャよね」
「お前はキレなかったわけ?」
「キレてはない。最初に勝手に他の男にキスしたのは私。中学一年の時、同期の女にムカついて、復讐のために。そのあとアゼルたちの卒業式でボタンの競りがあって、アゼルのボタンの値段がすごいことになって、第二ボタンを競り落とした女にアゼルがキスしなきゃってなった時、キスがキライらしいアゼルは渋ったんだけど、私はしろって言った」
「はあ? なんだお前ら。どんなつきあいかたしてんだ」
「そんなのどうでもよかった。深いのはイヤだけど、フレンチくらいはどうでもいいって、私もあいつも」
「そんななのに引きずるんだな。意味わかんねえ」
繋がっているのは、もっともっと、深い部分だ。
「わかんなくていい。どうせ誰にも理解されないし、されたくもない。触れてほしくもないし、放っといてほしい」と、私。
「施設見たいっつったのはお前だぞ」
「だってこんなとこ、来ないし。どこにあるのかも知らなかったし」
「アゼルに訊かなかったのか」
「あいついわく、私は無関心の女王なのでね」
「まあそうだろうけど」
「最初に会ったのはあいつが施設から戻ってきたばかりの時だったけど、それ以降はずっと、そんなとこに行かなかったから。ほとんどずっと一緒にいたの、友達も含めてね。去年は、三日に一回はみんなで集まってたかな、たぶん。アゼルのせいで、ぜんぶぐちゃぐちゃ」
「あいつは意味もなくヒト殴る奴だからな。感情の赴くまま。ああいうタイプはサクッとやめる時もあれば、徹底する時もある」
「──たぶん、その、アマウント・ウィズダムに行く原因になった喧嘩は、徹底したんだと思う。詳しいことはわかんない。けど相手が何人か──たぶん六人くらいいて、アゼルはひとりだった。ちょっとやられたけど、相手のほうが怪我がひどかったって」
「喧嘩強えもんな。歳と戦歴で考えたら負ける気はしねえけど、あいつの喧嘩センスはスキだわ」
「ボクシングでもやればいいよね」
「俺は昔、ちょっとかじってたぞ。上にボクシングやってんのがいたから、そいつに習って。けどあれじゃダメなんだよ。細かいルールあるし、うざいし」
意味がわからない。「こうやってても、あんたのことが苦手じゃなくなる気がしない」
「犯されてえのか」
「帰ってくると思う?」
「誰が」
「アゼル」
「一月に?」
「そう」
「さあ──態度よけりゃ出院が短くなることはあるけど、その逆の、なんか問題起こして長引く確率のほうが高いからな、特にあそこは。厳しいのと平行して、やたら喧嘩売ってくるような態度の職員もいるし。常に試されてる感じだから、キレたら負け」
つまり、戻ってこない可能性もあるということだ。だったらもう、そのほうがいい。会ったら、また戻ってしまうかもしれない。傷つくのがわかっているから、そんなことはしないほうがいい。わけがわからなくなるだけだからもう、なにも考えないのがいちばんだが。会ったら会った時に考えるのが、いちばんなのだが。
「帰る」私は言った。「離して」
また身体を少し離すと、マルコは再び私の顔を上げた。右頬に残る涙を拭く。
「ケイはどーすんだ。たぶん帰ったら十時過ぎてるけど」
「それはケイに任せる。電話してみる。っていうか」後方を見やる。「これ、どうするの? まっすぐ進むしかないよね。出られるの?」
「それは平気。運転したことがあるとはいえ、まさか免許とったばっかでこんな山道走ることになるとは思ってなかったけど」
「あんた、初心者マークつけてないよね」
「誰がつけるかアホ」彼はやっと腕を離した。「事故んねえように祈っとけよ」
車に向かう彼のあとに続く。「あんたと心中なんてまっぴらごめんだからね」
「それはこっちのセリフ」
ウェスト・キャッスルへ。
再びマルコの隣に私の姿を確認したケイは、ものすごく疑わしげな表情を見せたあと、変なことはしてないだろうなとマルコに詰め寄った。するわけがないしされるわけがないと私は答えた。マルコはまたも嘘をついたけれど、私は放置しておいた。
施設を見に行ったことも泣いたことも、ケイになら知られてもかまわない。だって彼はおそらく、内心では私がまだアゼルのことを引きずっていると思っている。待っていると思っている。リーズたちのことだって知ってるから、そこを考えれば、泣いてもおかしくはない。と、思う。
ただ私の場合、意地の張り具合が半端ではない。私が気にしてないと言い張るから、彼はそれに合わせているだけだ。
三人での小一時間のドライブのあと、やはり夜の十一時すぎ、祖母の家に戻った。
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さくっとシャワーを浴びて部屋に戻ると、ベッドに寝転んでディックに電話した。もう零時だ。さすがに迷惑な気がする。というか迷惑すぎる。
三度目の呼び出し音が鳴る前に、彼は電話に出た。「はいよ」
「ディック? ごめん、こんな時間に」
「最近のガキは常識がなさすぎだな。いや、いいけど。どうした」
常識がないとか、この男にだけは言われたくない気がする。
