○ June Memories
少し笑うようになってからは、ほんの少しだけ、一日が短く感じられるようになった気がする。
春休みは、すべてが止まっているようだった。
景色はすべてモノクロで、なにも動いていないようだった。目に入るカラーは赤だけ──といっても、家の外に出ていなかったわけで、それもしかたがないが。
学校がはじまっても、一日が長くてしかたがなかった。夢の中でみる楽しかった思い出に、倒されないよう立っているので精一杯だった。なにもかもがどうでもいいと思うことで自分を支えている状態──それが私の精神力だった。
細すぎる線で繋がれてどうにか立っているだけだった状態からやっと、自分の力で立てるようになった気がする。あとは進むだけだ。
うまく進めるかどうかは、また別の話なのだけれど。
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六月。
とはいっても、アゼルのことを考えない日はない。六月といえば二年前、アゼルとはじめてキスをした──正確にはされた──ことを、思い出す。
雨季の、雨上がりのあの公園。あれがすべてのはじまりだった。
違う、そうではない。
はじまりは五月で、リーズたちが開いてくれた、私の二日遅れの誕生日パーティーの時。あのケーキ、アゼルが半分よこした、あのイチゴがはじまりだった。
そんなことを考えていると、やはりまだ好きなのかとも思う。
というか、寂しい。友達は周りにいるけれど、隣にいるわけではない。私の隣にはアゼル。それが私の“普通”だった。
憎んでいる反面、寂しくて恋しくて、時間が巻き戻ればいいのにと思ってしまう。クローゼットを開けるたび、彼の、ボタンがぜんぶなくなった学ランをじっと見つめて、彼のことをこれでもかというほど思い出したい自分がいる。肩に羽織って、彼に包まれているように感じたい自分がいる。
けれどもそれでは前に進むことにはならないと、自分に言い聞かせる。そして憎まれ口を一言、二言思い浮かべる。あんたのせいだとか、最低最悪の喧嘩バカだとか、そんな陳腐な言葉を。
学ランや、その胸ポケットにしまってある、最初で最後のメモやフォールディングナイフ、かつて彼が住んでいたマブの鍵と、そこにあった彼の部屋の鍵──それらを捨てないのは、期待させるためだと思いなおす。
待たないと決めたのに待っている自分に気づいて、あほらしくなって、自分の服を押しやって学ランを隠す。いつかあいつの目の前で、学ランもあいつの心も、ぜんぶズタズタに引き裂いてやるのだと思いなおす。
でも不思議と、それもあまり苦痛ではなくなっていた。アゼルが消えた現実を、やっと受け入れつつあるのだ。やっと諦めたのだと思う。リーズたちのことを思えば、やっぱり寂しくもなるけれど、その責任もぜんぶ、アゼルに押しつけてしまえばラクだった。
すべてが終わったことで、今さらどうしようもないとわかっている。きっとリーズたちと友達なことに変わりはなくて、三年後に戻ってくるはずの彼女たちのことを、私はただ、ここで待つだけだ。
アゼルのことは、待たないけれど。
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そんなことはともかく、スニヤに奇跡が起きた。A組の女子とつきあいはじめたのだ。なんでも球技大会の日に私とキスしたことがちょっとした噂になっていて、彼女にそれは本当かと訊かれ、本当だと答えつつ妬いているのかと訊き返したところ、妬いてると言われたらしい。で、そのままつきあうことになったと。あんなのでいいのかと女のほうに訊きたい気はしたものの、私は彼女とほとんど話をしたことがないし、どうでもいいのでやめた。スニヤは私とキスしたおかげだとか、わけのわからないことをほざいていた。
そして、毎年恒例の雨季が訪れた。
二時限目の休憩時間、カルメーラがつぶやく。
「今年は花火、無理かな」
アニタといいお前といい、なんでそんなに先走った考えが好きなんだ。というのが私の率直な感想だった。「今、六月。雨季。花火の話する時期じゃない」
ダヴィデが笑う。
「ヤーゴとアウニが別れたもんな。あのメンバーじゃ無理かも」
「花火したの?」サビナが訊いた。「去年?」
カルメーラが答える。「うん、言ってなかったっけ? 夏休みにね、ベラたちの誘いで、ダヴィもトルベンも、イヴァンとゲルトとセテ、カルロ。あとヤーゴ、アニタとペトラとアウニ──ナンネとジョンアかな。かなり多い人数で」
