箱
「観念。観念はいるかい」
大きな寺に、和尚の声が響き渡る。
「は。観念はここでございます」
程なくして、小坊主が和尚の前に跪く。今日もなにか妙なことを言われるのだろう。観念と呼ばれた小坊主は、自分のお師匠でもあり、育ての親でもあるこの男のことを、まだ幼い身ながらも熟知していた。
「ここに箱がある。これをお前にあげよう」
和尚は観念の前に、なんの変哲もない箱を置く。
「はぁ、これはありがたき幸せ。見たところ、ただの箱のようでございますが」
「ただの箱さ。なんの変哲もない、ただの箱。さて、お前はこれを何で満たす?」
この優男で頭の良い和尚は、事あるごとに、観念に妙な謎解きをふっかける。
「なるほど。でしたら、私はこの箱には何も入れません」
「それは何故?」
「色即是空、空即是色。この箱には、今は何も入っておらず、然れどもすでに、いろいろなもので満たされております」
今の観念に答えられる、仏教徒としての模範解答だろう。それを聞いた和尚は顎を撫でながらにやにやしている。
「でも、何も入っているようには見えないよ?」
「入っているのでございます」
「『うまいこと答えたった』という、観念の虚栄心が入っているのかな?」
「そんなものはございません」
「またまたぁ」
観念の頭に青筋が浮き出る。このように、観念はその真面目な性格ゆえ、この和尚にいつもおちょくられている。
「では、和尚様はこの箱に、何を入れるというのですか」
「そうだねぇ。ちょっと細工をして、喜捨箱にしようか。うちのお寺、大きいけど素寒貧だし」
「そんな世俗的なこと、許されるのですか」
「許されるも何も、お金がないとお寺の修繕もできないし、ご飯も食べられないよ。やだよ私は。つぶれっちゃったお寺で、真っ先に餓死したお前の肉を食うのは」
「なぜ私が真っ先に死ぬのです」
「そりゃあ、私はへそくりがあるし、大人なだけ生きる術を少しは知っているし」
ああ言えばこう言う。さすがに観念も少し感情的になってしまう。
「このお話はなんなんですか。箱の話から、最終的に私が死ぬことになっているし。いったい何が言いたいのですか」
「それは自分で考えてみなさい。とはいえ、急に突き放すのも酷というものだ」
今まで不真面目ににやにやしていた和尚の顔がきりりと締まり、観念の眼をまっすぐ見る。観念もそれに気圧され、居住まいを正す。
「確かに、色即是空、空即是色。これは仏教の教えだ。だけどね観念。その箱は、なにかを『収める』ために作られたものだ。なにかを大事に守るという、存在意義を与えられたもの」
観念は聞き入る。
「それを人間の都合で、何も入れずに終わらせてしまっては、箱として役に立っていないとも言える。それは、俗っぽい言い方だが、可哀想じゃないか」
「なるほど」
「例えばお前が、必死に頑張って寺子屋の先生として立場を確立したのに、お前の別の才能を見出した人々によって、着物や刀や家名を勝手に買われ、むりやり侍にされたら、どう思う?」
確かにそれは、納得が出来ない。自分の存在、自分の成し遂げてきたもの。それを否定されているといっても、過言ではない。
「ちなみに私は、周りがお膳立てしてくれて、お金も出してくれて、むりやり侍にしてきたら、全力でそれに乗っかって楽な暮らしがしたい」
「少し黙ってください」
和尚は、肩をすぼめる。
「つまり和尚様は、仏教の教えも大事だけど、存在意義という世俗的な考えも忘れてはならないと。教えにとらわれることなく、与えられた役割をしっかりやることの大事さも、ちゃんと学びなさいと言いたいのですね」
「いや別に。面白いからそれっぽいことを言ってみただけ。感動しちゃったかい」
ついにブチギレる観念。
「ええいもう。この箱はお返しいたしますから、ご自分の屁理屈やちゃらんぽらんな性格でも押し込んでしまっておいてください」
それから数日後。
「和尚様。あの箱はどうしたんです」
「捨てちゃったよ。自分の考えが詰まってる箱なんて末恐ろしい」




