天沢敏雄の場合(三)
野津田さんの悲鳴が聞こえると同時に、階下で非常ベルが鳴り始めた。
二階か、一階か。
僕は階段を駆け下りながら、耳を澄ます。
二階まで降りてきたとき、廊下のガラス越しに緑色の非常灯が見えた。
非常ベルの音は、階段の下から聞こえてくる。
「非常ベルは一階だね」
無敵さんが背後で言う。
「また誰かが?」
「一日で三人も?」
「無敵さん、正確には、今日はもう一二月二一日だよ」
「わかってる」
イライラした声が返ってきた。
一階にいるのは、野津田さん、紫藤さん、桐ヶ谷先輩の三人だ。
うちのサークルの用心棒的存在の桐ヶ谷先輩がいるから大丈夫とはいえ、暗闇の中では何が起こるかわからない。
僕たちが一階に降りると、玄関に続く扉のところにスマートフォンの明かりがついているのが見えた。つけているのは桐ヶ谷先輩で、野津田さんがうずくまっているのが見えた。
紫藤さんが慰めるように彼女の肩を抱き、桐ヶ谷先輩がこちらを見つめている。
「どうしたんです?」
僕は桐ヶ谷先輩に問いかけた。
背後では、無敵さんが荒い息をしている。
「心葉ちゃんが、誰かに触られたって」
「誰かって?」
「暗くて見えなかったみたい。あ、利桜ちゃん、心葉ちゃんが何か言っているから、聞いてあげて」
桐ヶ谷先輩に言われて、紫藤さんが野津田さんの顔をのぞき込む。
僕も、野津田さんを見つめた。
「非常ベルはどこのですか」
まだ、はあはあと荒い息を吐きながら、無敵さんが問いかけた。
「玄関みたい。止めに行こうか」
桐ヶ谷先輩があいていた手で、無敵さんの腕を引いた。
無敵さんがつんのめるように前に出て、そのまま膝をつく。
「いや、無敵さんは無理です。僕と桐ヶ谷先輩で」
「でも、心葉ちゃんを襲った奴が戻ってきたら? 私と無敵さんで行くのがいいと思うんだけど」
「無敵さん、まだ息が整ってないです」
「もしものときは私が運ぶから大丈夫」
「それ、無敵さんが倒れる前提じゃないですか?」
「じゃあ、みんなで行く?」
桐ヶ谷先輩が、スマートフォンの明かりを扉に向けた。
「行きます」
野津田さんの、思ったよりはっきりした声が聞こえた。
無敵さんもようやく息が整ったらしく、立ち上がって深呼吸を一つした。
「じゃあ」
桐ヶ谷先輩が思いきり扉を開けた。
バンという音が、天井の高い居間に響く。
玄関ホールでは、非常ベルが赤い光を点滅させながら耳障りな音を鳴らしていた。
「これかな」
桐ヶ谷先輩が、非常ベルの真ん中にあったフックを引っ張って、引っ込んでいたボタンを戻す。
すると、非常ベルは鳴り止み、赤い光も消えた。
辺りは、暗闇と静寂で満たされた。
「あとは、停電、と」
桐ヶ谷先輩は落ち着いた口調で言って、玄関脇にあった白いボックスを開ける。
分電盤らしく、中にはブレーカーがいくつもあった。
各階のものだろうか。
数字が順に並んでいるだけで、どれがどこのブレーカーとは書いていない。二十個近くある小さなブレーカーの隣に、一つだけ大きなブレーカーがあって、それが落ちてしまっていた。
桐ヶ谷先輩が、大きなブレーカーを「入」にすると、玄関ホールの明かりがついた。
明るくなって、それぞれの顔がはっきり見えるようになると、僕らは、ほう、と息をついた。
「心葉ちゃんを襲った奴は、玄関からは出ていないみたいだね」
桐ヶ谷先輩が玄関のノブを左右にひねろうとする。
やはり、びくともしない。
「じゃあ、何で非常ベルが鳴ったんだろう」
紫藤さんが首をかしげる。
「さあ、いったんこっちに逃げはしたんじゃないかな。そのときにベルにぶつかって、ボタンを押し込んでしまったとか。そのあと、玄関が開かないから戻ったんじゃない? 真っ暗だったからバレないだろうし」
桐ヶ谷先輩が、相変わらず落ち着いた顔で言う。
