難波渉の場合(三)
停電すると、一瞬、辺りが完全な闇に飲まれた。
そして、モーター音もない、静寂。
暗闇の中、腕の中でもぞもぞと無敵さんが動くのがわかった。
「無敵さ……」
彼女は僕の口元を手でふさぐと、しぃ、と言った。
無敵さんの指は、貧血を起こしていたせいか、とても冷たかった。
でも、その指先から、拍動が感じられるような気がした。
ドク、ドクという、一定のリズムで血が送り出される音が、聞えるような。
閉鎖空間にいるせいだろうか。
無敵さんだけではなく、僕自身や、紫藤さんの鼓動まで聞こえてきた。
三つの、リズミカルな音。
どこかで、扉を開ける音が混じった気がする。
でも、今、聞こえているのが本当の音なのか、幻聴なのか、僕にはわからなかった。
ほどなく、廊下や居間の一部に緑の光が灯った。
非常灯らしい。
無敵さんがガラスに手を伸ばす。
そして、非常灯に照らされた居間と廊下を、じっと見つめた。
「……」
彼女が僕の腕の中で、深いため息をついたときだった。
明かりが点いた。
モーター音が聞こえ、エレベーターが動き始める。
辺りが明るくなって、二階のガラス張りの廊下が見える。
チーンという音がして、エレベーターの扉が開いた。
「だめ。三階に戻ろう」
僕が外に出ようとすると、無敵さんが袖を強く引っ張った。
「でも、無敵さん、休んでたほうが」
「大丈夫。もう一度、三階に行くの。降ろして」
無敵さんが体を動かした。
僕は彼女をそっと床に降ろす。
彼女はすぐに、三階のボタンを押した。
エレベーターの扉が閉まった。
「どういうこと、ムウ」
紫藤さんが無敵さんをのぞき込む。
「何かが起こっていると思う。……逆に、何かが起こっていないとすれば、恐ろしい」
エレベーターは二階と三階の間を上がっていく。
辺りが少し暗く感じられる。
エレベーター自体はガラス張りだが、その周囲を囲む壁は暗い灰色だった。
「恐ろしいって」
紫藤さんが再び尋ねたとき、辺りがまた、明るくなった。
三階の、ガラス張りの廊下が見えていた。
チーン、という音がした。
「いつ、どういう状態で襲われるかわからない、ということ」
無敵さんはそう言い捨てると、エレベーターから出た。
難波先輩の部屋は、扉が閉められていた。
無敵さんはノックをして、返事を待つ。
三秒、四秒、五秒……。
「返事、ないね?」
紫藤さんが首をかしげた。
「ねえ、ムウ。桐ヶ谷先輩たち、まだ中にいるんだよね」
無敵さんは、じっと扉を睨んでいた。
心なしか、頬が青白く、血の気が引いているようにも見える。
彼女は、くっと顎を上げると、もう一度、ノックした。
「桐ヶ谷先輩、心葉ちゃん、開けますよ」
僕が止めるまもなく、彼女は扉を押し開けた。
そこに、桐ヶ谷先輩も野津田さんもいなかった。
「うそでしょ」
紫藤さんがのけぞり、後ろに一歩下がった。
部屋の中には、難波先輩の遺体もなかった。
僕は足をふんばり、無敵さんの様子をうかがう。
彼女は部屋に入り、床にできていた血だまりを眺めた。
それから、僕を振り返り、にこりと笑った。
「ね、これ、どういうこと?」
「どうって」
僕は言葉を切り、彼女に向かって駆けだした。
無敵さんが崩れるように倒れた。