「今週の土曜、午前中かな。時間ある? サイラスのところに文化祭のCD-R、持って行こうと思ってるんだけど」
「土曜? ああ、問題ない。何時頃だ」
「十時すぎだと思う。そんなに長くはかからない。映像はぜんぶで三十分もないから」
「なら十時頃、サイラスのとこに行きゃいいんだな。っていうか今一緒にいるぞ、サイラス。飲みながら説教くらってたところだ」
「説教?」
「ちょっと待てよ、代われって言ってるから代わる」
「はい」と、私。
「ベラか?」サイラスの声に変わった。「お前な、いくら一度会ったことがあるからって、さすがにいきなり誘われてついていくのはどうかと思うぞ。ディックがロリコンのとんでもない変態だったらどうするんだ」
ロリコンのとんでもない変態。その言葉に、私は思わず笑った。
「そういえばそうな気もするけど──」ロリコンのとんでもない変態。私はまだ笑っている。「あなたの知り合いだからよ。そうじゃなきゃついていったりしない」
「笑い事じゃない」彼の声のむこうからはディックの笑い声が聞こえる。「こっちだって三年か四年、会ってなかったんだ。ディックがロリコンのとんでもない変態になってる可能性だってじゅうぶんあるんだぞ」彼はまた繰り返した。
笑いが止まらない。「わかった、ごめん」繰り返しすぎだ。「酔ってるの?」
サイラスも笑いだした。「ちょっとな。土曜の朝に来るんだな? いつもと同じくらいの時間」
ロリコンのとんでもない変態。「うん」くすくすと笑いながら答える。「店で観られる?」
「ああ、観られる。店はクローズにしておくから、着いたらディックに電話しろ」
「わかった」
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サイラスとの電話を終えると、今度はルキアノスに電話した。メールだと寝てしまいそうだ。
彼が電話に出る。「ん」
「ごめん、メールじゃなくて」と、私。
「いや、いいけど。でも日付変わってる。やっぱ土曜は文化祭、サボるかな」
現在零時十分すぎ。「そういう話だった? ごめん。帰ってきたのは十一時すぎだったんだけど、シャワー浴びたり電話してたりで、こんな時間に」
「ふーん? また長いドライブだな。やっぱりデートだ」
「そうね。相手がアレじゃなかったら、デートだって言ってもいいんだけど」
それにしても変だ。アゼルが昔入っていた施設を見に行って泣いて、けれど一緒にいたのは苦手な人間という状況。けれどこれは、苦手な人間と一緒でなかったとしても、デートとは言えないような。
ルキがこちらに質問する。「今日はどこ行った?」
「またローア・ゲート・シティ。バルキー・ヘンプっていうところ」
「へえ。なんかあった?」
どちらの意味だろう。「なんにもないよ。山だし」起き上がってベッドからおりた。「山道走ってたの、なぜか」クローゼットに向かう。
「ベラは山より海が似合う」
山より、海。「山が似合う女なんているのかな」
「いるよ、たぶん。どんなのかわかんないけど」
私もわからない。「海には行きたくないの」ブラウンカラーのクローゼットの扉を開けた。「海はキライ」扉を開けると、中の照明が自動でつく。
「なんで?」
アゼルとの記憶があるから。「なんでかな」ハンガーにかけた大量の服を左に追いやる。「迷子になるから」右端にあるアゼルの学ランをハンガーからはずした。「土曜、午前中はディックたちに会ってくる。このあいだ一緒にいたヒトね。文化祭の映像、観せるから」
「ああ──じゃあランチ、一緒に行ける?」
「どっちでも」クローゼットの扉を閉めずベッドへと戻る。照明は感知式なので問題はない。「適当に連絡して。十二時までに連絡がなかったら、こっちでランチを食べることにするから」
「うん、わかった──なんか、あった?」
おそらく、さっきのとは違う意味だ。「ちょっとね、へこんでるの。でも平気。もう寝る。明日学校だし」
「──ん、わかった」
ベッドにあがり、「じゃあね」と言って電話を切った。“おやすみ”なんて言葉、今は聞きたくない。
胸ポケットからフォールディングナイフとアゼルの残したメモ書き、そしてマブの鍵とアゼルの部屋の鍵を出してベッドの上に置き、ワンピースの上に学ランを着た。ナイトスタンドの明かりを消して横になり、頭までシーツをかぶる。目を閉じた。ボタンはないから、自分の左手をその代わりにする。
意地でも認めない。認めたくない。これは、会いたいのではない。好きなんじゃない。愛しているのではない。
ただ、時間を戻してほしい。アゼルはもちろん、リーズとニコラ、マスティとブルが一緒にいた時に、戻りたい。
去年がいちばん幸せだった。いろいろあったけれど、最悪な人生だと思っていた中で、いちばん幸せだった。
学ランで顔を隠そうとすると、一瞬、アゼルのニオイがした気がした。涙が流れた。
首にある南京錠はもう、私の一部だ。まるで融合してるみたい。
だけど会いたいなんて言わない。やりなおしたいなんて言わない。
愛してるなんて言わない。絶対に認めない。
だけど、時間を巻き戻したい。
過去に戻って、もう一度、アゼルと愛し合いたい。