彼女は苦笑った。「すごい多い」
「十四人だよ」ダヴィデが補足した。「夏休み前にベラから事前告知はあったんだけど、いつ誘われるかわかんない状態。俺とイヴァンたち、元二Dの五人は八月からいつでも出動できる用意してて、誘われた日にイヴァンの家に泊まりに行って。トルベンとヤーゴは、なんの予告もなくいきなり」
「ありえねえだろ」トルベンが不機嫌そうに言う。「知らねえ番号からいきなり電話かかってきて、誰かと思ったらこいつだよ。花火するから一時間後に来いとか言いやがる。ふざけてる」
「はいはいごめんなさいね」と、私。
「けどそれでみんなが集まるってのがすごい」
「やだっつったら怒るんだもん、絶対」ダヴィデがサビナに言う。「べつにヤじゃないからいいんだけどさ」
「けど今年は受験あるしな」とトルベン。「夏の大会終わりゃ、部活は引退だけど。本腰入れて勉強しないきゃいけねえし、遊んでる時間はないような」
「だよな。うちは親が許すかがまず微妙」
「勉強会とか言えばいいんじゃね」私は適当なことを言った。「泊まりで勉強会してきます。いってらっしゃい。実は花火で遊んでました! 勉強は翌日に! みたいな」
「それでもいいけど、トルベンとヤーゴも一緒に泊まったとして、真面目に勉強しようとすんの、たぶん俺とトルベンとイヴァンくらいだぞ。もしかしたらゲルトもだけど、セテたちは絶対遊ぶ」
「だよね」
「でも息抜きは必要な気がする」カルメーラが言った。「毎日勉強するわけじゃないでしょ?」
「そうだけど、むしろ昼間は暑くて勉強する気になんなくて、夜のほうが貴重な気がする」
トルベンがダヴィデに言う。「それはエアコンつけるんだからどっちでも変わんねえだろ」
「まーな。けど昼間って、どうも勉強する気になんない」
「友達はね」私はルキアノスのことを話した。「夏休みとかに入ったら、朝早くと夜遅くに勉強するんだって。朝五時か六時くらいに起きて、二時間くらい。で、夜十一時頃から一時くらいまで、また二時間くらい勉強」
彼は納得した。「あ、そっか。そうすりゃいいんだ。なんかわりと眠い気がするけど、昼寝すりゃいいんだし」
「気をつけないと生活おかしくなるけどね。生活が荒れに荒れてた私の春休みみたいに」
「俺はそこまでバカにならない。規則正しく生きられる人間だから」
なんだか気に障る言いかただ。
「わかった」私はカルメーラに向かって口元をゆるめた。「夏休み、花火しよ。去年と同じで二回。アウニとヤーゴはわかんないけど、それ以外は去年と同じメンバーで。これは強制してやる。目的はただひとつ。ダヴィの勉強を邪魔するためだけに」
「なんでだよ!?」
そんな彼の反応に、カルメーラは苦笑いながらも口元をゆるめた。
「したい。けど」不安げな表情に変わる。「アウニとヤーゴ、どっちが優先かな」
「さあ。そこはあんたに任せるよ」正直、どちらもいらない。「ただまあ、ヤーゴはアウニ関係なく来るとは思う。アウニは気まずいからって拒否するかな。わかんない。どっちも呼ばないのがラクではあるけどね」
「呼ばなかったら呼ばなかったで、あのアホはうるさい気がする」トルベンがつぶやいた。私の強制を拒否しても意味はないと、彼は知ってるらしい。
「言わなきゃバレないよ。バレてもべつにいいじゃん。拒否してるわけじゃないんだし。まだ夏休みまで二ヶ月くらいあるんだから、様子見しなきゃわかんないし」
「ま、そっか」私の言葉にそう答えると、カルメーラはサビナを誘った。「来れたら、サビナも来ればいいよ。彼氏がいいならだけど」
彼女が口元をゆるめる。「うん。行けたら行く」
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放課後。
カルメーラと、教室に来たアニタとペトラの四人で、話がはじまった。なぜか恋愛の話だった。ペトラがヒンツと別れたらしいのだ。どちらも忙しくてあまり会えないからとかなんとかで、自分から言ったらしい。なのでそれほど傷ついてはいない。
「彼氏なんかもういらね」と、アニタ。
ペトラは冷たい表情でそっぽを向いた。
「いきなりアドニスとつきあった奴がよく言うよ」
アニタは怒った。「それ言うなよ!」
「ついでに私もいらね」と、私も言ってみた。
