天沢敏雄の場合(二)
「非常階段で行こう」
声と共に、無敵さんが青白い光に照らし出される。
スマートフォンの画面を開いたらしい。
僕も同じようにして、光を前方に向ける。
エレベーターホールのそばには、非常階段がある。
無敵さんは階段を照らし、数を数えた。
「十段上って踊り場だから、踊り場からも十段あるはず。猫屋敷君」
「わかった。無敵さん、充電は何パーセント?」
「七十パーセント」
「僕のは七五パーセント。こっちをつけておくから」
暗がりで、無敵さんがうなずくのが感じられた。
僕は彼女の脇をすりぬけ、非常階段を上り始める。
一、二、三……十段上ったところで、そっと足を前に摺り出す。
段差はない。踊り場だ。
手すりの位置を探り、また、次の一段を上り始める。
無敵さんは僕のシャツをつかんでついてきていた。
彼女が足を踏み外さないように、僕は慎重に上っていく。
また、階段が途切れた。
「ここが二階だね」
そのとき、頭上で緑色の光が点いた。
非常灯だ。
個人の館には珍しく、ちゃんとドアから逃げる人の絵も書いてある。公共の施設でよくみるピクトグラムそのものだ。
「現場は三階」
無敵さんが僕の肩を叩いた。
僕は非常灯を背に、階段を上る。
十段上って、また踊り場があった。
そしてまた十段。
「三階だ」
三階には、非常灯がなかった。
真っ暗だ。
僕はスマートフォンの明かりで辺りを照らす。
と、目の前に、人影があった。
そいつも明かりをこちらに向けている。
「誰だ!」
声が廊下に響いた。
「猫屋敷君。落ち着いて」
目の前のそいつの後ろから、無敵さんが姿を現した。
「え?」
「真っ暗だからガラスに映っているの。しっかりしてよ」
僕はそいつをじっと見つめた。
柔らかそうな口元も、僕の理想とはほど遠い細めの顎も、大きな瞳も、これまでさんざん女の子と勘違いされてきた僕の顔そのものだった。
「……」
僕はがっくりとうなだれる。
「猫屋敷君、メンタルをやられている場合じゃないんだけど」
「わかってるよ。……せめて、もうちょっと身長があれば」
「身長はともかく、体力と腕力は私の十倍くらいあると思う」
珍しく、無敵さんが慰めの言葉を口にする。
「ごめんね。無敵さんに気を遣わせるつもりはなかった」
「私、猫屋敷君に気を遣うほど繊細にはできていないけど」
不機嫌そうに言って、無敵さんは廊下を歩き始めた。
すぐに客室の扉が見えた。
これが、難波先輩の部屋だったところだ。
そのまま歩いて行くと、僕の部屋の扉が見えた。
天沢先輩は、たぶん、この扉の近くにいるはずだ。
僕は、明かりを向けた。
けれど、誰もいない。
「どうして?」
無敵さんも、スマートフォンの明かりを点ける。
僕ら二人がかざした明かりの先には、ただ廊下が弧を描いて続いているだけだった。
「また、消えたということ?」
無敵さんは、近くにあった扉のノブを引っ張った。
「あ、そこ僕の部屋だから。カギがかかっているんだ」
僕はポケットからカギを出そうとした。
「いえ、大丈夫」
無敵さんが、ドアノブを勢いよく引く。
扉はあっさり開いた。
部屋の中に明かりはなく、何も見えない。
「おかしいな。カギを掛けたんだけど」
「かけ忘れたとか。……天沢先輩! いますか」
「無敵さん、あの感じでは、もう死んでいると」
「静かに」
僕らが黙ると、辺りは音一つしない空間になった。
無敵さんはしばらく耳を澄ませていたようだった。
「誰もいない」
彼女は音を立てて扉を閉めた。
「どういうこと。無敵さん」
「天沢先輩が死んでいたとすれば、誰かが遺体を運んだことになるでしょ。でも、誰の気配もしなかった。だから、猫屋敷君の部屋には誰も潜んでいない。あとは、天沢先輩と、難波先輩の部屋も調べて……」
無敵さんが、そこまで言ったとき、一階から悲鳴が聞こえた。
野津田さんの声だった。
注として
ピクトグラム……ピクトグラフとも。トイレマークのように、絵でその場所の持つ意味などを知らせるもの。




