桐ヶ谷美保里の場合(二)
僕は、保育園の頃の夢を見ていた。
すぐ風邪を引く無敵さん。
すぐ熱を出す無敵さん。
みんなが、うつる、というのに、彼女の側から離れない僕。
無敵さんに何かあったらどうしようと不安でたまらないのに、大丈夫、と呼びかけ続ける僕。
無敵さんのお母さんが迎えに来てくれて、ほっとする僕。
翌日、誰も座っていない無敵さんの椅子を、じっと見ている僕。
無力感しかない時間。
目が覚めると、辺りにはおいしそうな香りがただよっていた。
厨房の方でカチャカチャと音がする。
ソファの周りに寝ている人はいなかった。
僕は体を起こし、ダイニングに目を遣る。
開け放たれた扉から、中の様子がうかがえた。
無敵さんがカゴに入ったパンを運んでいる。ロールパンの他に、バゲットもある。
その後から、紫藤さんが銀色の大きな丸い器を持ってきた。
スープが入っているのだろう。
「これで全部ですよね」
野津田さんが皿を手に、呼びかけた。
「そうだよ。皿をそれぞれの席に並べて」
カトラリーを乗せたトレイを、桐ヶ谷先輩が運んでくる。
桐ヶ谷先輩はちらっとこちらを見て、「あ」と言った。
僕は立ち上がり、ダイニングに向かう。
「おきてたの、猫屋敷君」
「ええ、さっき。見張り、代わっていただいてありがとうございました」
「まだ寝ててもいいよ。食事は起きたときに温め直すし」
「大丈夫です」
ダイニングテーブルには、パンやコーンポタージュのほかに、ベーコンやスクランブルエッグ、温野菜が並んでいた。
「朝ご飯、桐ヶ谷先輩が作ったんですか?」
「私と心葉ちゃん」桐ヶ谷先輩は、にかっと笑った。「おいしそうでしょ?」
「おいしそうです。ありがとうございます」
「食材はどれを使っちゃってもいいっていうからさ、ホテルの洋食バイキング風にしてみた」
「そうですか。無敵さんにしては大胆な発言ですね」
「え?」
僕と桐ヶ谷先輩は顔を見合わせる。
「いや、無敵さん、自分が買ったわけではないものに、どれを使ってもいいとか、あまり言わないですよね?」
「は? 雫花ちゃんが言ったわけじゃないけど?」
「え? じゃあ、誰」
桐ヶ谷さんの表情が、すっと硬くなった。
「あらかじめ、難波先輩に聞いていたんだ。ほら、食べよう。席に着いて」
桐ヶ谷先輩は僕から視線をそらし、カトラリーをテーブルに置く。
すぐに、野津田さんがフォークとスプーンとナイフをひとまとめにして、それぞれの席に配り始めた。
僕は桐ヶ谷先輩から離れ、無敵さんの様子をうかがう。
寝不足なのか、顔色があまりよくないけれど、体調不良というほどではなさそうだ。
いったん部屋に戻ったのだろう。
セーターもワインレッドのカシミヤものから、グレーのモヘアに着替えている。
けれど、胸元には、まだ、あのペンダントが光っていた。
彼女は僕に気づくと、柔らかく微笑んだ。
「おはよう、猫屋敷君」
「おはよう、無敵さん」
いつもの朝のように返しながら、無意識のうちに夢で見た幼い無敵さんと目の前の彼女を比べてしまう。
夢の中の彼女は屈託なく笑っていた。
今の彼女は、優しくて暖かみのある笑みを返すけど、屈託なくはない。
僕は無敵さんの向かいの席に座る。
無敵さんの隣は紫藤さんだ。
紫藤さんの隣が野津田さん。
僕の隣は難波先輩で、その隣が桐ヶ谷先輩……のはずだったが、桐ヶ谷先輩が僕の隣の席に移動してきていた。
「じゃあ、いただきます」
無敵さんが手を合わせた。
昨日の晩餐に比べると、ずいぶん静かな食卓だった。
