* Lips Distance
右手に目的のわからない空き地が現れた。山のふもとだからか、舗装もされていない。砂利。マルコはそこに車を入れ、停めた。誰もいないし、なにもないし、車もない。外に出ていなくてもあたりがしんとしているのがわかる。
車を降りた彼は唸りながら背伸びをした。こちらも外に出る。ドアを閉めた彼は来いと言って、道のほうへと歩いた。ついていく。
マルコは湖みたいな川沿いの通りの脇にある低いコンクリート塀に腰かけた。北方向を指差す。
「あれ、小さい建物があんの、見えるか?」
彼が示すものを探した。暗くてよくわからないけれど、今いる道がこの先で左に少しカーブしていて、その向こうに見える左側の山もこちらに向かって伸びていて、ちょうどその中間に、白っぽい建物があるのを見つけた。
「見える」と答えた。「浮いてるみたい」
「浮いてねえよアホ。あれが水門。小さいけどな。橋があって、左にある山のふもとと道が繋がってる。水門のむこうは海だけど、ここから大学の傍の川にも繋がってるから、お前の言う孤立した湖ってのにはならねえ」
納得した。「湖にしてくれればいいのに」少し距離をおき、彼の左隣に腰をおろす。「でもここは好き」
右後方へと視線をうつした。今日は星がよく見える。山ばかりではあるが、外灯が照らすハーバーもキレイだ。湖ではないのが残念だし、住みたいとは思わないことにするけれど。
ときどき風が吹くと、潮のニオイがする。あと三ヶ月で、また十二月がやってくる。大嫌いで、わりと好きになって、また大嫌いにならざるを得ないクリスマスがやってくる。泣きそうだ。
「その南京錠はなんか意味あんのか」マルコが訊いた。「ケイに訊いても、それは知らねっつーんだけど」
南京錠に気づいたケイの感想は、“かっこいい”だった。パンクになるつもりかと訊くから、それはないと答えた。いつだったか、私がいつもこれをつけてることに気づき、妙ににやついた顔をした。手刀をかましてやったので、それ以上訊いてくるようなことはしていない。
私は彼のほうを見ずに答えた。「ただの飾り。アクセサリー」
「へえ」
「ねえ、私が受験生だってこと、知ってる?」
「知ってる」
「なら」彼のほうを向く。「もう帰らせてくれてもいいと思う」
「めんどくさい」
「なんだお前」
マルコは笑った。「今度から男の車に乗る時は気つけろよ。どこにだって連れてける」
本当だ。恐ろしい。「あんたの車になんか二度と乗らない」
「んじゃ連れて帰れねえな。置き去りか」
「は?」
「乗らねえんだろ。俺はひとりで帰るってことになる」
「マジくだばれ」
「くたばっても帰れねえな。お前は迷子」
「わかった。明日以降は乗らない」
「どうだか」
どうだかもこうだかもあるか。なんなのだ、こいつは。だがふとひらめいた。
「置き去りにされても平気かも。財布はないけど携帯電話がある。おばあちゃんに電話できる」
「ここがどこかもよくわかってねえのに?」
「大学まで来てもらう」
「ああ。んじゃそうするか」
ムカつく。「財布がないって、すごく不安」
「散財しすぎなんだってな。ケイと女に投資したとか」
「ねえ、あんたほんと、なにをどこまで知ってんの?」
「いろいろ」
「ケイや主事が知ってる以上のことは知らないよね」
「そーだな。エデが知るはずねえし」彼は脚を組んだ。「だからあいつといてもつまんね」
「なにしてんの? 普段あれと」
「ヤってる」
「笑えないから、それ以外でお願いします」
「単車でどっか行ったり、飯食ったり、昔話したり? つっても、最初の二週間はマメに会ってやってたけど、先週は教習が追い込みで忙しいからっつって、平日に一回と土曜にホテル行っただけ。次の言い訳は仕事だな」
「文句言われないの?」
「言われないんじゃなくて言わせねえの。俺は束縛もわがままもキライだってはっきり言ってるし」
エデはそれに従うのか。「あいつが翻弄されてるところ、ぜんぜん想像できない」