「それって……建物の中に不審者がいるってことで」
紫藤さんが頬をひきつらせた。
「そうだね。いちおう、今晩は居間で、みんないっしょに眠ろうか。あ、でも、部屋でパジャマに着替えてこないと、眠りにくいか」
桐ヶ谷先輩は腰に手を当て、どんどん話を進めていく。
「待ってください」不意に、無敵さんが手を挙げた。「私、確かめたいことがあるんです。少しお時間をください」
無敵さんが手を降ろし、ふわりと笑った。
「何をしたいの?」
桐ヶ谷先輩が眉を寄せた。
「三階の三つの部屋の中を見たいんです。行こう、猫屋敷君」
エレベーターで三階に着くと、無敵さんは難波先輩の部屋の扉をノックした。
そして、律儀に扉の前で待っている。
「ねえ、無敵さん。返事なんかないと思うけど」
僕はささやいた。
「そうかな。どのみち、礼儀としてはノックしておかなくちゃならないでしょ」
「でも、返事がないよね」
無敵さんが僕を睨んだ。
それから、一分ほど待っていたが、やはり内側からの反応はない。
「失礼します」
無敵さんが声を掛けて扉を開けた。
室内の明かりをつけると、以前と変わらぬ位置に椅子と血だまりがある。
部屋をあとにしたときと変わりはないように見えた。
けれど、無敵さんは室内に入っていき、バスルームの扉を開ける。
「誰かいますか?」
扉から顔だけ突っ込んで言っている様子は、あまりに無防備だった。
僕も室内に入り、バスルームをのぞき込む。
僕の部屋と同じような作りのシャワーブースや、トイレがあった。
「誰もいないね」
僕が後ろから言うと、無敵さんは「そうだね」と言って体を引いた。
「あと、クローゼットか」
無敵さんは律儀にクローゼットの扉をノックすると、中をのぞく。
けれども、こちらにも誰もいない。
「ねえ、無敵さん」
「何?」
「不審者を捜しているんだったら、もうちょっと警戒した方がいいよ。相手は、二人も殺しているんだから」
無敵さんは答えず、室内を見回すと廊下に出た。
「ねえ、無敵さんってば」
無敵さんは、今度は天沢先輩の部屋に向かっていた。
僕は走って、彼女の少し前に出る。
「そんな風に無防備なのは危ないよ。僕を先に行かせてくれないかな」
無敵さんがちらっと僕を見た。
それから、歩調を緩めて、僕の後ろにつく。
天沢先輩の部屋のカギはあいていた。
ベッドの上にはボードゲームがある。
これを持って行こうとしているときに、襲われたのだろう。
そして、傍らにはゲーム機の充電用のコードが落ちている。
「僕の知識が間違ってなければ、あれは、絞殺だよね?」
最後に見た天沢先輩の、どす黒い顔色を思い出す。
絞殺による鬱血で、顔色が変わってしまったのだろう。
「このコードで絞めた、と?」
無敵さんがコードを拾い上げた。
「たぶん」
「天沢先輩の体力は、猫屋敷君よりはないだろうけど、私や利桜、心葉ちゃんよりはあると思う。もし、首を絞めるとしたら、身長は天沢先輩と同じくらいか、それより高いか」
無敵さんは、両手を交差させて、コードで縛る真似をした。
「不審者の外見が少しわかってきたね」
「そうかな」
無敵さんはコードをベッドに置くと、辺りを見回した。
そして、バスルームの扉を開ける。
難波先輩の部屋と同じで、とくに変わらない。
最後にクローゼットの扉を開ける。
クローゼットには、空のボストンバックがあるだけだった。
無敵さんは黙ってクローゼットの扉を閉め、部屋の外に出た。
最後は僕の部屋だったが、こちらも変わりはなかった。
無敵さんは廊下に出ると、天沢先輩が最後に立っていた辺りのガラスを見つめた。
ガラスには傷も汚れもない。
「ほんとうに、どうなってるんだろう」
彼女はため息と一緒に、困惑の声をはき出した。




