無敵雫冠の推理(三)
「難波先輩の事件のとき、床に溜まっていた液体は血ではなかったわけでしょ? つまり、難波先輩は血なんか流していなかった。もちろん、死んでもいない」
彼女の話を、僕は床に座り込んだまま聞いている。
「桐ヶ谷先輩は、私たちに難波先輩はもう亡くなっている、というようなことを言った。桐ヶ谷先輩は医学部だし、少なくとも利桜と猫屋敷君は信じた」
「……しーちゃんは?」
僕はゆっくり顔を上げる。
彼女が僕をのぞき込んだ。
「しっかりして、猫屋敷君」
猫屋敷君。
目を見て、そう呼びかけられて、僕はようやく正気を取り戻す。
「ああ、ごめん。それで無敵さんは信じたの?」
「一瞬は、ね。でも、難波先輩が消えたところで、疑い始めた」
そういえば、無敵さんがハンカチを血だまりにひたしたのは、二度目に難波先輩の部屋に入ったときだった。
「でも、難波先輩が死んでいないとして、一体どこへ? 前あった遺体は、死んだふりをした難波先輩だったっていうこと?」
「たぶんね。でも、ずっと冷蔵庫にいるわけにはいかないでしょ? だから、どこか別のところにいなければならない」
「天沢先輩も、生きていたから自分で動いて隠れた、ということ?」
「そう、たぶんね。でも、あのあと調べたでしょ? どこにも誰もいなかった」
「じゃあ、消えたわけだ」
「人間は消えません。本当にしっかりして。利桜のことがあるから、たぶん、どこかに隠し部屋があると思うんだけど」
冷気が体に当たったのか、無敵さんは体をぶるっと震わせた。
僕は立ち上がり、彼女を支えようとする。
無敵さんは無言で僕から離れ、冷蔵庫から出て、居間に向かう。
「どこかに、仕掛けがあるはず」
無敵さんは居間の天井を見上げた。
吹き抜けになっている高い天井と、各階のガラス張りの廊下。
一階の壁に支えられた二階の廊下。
三階の廊下も、二階と同じように、真下にある白い壁の部分で支えられている。
「……ああ」
無敵さんは、額を押さえた。
「どうした?」
心なしか、顔色が悪く感じた。
「大丈夫。ねえ、猫屋敷君。天沢先輩の事件のとき、私たちは非常階段を上ったよね。あのときの階段の数、覚えてる?」
「段数? 十段上って踊り場があって、あと十段。それで二階。そして、十段上って踊り場、さらに十段上って三階」
「そうだよね。二階に上るのと、三階に上るのと、同じ段数だった。でも」
突然、無敵さんがお腹を抱えてしゃがみこんだ。
そして、げらげら笑い出した。
「どうしたの、無敵さん」
「ねえ、猫屋敷君。難波先輩の事件の後、私をかかえてエレベーターに乗ったとき、利桜と話してたよね? そのときに、言ってなかった?」
顔を上げた無敵さんは、悪いことを計画しているような目つきをしていた。
「記憶にうっすら残ってるんだ。猫屋敷君がこう言ったの。――ここは各階の間がけっこうあいているんだね、部屋の天井はそれほどでもなかったけど、って」
確かに、僕もそんなことを言った記憶があった。
でもそれが何だというのだろう。
「あのね」
突然、無敵さんが僕の首に腕を回した。
「ど、どうしたの」
「ことちゃん」
僕は耳を疑った。
ことちゃん、というのは、保育園時代の僕の呼び名だ。
「……しーちゃん?」
「風邪ひいちゃったみたい」
「何だって?」
慌てて無敵さんの額に手を遣る。
熱い。
「いつから?」
「うーん。調子悪くなったのは利桜の部屋にいたときだけど、たぶん、居間の床で寝たのが原因かな?」
「言ってよ! マットレスを運んできたのに」
「あと、お母さんの朝ご飯を食べたくなるのは、体調がもうだめで、倒れそうなとき」
「そういうことは先に教えておいてよ!」
「あの朝ご飯を食べると回復するかな、って思って。いつも思うだけで回復しないんだけどね」
あはは、と彼女は屈託なく笑った。
「ルミノール液のときとか、なんか変だと思ったら」
「ごめんね、ことちゃん」
彼女は、照れくさそうに笑った。
「私、もうだめだから、あとはがんばってね?」
「がんばるって」
「早く難波先輩たちのところに行って、利桜を助けなきゃ」
「なんで、紫藤さんを?」
「だって、難波先輩の事件のとき、桐ヶ谷先輩の言葉に騙されたのは誰?」
「しーちゃんと、僕と、紫藤さん」
「そう。彼女は何も知らされていなかった。それなのに、今、行方不明になってる。利桜が連れ去られておとなしくしているとも思えないし、抵抗しすぎて、ケガでもしたらたいへん」
「ごめん、しーちゃん。僕、意味がたぶんほとんど分かってないよ。説明して」
「ちょっと、もう、ややこしいことしゃべれそうにない」
彼女は目を閉じ、僕の胸に顔を伏せた。
「だいじょうぶ、……しくみは、ことちゃんだったら、すこしかんがえればわかるとおもう。……だから……おねがい」
彼女の体の力が抜け、膝から崩れそうになる。
それを支えながら、僕は呆然と立っていた。