「そーか? 普通に甘えてくるぞ。歩く時は終始腕にひっついてるし、やたらキスせがむし、処女のくせにホテル行くこと拒まなかったし、常にカマトトぶってるし。俺はSになったり紳士になったりして遊んでる。こっちが不機嫌になったらあいつ、蛇に睨まれた蛙みたいになる」
蛙。
次の瞬間ふきだし、私は天を仰いで笑った。
蛙だって。蛇に睨まれた蛙。まじで。やばい。ツボに入りそう。
「笑いすぎ」と、マルコ。「事実だけど」
笑いが止まらない。蛙。エデガエル。タマゴガエル。まじでやばい。
「する時──」私は笑いをこらえながら言った。「エデの顔見て、蛙だと思ったら──」まじでやばい。
マルコも笑いだした。笑いながら怒鳴る。
「お前、それ言うなよ! ヤれなくなんだろ!」
こちらは笑いが止まらない。最低だとは思うが、止まらない。
「だって──」エデ蛙。たまご蛙。「蛙──」ああ、どうしよう。「エデガエル──」
彼もまだ笑っている。
「わかったって、言うなって。思い出すわアホ。さすがに最中に思い出して笑ったら気まずいわアホ」
落ち着け。落ち着け。「わかった。もう──」
私はまた笑った。だめだ。ツボに入った。止まらない。
「くどい」
そう言うと、笑いがおさまったらしいマルコはこちらに近づくよう座りなおし、右手で私の頬に触れた。
それでこちらの笑いが止まる。過去の記憶が蘇る。アゼルの記憶が蘇る。この感じは、まずい。
「やっと止まった」さっきまで笑っていたとは思えないほど、彼の表情は穏やかだ。「俺は悪くねえ。お前が悪い」
意味がわからない。「なに言って──」
探るような眼をしたマルコの右手が、ゆっくりと私の顔を引き寄せる。彼の顔が近づく。
コンマ何秒かのあいだ、なにが起きているのかわからなかった。頭の中が真っ白になった。けれど自分の中のどこかの部分が言った。
“違う。これは違う。アゼルじゃない”
ショートジーンズのポケットの中で、携帯電話が鳴った。
唇が触れるまであと三センチほどというところで、彼の手が止まる。
ものすごく長く感じたけれど、ほんの数秒の出来事だった。そして私の携帯電話が鳴りはじめてからたっぷり五秒は、お互いにかたまっていた。
マルコは手を離した。「とれよ。デボラかも」
「はい」なんだったのだろう、今の。
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ポケットから携帯電話を出して画面を確認した。ナイルからだ。通話ボタン押す。マルコはジーンズのポケットから煙草を取り出して火をつけた。
「今平気?」とナイルの声。
「うん、少しなら」
「そんな長話するつもりはないよ。で、まだルキと仲なおりしてないって?」
先週の土曜、ナイルの誕生日プレゼントを買いに行くため、ルキアノスとアドニスとゼイン、四人で待ち合わせた。十四時までに連絡を入れるはずだったのに、偶然会ったディックとのセッションに夢中で、連絡を入れるのをすっかり忘れていた。ルキアノスが不機嫌になった。プレゼントを買い終わっても彼の機嫌がなおらなかったので、微妙な状態のまま、私はナイルにプレゼントを渡すのに立ち会うことなく、祖母の家へと帰った。
あのあとルキアノスも帰ったらしく、プレゼントはゼインとアドニスの手からナイルへと渡った。ナイルからは、季節先取りしすぎなうえにいいかげんマフラーから離れろって言いたいところだけどわりと気に入った、とメールが届いた。
アドニスいわく、私はあやまったし、ルキアノスはああなったらしばらくあのままだから、とりあえず放っておけとのこと。だから私は連絡をしていないし、彼からも連絡はない。
私はナイルに質問を返した。「喧嘩なの? これ」
「喧嘩だろ? 約束破って? ルキの機嫌が悪くなったわけだから」
「アドニスが、放っとけって」
「それも正解ではある。ルキの場合、男にならわりとすぐ文句言うけど、女に対しだと、キレてもなかなか言わないからな。わりとめんどくさい」
「じゃあなに? 連絡入れろって電話なの? これ」
