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第2話



都市の境界線は、いつも曖昧だった。

地図の上では区画が区切られているが、現実の街ではその境界は“濁って”いる。

光が届かない場所。監視が切れる場所。

そして――記憶が再構成されない場所。


旧工業区 《ハイ・ブロック》は、そのすべてを満たしていた。


リラが現場に到着したとき、朝の光はすでに灰色に沈み始めていた。

頭上のホログラム空は雲を投影し、薄いノイズを含んだ風が吹き抜ける。

通りには人の姿がなく、ただ古い機械と壊れかけた看板が並んでいる。

「安全区域外」――赤い警告のホログラムが点滅していた。


通信機が小さく鳴る。

「現場到着、確認。……映像がまだ戻らないな。」

本部の男の声が、砂を噛んだように歪んで届く。


「こちらリラ・ヴァスティン。工業区第七ブロックに到達。視界、ノイズレベルB。」

「了解。内部の構造が変動している。慎重に行け。」


通信が途切れる。

リラは息を整え、通りの奥へと歩き出した。

足元の水たまりに映る自分の影が、波紋と共に揺れる。

だがその反射像は、わずかに遅れて動いた。


――“現実の遅延”だ。


彼女は手首の装置を起動した。

腕輪状のデバイスが淡い光を放ち、空間に演算波を走らせる。

それは「存在確率の揺らぎ」を可視化するツール――観測界投影器フォーカス・ライン


空気中に細い光の糸が浮かび上がる。

まるで、世界そのものが薄い膜でできているかのようだった。

光の糸は呼吸のように脈打ち、時折、途切れる。


「……ノイズ濃度、上昇。」


彼女はデバイスを閉じ、背中のホルスターから“量子刀 《クロノ・ブレード》”を抜いた。

刃は光を持たない――透明な刃だ。

それは、存在しないものを切るための剣。


通りの奥、瓦礫の山の隙間で、黒い影が蠢いた。

ノイズ群。


最初は、ただの人のように見えた。

しかし次の瞬間、身体の輪郭が崩れ、幾何学的な裂け目に変わる。

顔も手も、あらゆる情報が混ざり合い、音と光と歪みが一体となって、“存在そのものがエラーを起こしている”ようだった。


「――観測崩壊、開始。」


言葉と同時に、空間が沈黙した。


風が止む。

空気の流れが断たれ、湿った粒子だけが宙に浮かんでいる。

リラの靴底が水膜を踏み、重心が一段下がった。

膝のバネを吸収し、腰を僅かに引く。

その姿勢のまま、息を――殺す。



——ドッ



灰色の通りに、無音の衝突音が走った。

空気が薄くたわみは、雨後の匂いに金属の冷たさを微かに混ぜる。


リラは半歩、右足を前。

かかとは浮かせない。濡れた路面に体重の三割だけを預け、残りを腸腰筋に吊る。

肩は落とし、首の力をほどく。視線は影の“中心”ではなく、その位相が遅れる周縁に置く。

呼吸は四拍。吸って――胸郭を広げるのではなく、横隔膜を沈める。吐く――腹圧を固定したまま、気流だけを絞る。


透明の刃 《クロノ・ブレード》が、空気の密度をわずかに変えた。

刃そのものは光らない。光るのは世界側のほうだ。

観測線ラインが引かれ、街の輪郭に微細な干渉縞が走る。


ノイズは“人に近い”。しかし関節の位置が数フレーム遅れ、肘と膝が外側に二重露光している。

床面への設置音はない。摩擦係数が確率のぶんだけ揺れ――踏みしめた痕跡が濡れたアスファルトに浮いては消える。


距離、三・二メートル。

刃渡りとリーチを合わせても、まだ外。

こちらが踏み込めば一拍、向こうが崩れて寄れば半拍。


沈む。


左足の土踏まずで路面の細い水流を感じ、母趾球を軸に骨盤を右へ数度だけ開く。

