* Pretty In Pink
レンタルスタジオと書かれたその看板に、私は唖然としていた。
「ついでに言えば」腕を組み、ディックは口元をゆるめた。「俺の店が入るのもここだ。ここの地下一階。あそこに」ななめ右後方を見やる。「白くて小さい建物があるだろ」
彼の視線を追った。確かにある。キーズ・ビルと、二軒隣の四階建てのグルメット・バーガー・キッチンなどという、美食家気取りのための高級バーガーショップが店を構えるビルとのあいだに、半円アーチ状になった扉と四角い窓のついた白い平屋が。
「あそこから地下に入れるんだ」こちらへと視線を戻しながらディックは続ける。「地下一階が店のメインフロア。地下二階が事務所だったり会議室だったり、スタッフ用の控え室になる。あと、ちょっとしたスタジオも。もともと地下一階はライブハウスだった。けど昔、センター街のエリア整理が行われて店を閉めた。防音設備も基本的に整ってるから、ちょっと手を加えるだけでぜんぜん使える。もうそういう細かい工事は終わった。あとは内装」
「ほんとにここ?」
頭がついていかない。ファイブ・クラウドだとは聞いていたが、まさかいつも通っている道りにあるとは思わなかった。
彼は笑った。「だからそうだって。楽器屋と貸しスタジオは、このキーズ・ビルのオーナー一家が経営しててな。オーナーたちにももう話をつけてある。地下二階のスタジオがいっぱいの時は、この貸しスタジオを借りれるように。まあ、当然金は取られるが」
なんだろう。なんだか、すごい。「今、やっとその話が、すごく現実的に聞こえた気がする」
少々失礼な気がするそんなセリフにも、彼は怒らず笑って同意した。
「わかるわかる。俺もそんな感じだった。なにからはじめればいいのかわからん状態から、サイラスのアドバイスをもらいながらあれこれ進めていって、だんだん現実味が増してきた。この半年はあっという間だったよ」またキーズ・ビルへと視線をうつす。「あと半年で、やっとそれが完全な現実になる」
あからさまではないものの、嬉しそうに地下への扉を眺めながら言われた彼の言葉を聞いた瞬間──なんと言えばいいのだろう。自分の足が、しっかりと地に着いた気がした。
これが現実。ディックにとって、これが現実。“音楽をとおしての若者だけの新しい出会いの場を作りたい”という夢が、あともう少しで叶えられそうなのだ。
“やってみろ、ベラ”
はじめてディックに会った時、彼がこの夢の話をしてくれて、私を誘ってくれ、答えを渋る私に、サイラスがそう言った。
“二年のあいだに、お前がどう変わるかわからん。今ここで断るのはもったいないだろ。やったことがなきゃわからんだろうが、生演奏ってのは、カラオケとはまた違うぞ。それ以上の快感がある”
音楽の、生演奏でうたうという、快感。カラオケとは違う、それ以上の快感。
こちらに視線を戻したディックが再び訊ねる。
「で、どうする? 飯は奢ってやる。そのあと貸しスタジオでお前がうたう。拒否するなら、俺はダチのところに行って飯を食う。お前はひとりで買い物してひとりで飯だ」
瞬間、このヒトはわりと横暴だという、わけのわからない現実に引き戻された気がした。相当強引だ。
「貸しスタジオって、なに? 生演奏?」
「知ってる曲ならギターは弾ける。それに合わせればいい」
ギター。そういえば昔、父親が弾くギターに合わせてうたったり踊ったりしていたっけ。
父親が家を出た時、私は音楽を突き放した。突き放した音楽を、私はまた手元に置いた。そして今度は、別のカタチで音楽を体感しようとしている。了承してしまえば今度は、父親に近づこうとしていることになるかもしれない。
「わかった」頭ではわかっているのに、口が勝手に答えていた。「行く」
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カフェでランチをとりながら、ディックは店の設計図の縮小コピーを見せてくれた。
基本的には、壁も床もダークブラウンの板張りにする。廊下の左側にレストルームをふたつ置いて、右側は厨房。
メインフロアに入り、右手が厨房と繋がったバーカウンターで、正面奥がステージ。ある程度の機材はそこに常備しておく。で、あとはスペースが許す限りテーブルとチェアを置く。だけどそれは料理を食べる人間専用で、おそらく立ち見もあるだろうという話。そのために、一部の壁際にちょっとしたカウンターテーブルを設置する。バーカウンターとは言っても酒は置かない。既製品はもちろん、オリジナルのドリンクを作るのだとか。
地下二階はスタッフ専用。廊下左手にレストルームがふたつ、右側はロッカールーム。さらに奥へと進んで、会議室がふたつと控え室兼事務所。廊下をはさんだ反対側は、練習スタジオがみっつ並ぶ。
