天沢敏雄の場合(一)
「うそ」
紫藤さんが、ぺたんと座り込んだ。
「本当だから」
無敵さんが、紫藤さんの腕をつかんで、引き上げた。
「私たち、何かした? ただの大学生だし、恨まれるようなことなんか」
「理由を考えるよりも、身を守る方が先。じゃ、三階に戻ろう」
「なんでよ、ムウ」
「桐ヶ谷先輩が一人でいるから」
無敵さんの表情は強張っていた。
「それって、どういうこと?」
紫藤さんが疑うように目を細めた。
「こういうときは、一人になると狙われやすいんだよ」
僕は横から口を出す。
無敵さんが微笑んだ。
「そういうこと。早く桐ヶ谷先輩の無事を確認して、みんなで一緒に一階でゲームでもしよう?」
「え? じゃあ、ムウ、まさか、桐ヶ谷先輩が襲われているとでも」
「かもね。急ごう」
無敵さんは、居間に続く扉を開けた。
そして、立ち止まった。
「危ない」
すぐ後ろを歩いていた僕は、ぎりぎりのところで足を踏ん張る。
背中に紫藤さんがぶつかった。
僕は、無敵さんに理由を問おうとして顔を上げる。
無敵さんの向こうには、桐ヶ谷先輩が立っていた。
「ねえ、お腹空いちゃったから、ケーキの残りを食べない?」
屈託のない笑顔で、桐ヶ谷先輩が言った。
いかにも、桐ヶ谷先輩らしいセリフだった。
でも、あまりにタイミングがホラーだった。
真夜中から未明になろうというころ、僕ら六人は居間に集まっていた。
最初は交代で眠ろう、と言っていたのに、見張り役を譲り合ううちに、全員で起きられるだけ起きていることになった。
けっきょく、残っていたケーキは僕らの分も含めて、天沢先輩と、桐ヶ谷先輩、野津田さんのお腹におさまった。
残り三人――無敵さんと、僕と、紫藤さん――は、カードゲームで時間を潰していた。チャンスが来ても、三人とも小さな声しか出さないから、お通夜みたいなゲームになってしまった。
実際、難波先輩があんなことになっているのだから、お通夜で正解なのだろうけれど。
僕は時折、パントリーの奥にあるという大きな冷蔵庫の方を見た。
あの中に、難波先輩の遺体があると思うと、背中が冷たく感じる。
難波先輩は、無敵さんと僕が文芸サークルを立ち上げたとき、ずいぶん年上の学生だったにも関わらず、僕らの味方をしてくれた先輩だ。
難波先輩がいたから、サークルの立ち上げに必要な人数が集まったと言ってもいい。そんなお世話になった先輩が亡くなったというのに、涙が出なかった。自分が悲しんでいるのかも、よくわからない。
恐怖だけが、僕の胸を圧迫している。
時折耳を澄ますと、冷蔵庫なのか、エアコンなのか、エレベーターなのか、モーター音が聞こえる。
現代の家は、家電を使っていればどの家でも同じようにモーター音や、蛍光灯のチリチリいう小さな音が聞こえているはずだ。この、モミの木館に限ったことじゃない。
それなのに、まるで、誰かの鼓動のような、足音のような、変な音に聞こえてきてしまう。
「つまらないな。ちょっと、部屋からゲームを取ってくる」
天沢先輩が立ち上がった。
「でも、一人になるのは危険ですよ」
僕も立ち上がる。ついていくつもりだった。
「大丈夫だ。エレベーターで行って、すぐ戻る」
「そういう油断が危ないんですよ」
「じゃあ、大きな音でもしたら助けにこればいい」
天沢先輩は面倒くさそうに僕を睨むと、エレベーターのボタンを押した。
エレベーターが三階から降りてきて、扉が開く。
「じゃあ」
軽く手を挙げると、天沢先輩はエレベーターの中に消えた。
僕は、エレベーターを見上げた。
エレベーターはそのまま三階に到着する。天沢先輩が降りるのが見えた。そして、天沢先輩の姿は見えなくなった。
バタン、という音がした。
きっと、部屋の扉を開けた音だろう。
僕は、姿を追うのを諦めて、無敵さんたちのところに戻る。
桐ヶ谷先輩と野津田さんは、ケーキのお皿を洗うために、台所に入っていった。
「……よく、こんなときに食べられるね」
紫藤さんが、ぼそりと言った。
僕も同感だった。
「二人とも、医学部だからじゃないの」
無敵さんが手元のカードに目を落としたまま言う。
「でも天沢先輩は工学部じゃない」
紫藤さんが唇をとがらせた。
「そうだよね」
気のぬけた声だった。
僕は首を傾げる。
無敵さんがこんな声を出すときは、考え事をしているか、緊張しているかのどちらかだ。頭の回転の速い彼女が、このくらいのカードゲームでそこまで集中力を必要とするとは思えないし、難波先輩のことがあったにしても、緊張している、というのは少し違う気がする。
「どうしたの、無敵さん。調子悪い?」
僕は彼女の肩に手を掛けた。
その手を、無敵さんは、そっと外して立ち上がる。
「ねえ、あれ、猫屋敷君」
無敵さんが天井の方を指さした。
そこには、三階の廊下が見えている。
ちょうど、エレベーターホールと逆の方向だ。
ガラス張りの廊下ごしに、天沢先輩が僕らを見下ろしていた。
顔色がどす黒い。
おでこをガラスに当てているらしく、前髪がピッタリと貼りついている。
明らかに、さっきまでの天沢先輩と違う。
「……!」
無敵さんが慌てた様子でエレベーターのボタンを押した。
その瞬間、カチリ、という音がして、また停電になった。