「ベラの場合は」カルメーラが言う。「その気になれば、誰とでもつきあえるよね。ただベラがその気にならないだけで」
「その気にならないのは確かだけど、誰とでもってのはないでしょ」
今度はアニタが冷たい表情でそっぽ向く。
「こいつのこの鈍さがたまに、マジでムカつく」
私はイラついた。「お前マジ黙れ。調子に乗りすぎる女よりマシなんだよボケ」
彼女が怒り任せに声をあげた。「はあ!?」
「確かに調子に乗ったわけだよね」ペトラが言った。「調子に乗ってだっさい思いして、あげくベラに謹慎くらわせたっていう」
「あんたどっちの味方よ!?」
「あればっかりはベラだわ。あたしがベラと同じ立場だったら、たぶんもう立ちなおれない」
「でしょ?」なぜか煽る私。「あげくアドニスとつきあいはじめたとかだよ。もうわけわかんない」
「あたしもだよ」彼女は悩ましげな様子で首を横に振った。「傷心なのはわかるけど、逆ギレとか八つ当たりもまあわかるんだけど、あれがいちばんわけわかんなかった」
アニタが反論する。「もう言わないでよ! さすがにおかしいことに気づいてもう別れたんだから、いいじゃん!」
まあ、確かにどうでもいい。「でももったいなかった気がする。つきあう相手としてはどうか知らないけど、友達としてはアドニス、いい奴だもん。まあ根がクロいってのはあるけど」
「それは」彼女は肩を落とした。「つきあってても、楽しかったよ。男版ベラみたいな感じ。や、そこまでじゃないか。でもクロさはそんな感じだった。それがすごい居心地よかった。ベラが友達やめなかった理由、わかったもん。だからよけい、ぐちゃぐちゃにしちゃダメなんだって思った。ベラがあたしの恋愛とか友達関係に首突っ込んでこないんだから、あたしも入り込むべきじゃないんだよ。ずっとそうやってきたのに、ヤケになって、それ崩しちゃったんだもん」
「そこはべつに気にしてないよ。始業式の時? に、言ったじゃん。私は別枠でいくって決めてた。自分とアドニスとルキとでひとつのグループ。偶然会ってってことならともかく、それ以外は関与しない。あんたがアドニスとつきあったとしても、それは別問題として考えてるから、気にもしなかったもん」
ペトラが口をはさむ。「けどさ、たとえば、ゲルトとかセテとかが、誰かとつきあいだしたらどうすんの? やっぱやりにくくない?」
私には意味がわからなかった。「なにが?」
「だからさ、たとえば明日、同期の誰かがゲルトに告って、つきあうとするじゃん。したらあんた、ゲルトといづらくなんない?」
さらに意味がわからない。「っていうかゲルト、別クラスだし。私はゲルトが誰と恋愛しようが、そこにだって関与しませんけど?」
「いや、言いかたがおかしかった。嫉妬される可能性、あるじゃん? 女のほうに。ゲルトがイヤな思いするんじゃないかって思ったら、一緒にいづらくないんかなって」
なにを言っているのだろう。
カルメーラが割って入る。「たとえば、AとYの時みたいな感じ? Yがゲルトで、Aの嫉妬がすごかったら、みたいな」アウニとヤーゴのことらしい。
ペトラがうなずく。「それそれ」
私はようやく、なんとなくの意味を理解した。「そんなの気にしない。そこはゲルトに任せるよ。邪魔すんなって言われたらしないもん。なにもゲルトを独占したいわけじゃないのでね」
「でも実際」アニタが言う。「ベラがいるからゲルトに彼女ができないっての、ある気がする。セテもだけど、客観的に見たら二人とも最近、普通にかっこよくなってきたもん」
私はぽかんとした。
「あ、それはわかる」カルメーラが言った。「どっちかっていうと可愛いかなって感じだったけど、身長伸びて顔立ちも大人っぽくなってきて、すごいかっこよくなってきたよね。高校入ったらモテるよ、絶対」
「あたしも思う」ペトラが同意した。「タイプじゃないけど」
よくわからない。「まじで? 世間一般的にはあれがかっこいいの?」
そう言うと、彼女は呆れた表情を返した。「あんたのその感覚、マジでどうにかなんないのか」
「無理無理」アニタがぶっきらぼうに言う。「二年つきあったアゼルのことですら、かっこいいと思ってないもん」
遠慮しないのはいいとして、名前は出すなよ。「さっぱり。ルキの顔がかっこいいってのもわかんない。あ、美形だっけか。私はとりあえず、猿とかゴリラみたいなのが苦手なんだってのを自覚してる程度」ハヌルを連想するので。
ペトラは天を仰いで笑った。
「猿とゴリラ! それは確かにイヤ!」