灼熱の砂漠と高笑いの残響、そして予期せぬ破壊! その1
翌日。
ゼフィロスが手配した最高級の魔導馬車……のはずだった。王室からの約束では、最高級の馬車を、と確かに記されていたはずだ。だが、館の前に現れたのは、豪華な装飾だけは施されているものの、明らかに年季の入った、ガタつきそうな魔導馬車だった。磨きはかろうじて行き届いているが、車輪の魔導石はくすみ、サスペンションもどこか頼りない。
「ルナ様、まずは最初の失踪現場である砂漠王国サハラデスへ向かうのですが、その途中に五つの町や村がございます。それぞれ、『緑風の村』、『湖畔の町ミストラル』、『商都バザール』、『古城の村ロックフォール』、そして『最後の砦グランベル』でございます」
王室の使者は、恐る恐る目的地までの道程を説明しながら、地図を広げた。彼としては、綿密な計画を提示することで、少しでもルナの機嫌を取ろうという魂胆だったのだろう。だが、ルナの反応は、彼の予想をはるかに超えていた。
ルナは、使者の説明を半分も聞かず、不機嫌そうな顔で馬車を睨みつけていた。彼女の金色の瞳が、ギロリと細められる。
「おい、ゼフィロス。これ、最高級の馬車じゃねぇな。ボロボロじゃねぇか。あたし様が指定したのは、『最高のやつ』だろ? 王室の奴ら、またケチりやがったな! ああ!?」
ゼフィロスの胃が、きゅぅぅう、と悲鳴を上げた。まるで胃酸が逆流するような、焼けるような痛みが襲う。
「ルナ様! いえ、その……王室の予算が急に逼迫しておりまして、これでも精一杯……」
「はぁ?! 予算だと? そんなもん、あたし様の知ったこっちゃねぇんだよ! 約束が違うだろうが! 約束を破る奴は、どうなっても知らねぇぞ!」
ルナの怒りは頂点に達していた。彼女の掌に、見る間に禍々しいまでの魔力の光が集中し始める。その光は、まるで吸い込まれるように周囲の空気を歪ませ、地を這うような唸りを上げた。使者たちは顔を真っ青にして後ずさる。中には、あまりの恐怖に腰を抜かしてしまった者もいた。
「ル、ルナ様! お止めください! ここは王都の入口です! 周囲に家屋が! 民が! 歴史ある商店街が!」
ゼフィロスの必死の叫びも、もう彼女の耳には届かない。ルナの目には、既に王室の約束を破った裏切り者たちへの怒りしか映っていなかった。
「約束を破った報いだ! お前ら、少しは痛い目見やがれ! 爆裂撃滅弾ッ!!」
ルナの叫びと共に、掌から放たれた紫色の巨大な魔力の塊は、一直線に、しかし誰にも向かわず、王都の入口にそびえ立つ、歴史ある「王都の門番通り商店街」の一角へと飛んでいった。そこは、早朝から活気に満ち、朝食を求める人々や、一日の商売の準備をする店主たちで賑わっている場所だった。
魔力の塊が、数十軒の店が軒を連ねる商店街のど真ん中に接触した瞬間、世界が揺れた。轟音と閃光が王都を襲い、衝撃波が地面を揺るがす。まるで巨大なハンマーで叩き潰されたかのように、商店街の半分が一瞬にして砂塵と化した。木製の店構えは吹き飛び、石造りの建物は粉々に砕け散り、そこには何も残らなかった。ただ、大きく抉られた地面の窪地と、大量の粉塵だけが、ルナの魔法の威力を物語っていた。熱波が周囲に広がり、焦げ臭い匂いが鼻を突く。
王都中から、悲鳴と怒号が上がる。割れた窓ガラスが降り注ぎ、食器棚から皿が落ちて砕ける音が方々で響き渡った。商店街の店主たちは、商売道具を失い、泣き崩れる者、泡を吹いて気絶する者まで現れた。王室から派遣された使者たちは、その場でへたり込み、完全に意識を失っている。ゼフィロスは、もはや胃だけでなく、全身が悲鳴を上げていた。彼の顔は蒼白を通り越し、青緑色に変じている。
「ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!」
ルクリアの高笑いが、悲鳴に変わった。彼女は、爆発の衝撃波で馬車の屋根に叩きつけられ、その派手な衣装がボロボロになっている。煙と砂塵の中から、彼女は満身創痍で現れた。
「ちょ、ちょっとルナ! 何なさいますのよ!? わたくし、死ぬかと思いましたわ! この麗しの美貌が、この輝かしい衣装が、台無しですわ! しかも、あんな商店街のど真ん中を! 民衆の悲鳴が聞こえませんの!? あなた、国王から依頼されたのですよ!? 感謝されても文句を言われる筋合いなど……!」
ルクリアは怒り心頭で、ルナに詰め寄った。その顔には、悔しさと怒りが露わになっている。
「フン! 自画自賛の高笑いを垂れ流すてめぇが悪いんだよ! そして、約束を破った王室もな! これで少しは懲りたろ? ほら、これで気分もスッキリしただろうが! さっさと馬車に乗りやがれ! 美食ツアーが待ってんだぞ! あぁ、もしかしたら、王室が予算をケチった罰で、商店街もぶっ飛んだのかもな!」
ルナは悪びれる様子もなく、そう言い放った。彼女の顔には、大魔法をぶっ放した後の満足感が満ち溢れている。まるで、ただのストレス解消をしただけのようだ。
ゼフィロスは、王都の入口にぽっかりと空いた巨大なクレーターを呆然と見つめた。あれだけのものを一瞬で消し去る魔法を、ただの「ちょっかい」や「約束が違う」という理由で使う少女。彼の胃袋は、もはや悲鳴を通り越し、静かに絶望の淵に沈んでいくのだった。王都の復旧費用が、天文学的な数字になることが、彼の脳内で弾き出されていた。
「まったく、仕方ねぇな。五つも町を通るだと? めんどくせぇな! チッ、だったら仕方ねぇ。おい、ゼフィロス!」
ルナは、そう言いながら、ぐしゃぐしゃになった地図をひったくるように手に取ると、そこに記された町や村の名を指でなぞり始めた。そして、次の瞬間には、彼女の表情はまるで幼い子供がご馳走を見つけたかのように、キラキラと輝き出した。
「ってことはだよ! 緑風の村は、きっとあの有名な『風の木の葉パイ』があるに違いねぇ! あれ、バターと果物の香りが最高なんだよな! そして湖畔の町ミストラルは、新鮮な湖魚のグリル! 特製ハーブソースがたまらねぇ! 商都バザールなら、何でも手に入るから、きっと『黄金のスパイスカレー』とかあるはずだ! あぁ、腹減ってきたじゃねぇか! 古城の村ロックフォールは……あぁ、ここは『岩ゴブリンの丸焼き』が名物だったな! ちょっとグロいけど、意外といけるんだよ! 最後は最後の砦グランベル! ここは『絶壁のチーズフォンデュ』! 山羊の乳から作られたチーズがとろとろで、パンとの相性抜群なんだよな!」
ルナは、まるで旅行ガイドブックを読み上げるかのように、流暢に、そして恍惚とした表情で、各町の「名物料理」を羅列し始めた。彼女の頭の中には、既に失踪事件の謎解きなどどこへやら、行く先々での食の楽しみでいっぱいだった。使者たちは呆然とし、ゼフィロスは額の青筋がさらに濃くなった。
「ルナ様! 今は事件の解決が最優先では……!」
「うっせぇな! 腹が減っちゃ、事件なんか解決できるわけねぇだろ! 食はすべての基本なんだよ! てめぇも後で食うから、文句言うな!」