「雑魚寝は体が休まらないから、ベッドで寝るのがいいよね」
食事が終わると、桐ヶ谷先輩が急にそんなことを言った。
「一人ずつ部屋で寝ていたら危なくないですか」
紫藤さんが顔をしかめる。
「そうじゃなくて、誰かが眠っているあいだ、残りの人が部屋の前で見張りをするの、どうかな」
「一人当たりの睡眠時間が短くなりませんか」
「じゃあ、二人一組になって、片方が寝ているときは片方が起きているとか」
「人数が合わないじゃないですか。それに、猫君はどうするんですか」
みんなの視線が僕に集まった。
「僕、一人でいいですよ。そうしたら、女子が二人ずつ組めるし」
「それじゃあ、猫君が狙われちゃうじゃん」
「でも、桐ヶ谷先輩が言う通りだよ。一応眠ったけど、あまり疲れは取れていない」
「それは時間が短すぎたんだって。猫君、明け方までずっと見張りしてたでしょ」
「紫藤さん、起きてたの」
僕はまじまじと紫藤さんを見た。
「私、寝付きが悪いから」
紫藤さんがむっとしたように、唇を結ぶ。
「まあまあ。じゃあ、私と心葉ちゃんが組むから、利桜ちゃんと雫花ちゃんと猫屋敷君で組んだら? 猫屋敷君も三階は気味が悪いだろうから、利桜ちゃんか雫花ちゃんの部屋のベッドを借りるとして」
桐ヶ谷先輩が僕らの間に割って入った。
「僕は構いませんけど」
ちらりと無敵さんを見る。
彼女は、ほぼ無表情だった。腕組みをして、まるで何かを審判しているようにも見えた。
「どうかな、雫花ちゃん」
桐ヶ谷先輩が、じっと彼女を見つめた。
「いいですよ。猫屋敷君は、私の部屋のベッドを使って」
まるで用意されたセリフを読み上げるように、無敵さんが言った。
けれど、桐ヶ谷先輩から視線をそらすことはなかった。
昼食も夕食も、僕らは桐ヶ谷先輩と野津田さんが作ったものを食べた。
夕食時、ふと、難波先輩の遺体を冷蔵庫に移したという話を思い出す。
食材は、同じ冷蔵庫にあったものだろうと考えると、急に気持ち悪くなった。
「食べないの? 猫屋敷君」
無敵さんが、ステーキを切りながら言った。
彼女だって、この肉がどこに保管されていたものかわかっているだろうに、まったく気にしている様子はない。
一二月二一日。
未明の天沢先輩の事件がなければ、あまりに穏やかな一日だった。
それを、僕らが十分に警戒しているおかげだと、僕は思った。
翌朝。
桐ヶ谷先輩と野津田さん、無敵さんと僕と紫藤さんの両グループは、一人も欠けることなく起きてきた。
昨日のように、桐ヶ谷先輩と野津田さんが朝食を作り、無敵さんの「いただきます」を合図に食べた。
「皿洗い、今日は僕がしましょうか」
厨房に入っていった桐ヶ谷先輩に声を掛ける。
シンク周りは結構狭く、二人並んで作業するのがやっとという感じだ。
「いいよ。私と心葉ちゃんでするから。……心葉ちゃん、あれ持ってきて」
すぐに、野津田さんがパントリーから缶コーヒーを持ってきた。
「ありがとう。これを飲みながら作業すると、気分転換になるからさ」
桐ヶ谷先輩が缶を開けて、乾杯するようにこちらに軽く差し出す。
僕は頷いて、厨房を後にした。
居間では、無敵さんと紫藤さんがカードゲームをしていた。
「猫屋敷君、手伝い、断られたでしょう?」
無敵さんが手元のカードを見つめたまま言う。
「うん。どうしてわかったの」
「私たちも断られたから」
「なんだ」
「なんだって何?」
不満そうに、無敵さんが顔をあげた。
その時、厨房から悲鳴が聞こえた。
野津田さんの声だった。




