* Epilogue 1/2 Shutdown
二日後、日曜日の午後三時すぎ。
私は、自分が住むことになった1LDKアパートメントの一室のリビングに、ひとりで立っていた。
正直、この二日間のあいだになにがあったのか、自分がなにをしたのか、どう過ごしていたのか、よく覚えていない。
昨日祖母の葬儀を密葬で終え、新しい携帯電話をもらった。なぜか赤。そのうち古い携帯電話は使えなくなった。そしてとりあえずと言って、十五万フラムを現金でもらった。家具家電を買い揃えるためのお金だ。こちらも、自分の貯金をいくらかおろした。
私は、完全に抜け殻状態だったと思う。細かい疑問はすべて無視した。あらゆる思考回路をシャットダウンした。感情は、すべて捨てた。
“母親”は、今日なら、祖母の家にはこないでいてくれる。明日以降は暇があったら寄って、家の整理をすると言っていた。
なにもない部屋の白い床に座り、新しい携帯電話でディックに電話した。
「はい」
「ディック? 私。ベラ」
「ベラ? どうした。金曜からまた音沙汰がなかった。っていうかこれ、お前のか? 番号変えたのか」
「うん。っていうか、頼みがあるんだけど。今すぐ」
「今? なんだ」
「引っ越しと買い物、手伝ってほしいの」
「あ?」
「おとといなんだけど、おばあちゃんが死んだから、私、ひとり暮らしする。今もう、新しい部屋にいる。センター街の、ウェスト・オフィスタウンにあるアパートメント。今日中におばあちゃんの家から、自分の荷物を運び出さなきゃいけないの。じゃないと、明日以降は母親が来ちゃう。でもできるだけ会いたくない。それから、ベッドなんかも買わなきゃいけない。細かいのは明日以降に買い揃えるつもりだけど、とりあえず荷物は運び出さなきゃ。お願い」
「──ちょっと待て。ヒルデとヤンカと──エイブも連れて行っていいか?」
「うん、なんでもいい。幹部なら誰でもいい。それほど荷物があるわけじゃないけど」
「んじゃとりあえず迎えに行くから、今いるところの住所、言え」
私はニットカーディガンのポケットの中に入れていた紙を出して、そこにメモした住所を告げた。
「わかった。すぐ行く」
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車を降りた彼らは私の顔を見るなり、ものすごく心配そうな顔を見せてくれた。
「平気。泣いてる場合じゃないし」、と私は言った。「葬儀は昨日終わった。お墓の場所はまだ決まってないけど、そのうち連絡が入るはず」、とも。
私はディックの車に乗せてもらって、車三台でウェスト・キャッスルにある祖母の家へと向かった。
金曜、祖母の家に帰ってから、ひとり荷造りを進めていた。必要だとか不要だとか、そんな細かいことを考える時間はなかったので、とにかく服はトラッシュバッグに詰め込んで、あとは祖母が買ってくれたPCやプリンター、コンポの箱なども使って、どうにかこうにか荷物をまとめた。
アゼルの学ランを見た瞬間、泣きそうになったけれど、その感情すら無視した。まるで夜逃げ前の荷造りのようだった。
ある意味、逃げていたのだと思う。“私がいた痕跡”を、屋根裏部屋や一階のリビングに残さないよう意識していたことは間違いない。私がどんな生活をしていたかなど、“あのヒト”には知られたくなかった。なので一階のバスルームにある私物はすべて回収したし、冷蔵庫に残っていたビールも、もちろん買い置きぶんも、キッチンにあった自分専用の食器も、すべて持ってきた。
何度も行き来する必要はなかったようで、車三台に荷物がすべて乗った。再びセンター街へと戻る。
アパートメントの外観は黒で、灰色のコンクリート壁がよく似合うデザインだ。地上一階がパーキングになっていて、いらないのだけれど、私の部屋専用の駐車スペースもある。
セキュリティ機能のついた、オレンジの照明で照らされた正面玄関からエレベーターに乗り、四階へ。これが最上階。向かうは角部屋だ。というかこの四階には、私が住む四〇二号室の他に、あとひとつしか部屋がない。若い男が住んでいると言っていた。ちなみに共用部分の廊下は灰色コンクリートなものの、玄関のドアは黒になっている。どこまでもメンズデザインだ。
