第3話
◇
午前七時を少し過ぎたころ、ノウアスフィアの街はゆっくりと目を覚ます。
鉄の階段を上る足音、バスの発着を告げる電子音、焼きたてのパンの匂い。
濡れた舗道の上には昨夜の雨の名残がまだ残っていて、通り過ぎる車が水を弾くたびに、その飛沫がショーウィンドウのガラスに細かく散る。
街のどこを歩いても光は斜めから差し込み、ビルの壁面をゆっくりと滑っていく。
リラ・ヴァスティンの住む部屋は、中央第三区画の外れにある。
線路沿いの、三階建ての古いアパートメント。
壁には薄くヒビが入り、廊下の照明はときどき瞬く。
けれどこの街の建物はどこも似たようなものだった。
塗装の剥がれた扉、階段の手すりに巻きついたケーブル、遠くで聞こえるエアコンの唸り声。
彼女にとっては、それが“生活の音”だった。
朝、起きてまずコーヒーを淹れる。
小さなキッチンに立ち、電気ポットが沸騰する音を聞きながらリラは窓際に寄り、カーテンを少しだけ開ける。
そこにはいつも、同じような景色がある。
斜め向かいのビルの屋上には通信塔のアンテナが立っていて、その先端には時折小さな白い鳥が留まる。
近くの学校からはチャイムの音が響き、駅へ向かう通りでは制服姿の学生たちが小走りに駆けていく。
この時間帯のノウアスフィアはどの通りも少しだけ忙しなく、それでいて穏やかだった。
市場の角では八百屋が箱を並べ、タクシー乗り場の前ではドライバーがコーヒーを片手に新聞を読んでいる。
ビル街の隙間には小さな神社のような祠があり、
そこに置かれたプラスチックの花が、風に揺れていた。
リラはコーヒーを口に含みながら、通りを歩く人々の背中をぼんやりと眺めていた。
ひとりひとりの動きが規則的で、まるで街全体が呼吸をしているように見える。
深く吸って、吐く。
信号が変わるたびに、人の流れも静かに脈を打つ。
窓を閉め、髪を束ねる。
ジャケットを羽織る前に机の上の端末を手に取ると、画面には未読の報告書がいくつも並んでいた。
夜のうちにI.B.N.から送られてきた内部通達。
どれもノイズ発生に関する小規模な報告だ。
リラは一度だけため息をつき、端末を裏返したまま鞄に滑り込ませた。
今日は任務ではない。
それでも、完全な休息というものはこの街には存在しなかった。
街が動く限り、誰かが“観測”を続けなければならない。
アパートを出て通りに出るとパン屋の前で小学生が列を作っていて、焼きたてのクロワッサンを手に笑っている。
その笑い声がふと、リラの胸の奥を撫でるように通り過ぎていく。
彼女はそのまま歩き出し、角を曲がって大通りへ出た。
街は高低差が多く、遠くには斜面に沿って立つ住宅群が見える。
その向こうには湾岸区の塔が並び、午前の光がビルのガラスに反射して街全体を淡い銀色に染め上げていた。
路面電車がゆっくりと走り抜け、そのすぐ後ろで自転車の少年が信号をすり抜ける。
バス停には仕事帰りの夜勤者と、これから出勤する人々が同じ列に並んでいる。
誰かが大きなあくびをし、誰かがコーヒーの缶を捨てる。
その一連の動作が、リラにはなぜか安堵のように思えた。
彼女が暮らしているこの区画――第三区は、
行政棟やデータセンター、通信網の基幹施設が集中する中心街で、街の“神経”のような役割を担っている。
そのため住民の多くは役所や研究所、企業の技術部に勤めており、この界隈のカフェや書店ではいつも新しい論文やデータの話が小声で交わされている。
だが、リラが好むのはそうした場所ではなかった。
彼女がよく足を運ぶのは、駅裏にある古い喫茶店――《ル・ミエル》。
ドアを開けると小さな鈴が鳴り、カウンターの奥でマスターが無言でカップを拭いている。
朝の客は少なく、店内はいつも穏やかな時間が流れていた。
今日は寄らずにそのまま駅前の歩道橋を渡る。
風が頬を撫で、シャツの襟を少しだけ浮かせる。
下を見れば、交差点の真ん中を黄色いバスがゆっくりと旋回していく。
信号のタイミングがほんの一瞬ずれるたびに車列が静かに停止し、再び動き出す。
それが、街の鼓動のように聞こえた。
人々の表情は穏やかで、誰もが自分の行き先を正確に知っているようだった。
だがリラは、その中に一つひとつ“わずかな揺らぎ”を感じ取っていた。
目線の向こうにあるもの、言葉の隙間に浮かぶ沈黙。
誰もが何かを考えながら歩いている――そんな空気が、この街には満ちている。
歩道橋の階段を降りながら、リラは小さく息を吸い込んだ。
排気の匂い、電線のうなり、遠くのサイレン。
それらが一つに混ざり合い、まるでこの街全体が巨大なひとつの生き物であるように思えた。
彼女はその“呼吸”を感じながら、ゆっくりと歩き続ける。
ノウアスフィアは、確かに生きている。
雨上がりの朝も騒がしい昼も、——沈む夕暮れも、
この街はいつだって誰かの記憶を抱いたまま、淡い光の中で息をしている。
リラ・ヴァスティンはその街の中で今日もまた、静かに一日を始めようとしていた。