「いや、どうしてんのかなと思って。っていっても、お前はどうせ気にしてないんだろうけどとも思ってたり」
「どこまでを気にしてるって言うのかがわかんない。放っておくしかないとは思ってるけど、どうでもいいことはない。でもあやまっても聞いてくれないんだもん」
「だろうな。頑固だし、わりと自己中だし」
お前が言うな。「けっきょくどっちがいいの? 電話したら機嫌がなおるってことでもないよね」
「出るかどうかもわかんないしな。あの妙にやさしい性格が手伝って、自分の中で完全に不満が消えるまで、電話には一切出ないって可能性もある」
「ねえ。これ、なんの電話?」
「だから、べつに意味はないよ。電話やメールしろってことでもないし。暇だったからどうしてんのかなと思って電話してみただけ。ちなみにアドニスいわく、ルキは学校でもわりと不機嫌らしいけど」
なにが言いたいのだろう。「あんたはルキの味方だよね」
「え、なんで? どっちにつくつもりもないけど、ルキがわりとしつこいとは思ってるよ」
「え、だって、約束破って待ち合わせに遅れたわけだから。気に入らないんじゃなかったっけ、そういうの」
「それはつきあう女の話。しかもはっきりと待ち合わせしてたわけじゃないんだろ? お前はあやまったし、いつもルーズってわけじゃないじゃん。どっちかっていうとゼインのほうが時間にルーズだし。初犯なら許す」
犯罪扱いなのか。「昼の二時までには連絡入れるって言ったけど、入れなかった。買い物も済ませてなかった。時間にも電話にも気づかなくて。アドニスもゼインも許してくれたけど、ルキだけがあれ」
「うん、そう聞いてる。多数決で言えばルキは許すべき。俺でもそこは許す。初犯に数えたりもしないと思う。なにをどうしろって言うわけでもないんだよ。たださ、二人が仲なおりしてくれないと、こっちは十七歳の誕生日ってのが、当日じゃなくても、ものすごく微妙なもんになるわけで」
それはわかっている。「じゃあ明日、電話してみる。チーズケーキ食べなきゃいけないし」
「ルキの家でな」と彼。
「そこまでは言わないけど。ごめんね、ケーキ奢ってあげらんなくて」
「代わりにホールケーキでいいよ」
予想外の答えに思わず笑った。「わかった。チーズケーキはホールにして、あといろんな種類、適当に買う。ルキと仲なおりできたら、ルキの家。だめだったら、どこかで食べる。今週末くらい」
「了解。あんま期待しないで、とりあえずゼインとアドニスには言っとく。じゃな」
「うん」
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電話を切った私にマルコが言う。
「なんだお前。キレられてんのか」
「そう」
「お前の周り、マジで男ばっか」
「女もいるわよ。っていうか帰らないの?」
「エデのとこ行くか」
「行かねえよアホ」
「今何時?」
そう訊かれ、携帯電話で時間を確認した。「九時前」
「帰るしかねえか。あんま遅くなったら、ケイを連れまわせなくなるし」
「連れまわす気かよ」
「当然お前も道連れだぞ」コンクリート塀で短くなった煙草を潰し消す。「三人でドライブ」
「そんなの二人で行ってよ」
「気にすんな」立ち上がり、両手をポケットに入れて微笑む。「日付が変わるまでには帰してやる」
なんだお前。
何度も帰ると言ったけれど、そんなセリフが通用するわけはなかった。ウェスト・キャッスルに戻っても祖母の家がある通りを無視されたのでしかたなく、帰りがわりと遅くなるかもしれないけど先に寝ていてください、けど鍵を持っていないのでできれば開けておいてくださいと祖母にメールを送った。返事は“わかったわ、気をつけてね”、だった。先に寝ていてと言っても、祖母は起きて待っていてくれるだろう。
マルコはドライブに行くとケイを電話で呼び出し、今私を拾ってきたばかりだと嘘をついた。私は後部座席にうつり、ケイが右折だの直進だの左折だのと指示をするという謎のドライブがはじまった。
けっきょく、家に帰ったのは夜の十一時半に近い時刻だった。




