ディープ・グラウンド
雨は、朝から降り続いていた。
音はほとんどしない。
ただ灰色の粒が、街の輪郭をゆっくりと削っていく。
通りに立つビル群は、どれも似たような高さと形をしていた。
窓ガラスはくすんだ鏡のように濁り、反射するのは空ではなく、空の代用品。
街の天井――それが「空」と呼ばれるものだった。
人工のホログラムが描き出す、無機質な青。
人々はそれを疑わない。あるいは、疑うことすら忘れている。
ノウアスフィア。
この都市の名を知る者は少ない。
それでも人々は暮らしている。
朝が来て、夜が来て、また朝が来る。
その繰り返しを、誰もが自然と受け入れている。
けれど――この街に“本当の空”を見たことのある者はいない。
リラ・ヴァスティンは、その灰色の朝の中を歩いていた。
通りには雨を避ける傘の群れがあり、黒い列はまるでプログラムの流れのように、信号に従って動き続けている。
一人ひとりが端末を見つめ、言葉を交わすことはない。
視線は常に前方へ、いや、前方に見せかけた「未来」へと向けられている。
彼女の耳の奥で、通信のノイズが微かにざらついた。
声ではなく、ざらついた信号の囁き。
それは、地下のどこかで稼働している演算炉の震えと共鳴しているようだった。
――ノウアスフィアの下には、もう一つの世界がある。
リラは幼い頃、そう聞かされたことがある。
地表の下、都市のさらに下。
誰も立ち入ることのできない、無限の地下構造。
人々はそれを「ディープグラウンド」と呼んだ。
だがそれが何なのか、知る者はほとんどいない。
地下にあるという事実さえ、都市の人々のあいだでは半ば神話のように語られている。
ただ一つ、確かなことがある。
――この街のすべては、そこから生まれている。
リラは狭い高架下の通路を抜け、仄暗い通りに出た。
上空にはホログラムの青がちらついている。
雨粒が通過するたびに、仮想の空が波紋のように歪む。
まるで、空が呼吸をしているようだった。
街灯の下、排気と湿気が混ざり合い、酸味を帯びた匂いが立ち上る。
歩道の隅では古い端末がひとりでに光り、何かを映し出していた。
映像の中の人々は笑っていた。
その笑顔の裏に、どこかぎこちないノイズが走っている。
「記録映像だよ。」
すれ違った老人が、小さく呟いた。
「誰かの記憶だ。たぶんもう、本人はどこにもいない。」
リラは立ち止まり、雨に濡れた画面を見つめた。
そこに映る風景は、この街とよく似ていた。
ただ、空の色が違う。
どこか柔らかく、あたたかい――そう感じた。
この街では、時々“記憶の雨”が降る。
それは誰かの意識の残滓、失われた思考の断片。
空気中の微粒子として漂い、人々の皮膚や視覚神経に触れる。
触れた者は一瞬だけ、別の誰かの夢を見る。
泣き声、笑い声、遠い記憶の光。
そのどれもが一秒にも満たない。
しかし、確かに「誰かのもの」だった。
ノウアスフィアでは、それを“ノイズ”と呼んで恐れていた。
だがリラは知っている。
ノイズは恐怖ではなく、真実の残響だと。
――この街のすべては、記憶でできている。
――そして記憶は、誰かの死の中に眠っている。
彼女が向かっているのは、都市の中央区画。
虚数管理局、通称「I.B.N.」。
街の秩序を監視する機関。
表向きは行政組織だが、実際には“世界そのものの安定”を維持する装置だった。
リラは第零課に所属している。
任務は、ノイズの抑制――すなわち、存在の異常値を“観測崩壊”させること。
端的に言えば、“世界のほころび”を切り捨てる仕事だ。
通路を抜けると、広場が現れた。
光沢を帯びた黒い地面に、雨が音もなく落ちていく。
広場の中心には一本の塔が立っている。
塔の名は《観測柱》。
かつて、星を観測するために造られた装置。
今はただ、街の中心で青白い光を放ち続けている。
リラはその塔を見上げた。
光が瞳の奥に反射する。
冷たい輝き。
それはどこか、星ではなく“目”のように感じられた。
誰かが、この街全体を見ている。
誰かが、彼女を見ている。
通信機が小さく震えた。
「リラ、応答を。」
聞き慣れた声が耳の奥で響く。
「新しいノイズの発生だ。下層第七ブロック――“廃区”だ。」
彼女はわずかに息を吐き、視線を下ろした。
「了解。これから向かう。」
視界の端で、仮想空が一瞬だけ明滅した。
そのノイズの裏側に、どこか別の空が見えた気がした。
それは、ホログラムの青ではない。
もっと深く、静かな――“本当の空”の色。
リラは、確かにそれを見た。
しかし次の瞬間、それは雨に溶けて消えた。
歩き出す彼女の背後で、都市の放送が流れ始める。
「本日、演算層の負荷は正常値。居住区の安定指数は99.7%。」
「市民の皆さま、安心して一日をお過ごしください。」
無機質な声が街を包む。
誰もがその声を聞いている。
だが誰も、疑問を抱かない。
リラだけがふと立ち止まり、空を見上げた。
雲は薄く、そこに微かに星の光が浮かんでいる。
――けれど、その星はもう何千年も前に死んでいる。
それでも、光はまだ届いている。
つまりこれは、“死者の光”だ。
彼女は静かに目を閉じた。
心の奥に、微かなざらつきが広がる。
それはノイズでも、雨でもない。
世界そのものの“呼吸”だった。
誰かが夢を見ている。
その夢の中で、街が形を持ち、雨が降り、人々が生きている。
だが夢を見る者は、もうこの世界にはいない。
それでも、夢は続いている。
――この街は、死者の記憶が見せる夢。
――そして、私たちはその夢の登場人物。
リラ・ヴァスティンは、雨の中を歩き続ける。
靴底が濡れた舗道を踏みしめるたび、街の記憶がかすかに震える。
彼女の瞳に、偽りの空が映る。
けれど、その奥には確かに“空のレプリカ”があった。
人類が失くしたはずの、あの青の幻影。
やがて、街のどこかで警報が鳴った。
ノイズの発生。
雨の向こうで、ひとつの夢が崩れ始めていた。
「――ディープグラウンドとは、死者の夢が続く場所だ。
この世界が、まだ終わらない理由だ。」
そして今夜も、
この街の空は、静かに歪んでいる。