ルナの言葉に、ゼフィロスは反論する気力さえ失った。彼の胃袋は、既にこれからの旅で摂取するであろう、カロリーと脂質の過剰摂取を予測し、悲鳴を上げ始めている。
「おーっほっほっほっ! まったくですわルナ! やはりわたくしのような美貌の魔導師には、美味しいものが不可欠なのですわ! ゼフィロス! わたくしは特に、湖畔の町ミストラルの湖魚のグリルを多めに用意していただきますわよ! もちろん、わたくし専用の特製ハーブソースも添えて!」
ルクリアは、馬車の窓から顔を出し、再び高笑いを響かせた。彼女の白い肌は陽光を反射し、ボロボロになった露出度の高い衣装が妙な色気を放っている。
王都から緑風の村へ:道草と破壊と満腹の旅
王都から砂漠王国サハラデスへ向かう道は、思ったよりも長く、そして、ルナにとって「退屈」だった。馬車は、最高級とは名ばかりの二流品。ガタガタと揺れる度に、ルナの機嫌は急降下する。
「ったく、あのクソ王室め……! こんなガタガタ馬車で、あたし様の究極の美食ツアーを台無しにするつもりか!? もう我慢ならねぇ!」
ルナは、馬車の窓から身を乗り出し、荒々しく空気を吸い込んだ。車窓を流れる景色は、王都の郊外から徐々に緑豊かな平原へと移り変わっていた。遠くには、緩やかな丘陵が連なり、所々に小川が蛇行しているのが見える。
「おい、ゼフィロス! もう昼飯の時間だろうが! どこかいい場所はないのか!?」
ルナの容赦ない言葉に、ゼフィロスは冷や汗を流しながら地図を広げる。
「ルナ様、この道はまだ『緑風の村』の手前でして、食事処のある町まではまだ少々距離が……」
「なんだと!? 馬鹿言え! あたし様が、そんなちまちま移動してる間に飢え死にでもしたら、どうすんだよ!?」
ルナの金色の瞳が、キラリと光った。その視線が、遠くに見える、せせらぎが聞こえてきそうな小川へと向けられる。
「あぁ、ちょうどいい。川があるじゃねぇか。魚でも捕って食うぞ!」
そう言い放つと、ルナは馬車の扉を蹴破るように開け、ヒラリと飛び降りた。あまりの唐突さに、ゼフィロスと御者は目を丸くする。
「ルナ様!? お待ちください! 危険ですから!」
ゼフィロスの制止も聞かず、ルナは一直線に小川へと向かった。澄んだ水がサラサラと流れ、陽光を反射してきらめいている。水面には、銀色の魚影がいくつか確認できた。
「フン! 捕まえる手間も惜しいわ!」
ルナは、川岸に立つと、躊躇なく両手を水面に向けた。その掌から、眩いばかりの魔力の光が放射される。それは、狙いを定めた魚群を、まるで磁石のように引き寄せ、水面に浮き上がらせる、一種の「強制捕獲魔法」だった。一瞬のうちに、小川のあらゆる場所から、大小様々な魚たちが、まるで釣られてもいないのにピチピチと跳ねながら、ルナの前に集められてきた。その量は、優に数百匹はあろうかという大漁だ。
「よし! こんなもんでいいだろ!」
ルナは満足げに頷くと、集められた魚たちを、まるで巨大な魚の塊のように宙に浮かべた。そして、次に彼女が取った行動は、ゼフィロスを再び絶望の淵に突き落とすものだった。
「さて、焼くぞ! 紅蓮爆炎ッ!!」
ルナの掌から放たれたのは、熱気を帯びた爆炎の渦だった。それは、魚の塊を包み込み、あっという間に香ばしい焼き魚へと変貌させていく。ジュウジュウと音を立て、あたりに食欲をそそる匂いが立ち込める。だが、その炎の勢いは凄まじく、魚の半分以上は真っ黒焦げになり、残りは焦げ付き寸前といった状態だ。
