モミの木館(一)
木の立て札には、「モミの木館」と墨書きしてあった。
立て札は矢印形になっていて、雪に覆われた山道を示している。
「ロマンティックな合宿にする。……そう言ってたよね。猫屋敷君」
僕のとなりで、無敵雫冠が言った。
「まあね。難波先輩が言ってたことだから、どの程度信じていいのかわからないけど」
僕は、軽く肩を竦める。
無敵さんの栗色の髪には、雪が積もり始めている。
僕は、マフラーを外して、そっと彼女の頭にかけようとする。
「そんなことしなくていいってば」
無敵さんは髪にマフラーが触れる寸前というところで、僕の手を払った。
「僕のマフラーなんて嫌ってこと? 髪が濡れたら風邪をひくんじゃないの?」
無敵さんは体が弱い。
僕は保育園の頃から、彼女がよく熱を出して倒れるのを見てきた。
大学生になった今だって、よく風邪をひいている。
「……違う」
無敵さんは僕を睨みつけた。
それから、すっと視線をそらした。
「猫屋敷君だって風邪くらいひくでしょ? 私の心配ばっかりしてないで」
「僕はこのくらいでは風邪をひかないんだ」
「それ、マウントをとってるつもり?」
無敵さんは、こちらを見なかった。
そして、立て札が示す山道に足を踏み入れた。
館に続く山道は、すっかり雪に覆われている。一二月半ばにこれだけ雪が積もっているのを、僕は見たことがなかった。
「この中を歩けっていうことでしょ? 難波先輩のお気持ちとしては」
さっきから、無敵さんは文句を言いながら、ざくざく雪道を上っている。
「ずいぶん配慮がないよね。無敵さんが来るっていうのにさ」
僕も少し、不満を言う。
無敵さんが風邪をひきやすいことは、難波先輩だって知っている。雪道を歩かなければ行けないようなところを、合宿場所に設定するのは不親切だという気がした。
「私のことを言わないで。猫屋敷寿」
彼女が僕の名前を最後まで呼ぶのは、機嫌が悪い証拠だった。
「ああ、ごめんなさい。無敵雫冠」
僕も、名前をきっぱり呼んでやる。
彼女がむっとした顔で振り返った。
僕も、むっとした顔をしてみせる。
「……ごめんなさい。先を急ごう」
すぐに無敵さんが謝った。
「どうも」
僕も軽く返す。
二人とも、自分の下の名前が嫌いだった。
僕は、「寿」という名前のせいで、よく「式場」だとか、「新郎」というあだ名を付けられていた。
一方の無敵さんは、名字の意味の強さと、ミルククラウンを想像させる名前のせいで、「女王様」だとか、「王冠」といったあだ名をつけられていた。
だから、大学に入って、二人で文芸サークルを立ち上げたとき、無敵さんはペンネームで下の名前をそのまま使うことを避けて、「無敵雫花」にした。たぶん、サークルのメンバーは、僕と、同じ二年生の紫藤利桜を除いて、無敵さんの本名も「雫花」だと思っているはずだ。
ちなみに、僕のペンネームは「ねこや・しき」だ。ひねりはないが、下の名前を使うことは無事に回避している。
僕らは黙ったまま、山道を上っていく。
そんなに距離はないはずだが、木立の中のカーブの多い道で、先が見通せない。
道の先があるであろう山の上の方を見上げても、木しか見えない。
本当にこの先に、建物があるかすら、よくわからなかった。
「モミの木館かあ」不安を和らげようと、僕は少し大きな声を出す。「難波先輩のお父さんは、なんでそんな名前をつけたんだろうね?」
「使っている木材がモミなんじゃないの」
面倒くさそうに無敵さんが返す。
「なるほど。でも、先輩のお父さんは作家だし、もう少しひねって名前をつけててもいいような」
「本当に作家かどうかわからないじゃない。海外でしか本が出版されていないって言ってたでしょう? ペンネームも教えてくれないし。息子の合宿のために別荘を建ててくれたっていうのが本当なら、お金持ちなのは当たってるだろうけど」
無敵さんの呼吸は少し苦しそうだった。
僕は無駄だと知りながら、道の先に目をこらす。
「お金持ちだってしていいことと悪いことがある」
僕は無敵さんの手を引いた。
手を振り払わないところを見ると、疲れてきているのだろう。
彼女の前に立ち、彼女の歩調に合わせながら雪を踏み分けていく。
無敵さんは無言だった。
下を向いて、ただ、僕の後をついてくる。
もしものときは、荷物をここに置いて、彼女を背負って歩こう。
そう決めたときだった。
木立が途切れて、目の前が開けた。
平らに広がった地面に、真新しい建物があった。
末広がりの三重塔。
いや。
外壁の色と言い、三つある屋根の広がり方といい、一階一階がやけに高くて、三階建てというには間延びした形といい。
まるで保育園児が描いたような。
「クリスマスツリー……」
無敵さんの、ため息交じりの声が聞えた。
僕らの目の前には、緑色に塗られた、クリスマスツリーそっくりの建物があった。