話を聞きながら、私の中でさらに現実感が増した。
彼が今日打ち合わせだと言っているのは、その内装の話だった。地下一階の内装はほとんど決まっているけれど、地下二階は悩んでいるらしい。
色を二色選ぶとしたら何色にするかと訊かれ、単色で真っ黒か真っ赤だと答えた。却下された。なら赤と白だと答えると、会議室のひとつにそれを採用すると言いだした。そうなるともうひとつは白黒だな、と。意味がわからない。
会議室はなにに使うのかと訊いたら、よくわからんと言われた。作詞だったりただの井戸端会議室だったり、昼間に店に来た時のランチスペースになるんじゃないか、とかいう話だ。わりと適当らしい。
サイラスに聞いたけどと、彼は文化祭のPV作りのことを訊いてきた。私は正直に話した。彼も興味を持って、サイラスのところに持っていく時は呼べとかで、電話番号とメールアドレスを教えてもらった。こちらも教えた。ついでにPVで使う“Pretty In Pink”ならギターで弾けるからと、それで歌をうたうことにした。カフェを出てキーズ・ビルへと向かう。
キーズ・ビル。
貸しスタジオもレコーディングスタジオも、入り口は一階の楽器店内にある。その楽器店には──違いがさっぱりなのだが──ギターだったりベースだったり、ドラムにキーボード、バイオリンだのウクレレだのと、スペースが許す限り、とにかくたくさんの楽器が並んでいた。もちろん店頭に並ぶのはほんの一部で、カタログから取り寄せたりすることもできるし、一部のものなら修理もできるという。
螺旋階段から二階へとあがると、貸しスタジオとレコーディングスタジオのフロントが現れた。部屋によって広さや置いている機材が微妙に違うこともあるらしく、バンド練習やピアノ練習はもちろん、部屋の三方の壁が鏡になったダンススタジオまであるという。ディックは適当な部屋を選んでギターを借りた。エレベーターで三階へと向かう。
スタジオという場所に入るのは、これがはじめてだった。木が張りめぐらされた、オレンジ色の照明がいくつかついている少し低めの天井。壁も引き戸を意識したようなデザインの板張りで、床は褪せ擦れた黒いフローリング。わけのわからない、黒くて大きな機材が何台も置かれ、スタンドつきマイクとドラムがあって、天井に近い壁にはいくつかのスピーカーかとエアコンがひとつ、ついていた。あと、時計。
ディックは借りたギターと設置されていた機材とをコードで繋ぎ、操作を間違えば爆発しそうな、ボタンだのなんだのがたくさんついた怪しい機械でなにかを調節しはじめた。機材からギターの音が出た。黒い物体は無駄に大きなスピーカーだった。しかもマイクを渡された。拒否したが、それほど大きな声にならないから平気だ、と。意味がわからない。
「歌詞は覚えてるんだな?」ドラムに背を向け、ギターを抱えたまま床に腰をおろしたディックが訊いた。
「余裕です」と、私。七月からどれだけ聴いたと思っているのだ。それでなくても歌詞は覚えていたが。
「よし」と言った彼は前奏部分を弾きはじめ、“このタイミングで入れ”と教えた。了承すると、「腹から声を出せ」とつけたされた。努力すると答えた。
彼はギターを弾きはじめた。
本当に、不思議な感覚だ。未知の世界に足を踏み入れた感じがする。
ギターは昔、すぐそばにあったけれど、長いあいだそんな時間はなかったし、私は弾きかただって知らない。覚えたいとも思わない。そこに興味はない。
けれど彼の弾くギターの音色が妙に懐かしく、スタジオ内はとても居心地がよかった。
私はマイクのスイッチを入れて、“Pretty In Pink”をうたった。
群れから三歩うしろ あなたはそこにいる
黒い髪が笑顔を隠す
大きな眼鏡のむこうになにを見ているのかしら
意地悪な彼女に パーティーに誘われた
だけど招待状を捨ててしまったあなた
彼女が今夜彼を手に入れようとしてること 知っているのね
髪をセットして メイクをして
あなたのためにドレスを選んであげる
前を見て 自信を持って
さあ あなたのためのパーティーをはじめましょう
あなたはピンクがとても似合う
それこそがあなたの最高の魅力
他の誰よりも純粋
そしてそれはあなただけの色
会場の隅でうつむくあなた
だけど彼を気にしてる
彼はあなたを知らないし 彼女は気にも留めない
覚悟を決めて すべてが変わるから
今夜の主役はあなたなのよ
ライトがあなたを照らし 彼は気づくの
あなたこそが 誰よりも輝いていることに
あなたはピンクがとても似合う
それこそがあなたの最高の魅力
他の誰よりも純粋
そしてそれはあなただけの色
そして次の瞬間
彼は彼女の元を離れ あなたの名前を呼ぶの