脊柱はまっすぐ。胸椎で捻らず、腰椎の回旋トルクを温存。

右前腕は肘から伸ばさない。肩甲骨を滑らせ、広背筋の“引き”で刃を前へ――押し出すのではなく、世界をこちらへ迎え入れる。


空間が低く鳴った。

ゴゥ……という、圧の音。

雨粒の落ちる速度が耳の中でわずかに遅れ、通り全体が一拍、深く沈む。


ノイズが動いた。

動きは“走る”に似ているのに、床反力がない。

胸郭の位置だけが先行し、重心が体外へ滑っていく。

関節角は人間のそれをなぞるが、角速度のピークが二度来る――最初のピークでこちらの視線を釣り、二度目で本体の位相が重なる。


フェイント。

だが、質量の遅延が耳に触れる。

空気が波打ったところ――そこが“今いる”に最も近い。


右足、送り足。

踵をまだ落とさない。

地面と靴底の間で水膜が裂け、シュ、と薄い音。

同時に左手の手袋が微細な電流を走らせ、観測界フォーカスの線を一本、影の左肩から骨盤へ落とす。

線は目に見えない。感触だけが掌に伝わる――細い、ぬめる、冷たい糸。


間合いが閉じる。一・二メートル。


ノイズの腕が伸びた。

腕と言っていいのか定かではない。

骨がない。関節がない。

それでも“殴る構造”だけは守られている。

面として迫る。拳ではなく、確率の板。


横へ逃げるのは悪手。平面が追ってくる。

ならば、厚みをなくす。


一拍、腰を落とす。

膝は前へ出さない。脛骨と足首で前方の反力を殺し、臀筋で“自分の落下”を刃に通す。

斬るのではない。

落ちる身体が刃の重さになる。


透明な刃が、水平よりわずかに下――肋骨の高さに入る。

切断面は世界のほうに生じる。

ギリ、と空が鳴り、視界に白いクラックが走る。

ノイズの表面に干渉縞が浮き、位相が剥がれる。

板だった腕が薄い書類の束のようにばらけ、風圧で舞う。


手応えはない。

それでも切れている。

“存在している確率”の厚みが剥ぎ取られ、路面に黒い水のような残響が滴る。


ノイズが後退――ではなく、位置が“再計算”される。

一歩分、世界が巻き戻る。

その巻き戻りの“すき”に左の踏み替え。

右足が着地するわずか前、腓骨筋に通電。足刀を路面に咬ませ、滑走を止める。

腰が止まる。上半身はまだ回っている。

トルクが剣に集まり、刃先の周囲に空気の薄い層ができる。

耳の奥で、砂粒を噛むような音が通り過ぎる。



ザザッ――



ノイズ群の“形”が、曖昧に揺らいでいた。

人間の輪郭を模したはずの影が、今は幾千の線と点に分解され、街の照明を喰うように光を吸い込んでいた。

音がない。

にもかかわらず、リラの鼓膜は圧迫されていた。

周囲の情報密度が上がりすぎて、空間そのものが鳴っていたのだ。


疾音。


リラは再度踏み込んだ音だった。


空気が割れ、足元から白い霧が噴く。

靴底の滑りを利用し、右肩をわずかに入れる。

腰の捻り。

腕の回転。

刃の角度は水平――ではなく、確率的な斜め。

それは「形のあるもの」ではなく、「存在しようとする瞬間」を切り裂く軌道。


抵抗はなかった。

切断音もない。

ただ、“空間が分離する音”が響く。


パシィィ……ン。


静かな破裂。

ノイズ群の一部が霧のように散り、そこから微細な光粒が零れた。

それらは雨粒のようにゆっくりと落ち、地面に触れた瞬間――存在を失う。


リラは一歩退く。

剣先を下げず、視線だけで敵を測る。


空間の“解像度”が崩れていく。

まるでこの場所だけ、世界の演算が遅延しているように。


リラの左目が淡く発光する。

瞳孔が絞られ、虹彩に演算パターンが浮かぶ。

観測視界(Observer Eye)。

