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第15話 「……は……?」

 足元から床がめくれ上がるように視界のすべてが反転し、強い眩暈(めまい)に襲われる夜美。

 聴覚が機能しなくなり、上下の感覚も失われたかと思った次の瞬間、彼女の身体は――。


 団地の上空に転移していた。


「……は……?」


 一瞬の浮遊感の直後、落下する。


 必死に伸ばした手が、何かを掴んだ。団地のベランダの端だ。だが落下の勢いを支えきれず、バランスを崩しながらさらに投げ出される。


 もう一度伸ばした手が掴んだのは、横方向に伸びる雨水管だった。掴んだ衝撃で留め具がいくつも壊れ、軋み音を立てながら雨水管が外壁から離れるように曲がっていく。

「……う……ッく」

 夜美の身体は、他に支えの無い空中で斜めに変形した雨水管にぶら下がった状態になった。


 爪先の向こうに、五階分の高さから見下ろす地面が揺れている。


 雨水管が身体の揺れに合わせて軋んだ。

 決して頑強な素材ではない。曲がった所から、いつへし折れてもおかしくはなかった。


 どうする。

 大声をあげて救助を呼びかけるか。

 夜美の握力か、雨水管の強度が限界を超えるまでに救助が間に合うだろうか。

 ほかに手段は――。


 頭の中で目まぐるしく思考が入り乱れた。


「ヨ、ヨミさーんッ!」

 その時、鈴のような音を立ててレベッカが高速で飛んできた。

「レベッカさん! お願いです、一一九に連絡を……!」

「もう少しの我慢です、ぼくに任せてください!」


「え? いやでも――」

 いくら空を飛べるレベッカでも、あの小さな身体で夜美の重さを支えることはできないだろう。


「こ、ここでポータルを、開きます!」


 レベッカはそう言うと、高速で飛行しながら夜美の足元で複雑な円軌道を描き始めた。


 その間に、雨水管が乾いた音を立て、ぶら下がる夜見の身体が揺れる。

「ぐ……ッ!」


「できました! ヨミさん、足元にポータルがあります。これで地面まで転移します!」

「ポータル……?」

 足元の周囲に、空中に微かに青く光る粒子が見えるが、判然としない。

「い、急いでください! 空中だとポータルが定着しないのであまり長くもちません」


 夜美の呼吸が次第に上がってきた。

 最初に転移魔法を使った時の会話が脳裏をよぎる。


 ――はみ出るとどうなるんですか?

 ――え? えっと、その部分だけ転移から取り残されます。


 視認できないポータルに飛び込む。もしその場所がずれていたら――?