玄関ドアを開けて中に入ると、白いシューズボックスが置かれたエントランスが現れる。ここからは本当に、ほとんど白で統一される。
ドアを通り抜ければ正面にリビングが、右に進むと右手にキッチンが現れ、左側はダイニングスペース。さらに奥はレストルームとウォッシュルーム、それからバスルームになっている。どれも狭い。それとは反対の、右側のドアを開ければベッドルームだ。
このアパートメント、二年ほど前に新しく建てられたもので、この部屋も丁寧な暮らしをしていたらしい先住者が今月中旬に出て行き、清掃業者が入ったばかりだという。立地的にも値段的にも、とてもいい物件なのだとか。
私が賃貸情報誌で見つけたこの部屋、“母親”が知り合いの不動産屋に電話したらしく、そこからの紹介で、翌日──つまり今日、入居できることになった。
“母親”は、スペアキーを持っていない。入居者用のマスターキーとカードキーをふたつ渡されて、なにも言われなかったので、そのままだ。来週にはインターネットが使えるようにもなる。
“母親”は、時間ができしだいひとりでミュニシパル・ハイスクールに保護者として向かうつもりらしいので、うまくいけば、それ以降、また会わなくてすむ。それまでの我慢だと、私は自分に言い聞かせていた。
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荷物を部屋に運び終わると、エイブは店に戻ったものの、残った四人で買い物に行った。
必要なものは、想像していた以上にたくさんあった。洗濯機、乾燥機、冷蔵庫──ベッドやソファ、日用品。配送はあさって以降になるだのなんだのという店員を、ヤンカは全力で説得してくれた。
結果、今日は赤い冷蔵庫とソファ、ラグが即日で手に入り、洗濯機と乾燥機とベッドは明日、ということになった。ディックにカードキーを渡して、残業をするはめになった可哀想な店員たちが家具を運び入れるのに立ち会ってもらった。一方私はヤンカとヒルデと三人で、ひとまずの日用品を買い揃えに行った。
“普通”に、笑っていた。
哀しみだの怒りだの憎しみだのという感情にまみれてのたうちまわるのは、もう疲れた。
買い物を終えると、新しい部屋に戻って──主にディックとヒルデが──一応の形で家具を配置した。当然、以前祖母が買ってくれたセンターテーブルもある。そのあいだに私とヤンカは窓にシェードカーテンを設置。電動ドリルの素晴らしさと楽しさを体感した。
そのあと、ある程度片したら店に行くと言ったのだけれど、さすがにひとりにはできないと言われたので、一泊ぶんの着替えをキャリーバッグに用意して、私は彼らと一緒に店に行った。ベッドが届いていないから、今夜はディックが先月引っ越したばかりの部屋のゲストルームを使わせてくれるという。
店に行き、デトレフとマトヴェイ、パッシにも事情を説明した。これはディックの判断だった。彼らは店で取り扱う料理が祖母のだと知っているからだ。それに店がオープンすれば、ディックは帰宅が遅くなる私を、自分ができない時に誰かに送らせるつもりでいた。
特に哀しむ素振りを見せない私に、幹部たちはおそらくみんな、イカれていると思っただろう。それでも彼らは、私の“普通”に応えてくれていた。
ブラック・スターのオープン日まではもう一週間をきっていて、スタッフたちは最終段取り確認に入っていた。バンド連中は曲を覚えるのに必至な様子だ。
だがそれも当然だった。ライブハウスのイベントでうたうのとは違って、ここでは頻繁にうたうことになる。もちろんBGMを流すだけの時間はあるし、手持ち曲が少なくて同じ曲ばかりをうたうことになるのも、それほど問題にはならない。なによりシンガーが楽しまなければというのがディックの信条だ。曲作りのスランプに陥って楽しめなくて、などという状態にはなってほしくない。