確率の揺らぎを可視化する。


ノイズ群の動きが遅く見える。

彼女はもう、通常の時間の流れにいない。

この数秒間――世界の“測定”を独占している。


空間の座標が、線となり、格子となり、音を立てて軋む。

リラはその格子の隙間をなぞるように滑る。

体重を前足に乗せ、刃を肩口に固定。

瞬間、右膝を絞り上げる。


ドゥッ。


身体が爆ぜる。

肩甲骨、肘、手首――連動。

斬撃は風ではなく、“情報の層”を貫いた。


ノイズが裂け、内部の空気が吸い込まれる。

温度が一瞬で下がり、息が白くなる。


リラはさらに後退。

すぐ背後にあった壁に右足を軽く当て、反発力を利用して跳ねる。

空中で身体をひねり、逆手に持ち替えたクロノ・ブレードを真下へと叩き込む。


ギィン。


空間の歪みが共鳴し、耳鳴りが走る。

ノイズ群が震え、形を失う。

あらゆる方向から悲鳴のような“データノイズ”が降り注ぎ、視界が白い断片に覆われた。


リラは動かない。

静止。


彼女の呼吸だけが、世界の“音”だった。


やがて、ノイズの残骸が崩壊していく。

影が霧へ、霧が粒子へ、粒子が光へ。

そして光は、雨のように降り注いだ。


刃を収める。

クロノ・ブレードの輪郭が空気に溶け、消える。


残響だけが、まだ街の奥で震えていた。


——しかし、完全には消えなかった。

ノイズは何かを“訴える”ように、言葉にならない声を漏らしていた。


『……タス、ケ……テ……』


リラの動きが、一瞬だけ止まった。

ノイズが人の形を取り戻し、少女のような影が彼女の前に膝をつく。

瞳は虚ろで、しかしその奥に――確かな“記憶”の光が宿っていた。


「あなた……は……」


影が掠れた声で呟く。


「見た……でしょ……“空”を……」


その瞬間、周囲の空気が破裂した。

空が軋み、ホログラム層が剥がれ落ちていく。

都市の上空に、巨大な“裂け目”が開いた。

仮想の雲が歪み、本来ありえない“光”が射し込む。

それは、誰も見たことのない青――


だが、それは数秒しかもたなかった。


演算層が再構成を開始し、崩壊した空が再び灰色の天蓋へと戻る。

リラは息を荒げ、地面に膝をついた。

目の前には、すでにノイズの影はない。

ただ、雨に濡れたアスファルトの上に、小さな光の欠片が残っていた。


それは、ノイズが消滅する直前に残した“観測残響”。


リラは慎重にそれを拾い上げる。

欠片の中に、微かな映像が浮かんでいた。


――青空の下で、笑う子供たち。

――その中心に、銀灰の髪の女性。


……自分?


リラの手が震えた。

映像は一瞬でノイズに飲まれ、消えた。


通信機が再び鳴る。


「リラ、応答を。異常反応が検知された。おい、リラ、聞こえるか?」


「……ああ、聞こえる。」


彼女はゆっくり立ち上がった。


「ノイズを一体、観測崩壊させた。……だが、何かがおかしい。」


「おかしい?」


リラは空を見上げた。

曇り空の奥に、ほんの一瞬だけ“青”の残響が揺らめいた。


「――この街の空が、ほんの少しだけ“本物”に近づいた。」


通信の向こうで、短い沈黙があった。

そして、誰かの低い声が言った。


「それは、観測の破綻だ。」


リラは応えなかった。

代わりに、灰色の空をただ見つめ続けた。


空は再び、静かに歪んでいる。

その歪みの向こうに、確かに“何か”がある。

現実でも虚構でもない、“もうひとつの層”。


――この街は、まだ終わっていない。

――そして、誰かがまだ“夢を見続けている”。

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