「ポータルを広めに作ったので、大丈夫! 思い切って飛び込んでください!」

 彼女に躊躇(ちゅうちょ)する余裕は無かった。もう一度、雨水管が立てた嫌な音とともに身体ががくりと下がる。

 彼女はきつく目を瞑ると、雨水管を掴んでいた手を放した。

「転移」


 耳を塞がれたような感覚に襲われた直後、夜美の両足は地面に着いていた。


 ほとんど衝撃は無かったが、バランスを崩した夜美はよろめいてその場へ倒れ込んだ。

 掌がアスファルト舗装された地面を撫でる。


「……ッ!」

 今になって全身に冷や汗が浮き、動悸が急速に上がっていくのを感じた。


「だ、大丈夫ですか、ヨミさん」

 レベッカが夜美の様子を確かめるように周囲を飛んで回った。

「え……ええ、何とか……」

「良かった、無事転移できましたね」


 夜美は大きく息を吐いて呼吸を整えた。

「……助かりました、レベッカさん。あなたは命の恩人です」

 レベッカはくるくると空中で回転しながら照れている。

「い、いえそんな、えへ、えへへ……」


 一緒に転移したのだろうか。視界の先に雨水管の一部が転がっていた。

「あ、それ……咄嗟だったのでポータルに細かい範囲指定が組み込めなかったんです。転移に巻き込んじゃいました」

 夜美の視線を追ってレベッカはそう言った。

「緊急避難とはいえ、あとで警察から謝っておいた方が良さそうですね」

 雨水管は滑らかな切断面を見せている。ポータルからはみ出た部分は、ああなってしまうらしい。


 夜美はストラップで吊り下がった拳銃をホルスターに戻すと、立ち上がってスーツの汚れを払った。

 靴は五〇四号室に置いたままだった。ストッキング越しにアスファルトの凹凸が足裏に痛いが、地上五階の高さから落ちていたなら痛いでは済まなかったことだろう。


「ところでレベッカさん、彼女――」

 一瞬だけ姿を見せた〈フェアリー〉。


 データベースで確認した写真の快活そうな様子からはもはや見る影もないほどに変わり果てていたが、やはり彼女があの部屋の住人なのだろう。

「セリア・マスタードが、どこへ行ったか分かりますか?」


 レベッカは首を振った。

「すみません……ぼくヨミさんが気になって彼女の方はちゃんと見てなくて……」

「謝る必要なんてないですよ、お陰でわたしは無事だったんですから」

「あ、でもヨミさんと一緒に部屋の外まで転移したのは確かです」

 夜美は周囲を見回した。相変わらず人通りは無く、今の騒ぎに気付いた様子の住民もいない。

 見える範囲に〈フェアリー〉の影も無かった。


「ここにいないということは……また別の場所に転移した、ということでしょうか」

 転移魔法を使って逃げられたのなら、後を追うのは困難だ。

「一度、五〇四号室に戻りましょう。何か手掛かりが残っているかも知れません」


 ふたりは再び団地の五階へと上った。警戒しつつ部屋のドアを開けたが、やはり五〇四号室にセリア・マスタードの姿は無い。

 相変わらず、ポーションの空き瓶がそこかしこに転がっているばかりだ。


「確か〈フェアリー〉は、ポーションを直接飲まずにスプレーしたものを吸引するのでしたか」

「はい……だからあの、空き瓶の数が多すぎると思います。これまさか全部ひとりで使った、なんてことは無いですよね……?」

「……」

 しかしあのセリア・マスタードの様子は尋常では無かった。

 もしここにあっただけポーションを服用していたとしたら、いくら魔素に慣れている異世界人でも、その身体は重篤(じゅうとく)な中毒症状に侵されていることだろう。


 彼女の捜索にあまり時間はかけられなさそうだ。


 夜美はセリア・マスタードと遭遇した洗面所と風呂場の照明を点け、念入りに調べた。

 濡れた浴室内は使用したばかりという感じだが、これといって不審な点は無い。

「……?」

 排水溝のカバーに、何かプラスチックの欠片が引っ掛かっているのが見えた。ハンカチで包んで拾い上げたその欠片に、どこか見覚えがある――。


「ヨミさん!」

 と、ベランダの方からレベッカの呼ぶ声がした。


 リビングにあるガラス戸は細く開かれていて、レベッカはその奥のベランダに浮いている。

「きっと普段、彼女はこの窓から出入りしてたんだと思います」

「〈フェアリー〉は玄関のドアを使わない、と言っていましたね」

「ポータルが残っていました。ヨミさんを転移魔法で飛ばした後、彼女はここからまたどこかに転移したんですよ」

 レベッカの指差す先に、ベランダの床に描かれた魔法陣が青く燐光を放っていた。


「レベッカさん、このポータルからどこへ向かったか突き止めることはできますか?」

「あ、はい。転移して間もない感じなので、トレースできると思います。あの、同じ行き先にポータルを開きますか?」

 今のセリア・マスタードが正常な精神状態にあるとは考えにくい。追い駆けた出会い頭にまた転移魔法を使われないとも限らない。

 危険は承知だが、今はとにかく急いだ方が良さそうな気がする。


 夜美は小さく顎を引いて言った。

「……お願いします」



つづく

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