けれどもそんなことは私には関係なく、ほとんど私物化している赤白会議室で、また詞を書いていた。祖母のことなど関係なくて、憎しみなど微塵もなくて、ただ切ない物語を作りたいというだけの気持ちで書きはじめた詞だった。長すぎるとは思ったがそれがいい意味で、新しいジャンルに踏み込める気がした。
パッシが夕食を持ってきてくれた。ヤンカと厨房チーフ、厨房スタッフたちが、祖母のレシピから作ってくれた料理だ。数日前から、バンドマンたちからしっかりと料金を徴収しつつ、彼女たちが料理を振る舞っている。これは予行演習だけでなく、効率のいい作業法や使い勝手のいい調理器具の配置を見つけ出すためでもある。そしてそれは、当然のように祖母の味だった。それでも私は、泣いたりしなかった。
新しく書いた詞を見せると、パッシは予想どおりの疑問をぶつけてくれた。わかんないならいいよと言うと怒った。しかたがないので丁寧に説明してあげると、微妙な感じで納得した。
彼がギターとICレコーダーを持ってきてくれたので、メロディをつけはじめた。自分で書いておきながら、半端なく難しい。現実逃避をしようとしているせいか、覚える自信がなかった。
他の幹部メンバーが覗きにきては手伝ってもらい、けっきょく全員の意見をまじえながら、どうにかこうにか詞のメロディを完成させた。三時間以上の時間を費やした。あとはディックが仕上げてくれる。
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「ひとつ提案があるんだけど」
アシス・タスクにあるディックの新居へと向かう車の中、私は運転する彼のほうを見向きもせずに切りだした。
「店のことか? ひとつって今さらだな。散々あれこれ口出してるくせに」
「じゃあ言わない」
「なんだ」
「メインフロアの手前の廊下、あるじゃん」けっきょく言う私。「あそこにさ、フレーム飾るの。んで、スタッフや客たちの写真を撮って飾る。ちょっと引き伸ばして大きめに印刷して」
「毎日やってたらキリなくないか?」
「毎日じゃないよ。最高に盛り上がってるなーって感じた時とか、なんかの記念日とか、そういう時。カメラはドリンクカウンターにでも隠しといて、幹部やスタッフが撮りたいなーって思った時に撮るの。しかもそこからさらに厳選する。ベストショットだけを選んで、なんなら日付も記入して飾る」
「ああ、なるほど。歴史の記録か。中身はたまに変えりゃいいんだな、フレームの大きさも変えて」
「そう」
「で、カメラを買えと」
私は口元をゆるめた。「んーん。カメラはあげる。もう使わないし」
「それくらい買う金あるわ」
「いいよ。いらないもん。あ、あともうひとつ」
「今度はなんだ」
「ちょっと面倒なこと、だけど──その日にうたう予定の曲の歌詞を印刷して、ラミネート加工するでしょ、フードやドリンクのメニューでやったみたいに。それを各テーブルに置いておくってどうよ」
車は左に曲がった。
「半端なくめんどくさいな」と、ディック。
「ヤならいいけど」
「まあ、いきなりじゃわからん歌もあるしな。滑舌悪い奴もいるしな。ならお前、ラミネートやれよ」
「メニューの、散々やらせといて今さらなに言ってんすか」
「どうせ暇人」
「そーね」
「あ、オープンの日。やっぱお前、いちばんな」
私はやっとディックのほうを向いた。
「は?」
彼は運転中なので前を見ている。「“Black Star”をうたう。そのまま“Acting Out”にいって、“Brick By Boring Brick”。歌詞をラミネートして置くなら、その説明は“Black Star”のまえにする」
反論した。「話が違うじゃん。ずっとサヴァランでいこうって言ってたじゃん。目立ちたくないっつったじゃん。私はまみれてたいのよ」
「残念だな。こっちがお前をまみれさせる気がないんだ。それにノリと効率を考えりゃ、これがいちばんなんだよ。とりあえずオープン初日だけだ。この件に関しては、お前の意見は全面的に却下する」
なんだこの横暴男。




