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第1話



朝の光は、曇りガラスのように街を包んでいた。

雨上がりの空気にはまだ微かに湿気が残り、アスファルトの匂いが風に混ざっている。

出勤する人々の足音、踏切の警報、遠くのサイレン。

それらが層をなして響く。

この街では、静寂という言葉は機能しない。


高架下のカフェの扉を押すと、カランと鈍い音が鳴った。

店内にはコーヒーの香りと、古いスピーカーから流れるジャズ。

壁の時計は七時を少し回っている。

新聞を広げた老人、スマートフォンを見つめる若者、その「誰」もが互いに視線を交わさない。


リラ・ヴァスティンは、窓際の席に腰を下ろした。

黒いジャケットの襟を軽く整え、手帳を開く。

字は整っていたが、ページのほとんどは走り書きのメモで埋められている。

報告書。目撃情報。被害状況。

それらの中に一つ、赤く囲まれた文字があった。


――「ノイズ群」


彼女はペンの先でその文字をなぞるように見つめた。

カップの湯気が少しだけ視界を曇らせる。

この一週間、三件目の失踪事件だ。

被害者の共通点は職業でも年齢でもない。

ただ一つ、“最後に携帯端末の信号が消えた場所”がすべて同じエリアに集中している。


リラはコートのポケットから端末を取り出し、画面に地図を映した。

点滅する赤いマーカー。

都市の南端、再開発が止まったままの旧工業区。

昼間でも光が届かず、夜になれば野犬よりも人の気配が薄くなる区域だ。


「また、あそこか……」


小さく呟く声が、カップの底に沈んだ氷の音に掻き消された。


リラは無理にため息を抑え、店を出た。

空はまだ薄曇り。

信号の赤が濡れた路面に滲み、風が髪を揺らす。

通り過ぎる車のタイヤが水たまりを跳ね、制服姿の学生がそれを避けるように駆けていく。

どこにでもある朝の風景。

ただ、彼女の目にはすべてが“薄皮一枚”越しに見えていた。


街を歩けば、人は笑い、店は開き、世界は確かに回っている。

けれど、何かが常に少しずつずれている気がした。

時計の針が、ほんのわずかに他人より遅れて動いているような。

遠くの電車の音が、半拍だけ遅れて届くような。

それは錯覚だと、自分に言い聞かせる。

何年もこの仕事をしていれば、幻聴も錯覚も珍しくない。


だがリラは知っていた。

“ノイズ”という言葉が、ただの比喩ではないことを。


路地を抜けると、彼女の通信機が微かに震えた。

「リラ、聞こえるか? 本部だ。」

低く掠れた男の声。

「工業区の監視カメラがまた落ちた。昨日と同じパターンだ。」

「……時間は?」

「午前六時二十四分。付近の電力系統にも一瞬のノイズ。現場班はまだ動けていない。」

「了解。私が向かう。」


通話を切り、リラはポケットから灰色の手袋を取り出した。

指先をはめる動作は、まるで儀式のように静かだった。

手袋の縫い目には薄い導電線が走っている。

この街では、ただの刑事でもただの人間でもやっていけない。

“見えないもの”を扱うには、それを感じ取る術が必要だ。


彼女の足取りは確かで、迷いがなかった。

だがその背後では、空を覆う雲の層がゆっくりと歪んでいた。

光がねじれ、街の輪郭が一瞬だけ揺らぐ。

誰も気づかないほどの微細な歪み。

ただ、世界のどこかで“何かが欠けた”ような違和感だけが、確かに残っていた。


リラはそれを見なかった。

見なかったことにした。


彼女の現実は、いつも完璧でなければならない。

その“完璧な現実”が、世界の最後の秩序であるかのように。


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