「おーっほっほっほっ! さすがはルナ! やはりこういう時は、わたくしのような美貌の天才魔導師が、魚を最高の状態に仕上げてさしあげなくては!」
その時、またしても高笑いと共に、ルクリアがルナの隣に現れた。彼女は、先ほどの爆発でボロボロになった衣装を、いつの間にか新しいものに着替えていた。どこから出したのか、釣り竿とバケツまで持っている。
「愚かな! そのような原始的な焼き方では、魚の旨味が全て逃げてしまいますわ! わたくしの氷晶燻煙であれば、内部からじっくりと熱を通し、旨味を凝縮させながら、表面はカリッと焼き上げられるのですわよ! おーっほっほっほっほっ!」
ルクリアは、自分の魔法の素晴らしさをアピールしながら、ルナが焼いた魚の山に手を伸ばそうとした。その手が、一番美味しそうな、まだ焦げ付いていない一匹へと伸びる。
その瞬間、ルナの瞳がギラリと光った。
「てめぇ、どこに手ェ伸ばしてやがる! あたし様が捕って、あたし様が焼いた魚だぞ! てめぇの分なんかねぇんだよ!」
ルナの言葉が響き終わるより早く、彼女の掌から紫電が迸った。
「電光石火ッ!!」
「ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!」
ルクリアの甲高い悲鳴が、再び空に響き渡る。彼女は、雷撃を受けて、まるで巨大な扇風機に吹き飛ばされたかのように、遥か彼方へと吹き飛ばされていった。その姿は、小さな点となり、やがて地平線の彼方に消え去った。
「ふん! 食い意地の張った奴はこれだから困る!」
ルナは、そう言い捨てると、一番焦げ目の少ない魚を鷲掴みにし、豪快に齧り付いた。アツアツの焼き魚は、少し焦げ付いているものの、香ばしさが口いっぱいに広がる。ルナは満足げな表情で、次々と魚を平らげていった。ゼフィロスは、その光景を呆然と見つめるしかなかった。彼の脳裏には、遥か彼方に吹き飛ばされたルクリアの安否よりも、またしても発生したであろう「未確認物体落下による地形破壊」のニュースが浮かんでいた。
お腹が満たされたルナは、満足げに手を拭った。あたりには、魚の焦げた匂いと、微かに残る魔法の匂いが漂っている。
「よし! 食った食った! さて、んじゃあ、次の町とやらに向かうか!」
ルナは馬車へと戻ろうとするが、すでに日は西に傾き、夕焼けが空を赤く染め始めていた。風がひんやりと肌を撫でる。
「ルナ様、申し訳ございません。この時間からでは、『緑風の村』まではたどり着けません。道も夜間は魔物の危険が……」
ゼフィロスの言葉に、ルナは面倒くさそうに溜息をついた。
「チッ、仕方ねぇな。じゃあ、今日はここで野宿だ。ゼフィロス、あたし様が快適に眠れるように、ちゃんと準備しとけよ。寝心地が悪かったら、この馬車ごとぶっ飛ばしてやるからな!」
そう言い残し、ルナはガタつく馬車の中へと消えていった。ゼフィロスは再び天を仰ぎ、もはや痛みを感じなくなった胃のあたりをそっと撫でた。夕焼けに染まる空の下、彼は一人、野営の準備に取り掛かる。遥か彼方に吹き飛ばされたルクリアが、無事に帰ってくるのかどうか、そして、明日の朝、ルナが何のトラブルも起こさずに目覚めるのかどうか、ゼフィロスには全く想像がつかなかった。彼の胃袋は、今日もまた、安息の地を見つけられないまま、夜の闇に沈んでいくのだった。
お腹が満たされたルナは、満足げに手を拭った。あたりには、魚の焦げた匂いと、微かに残る魔法の匂いが漂っている。
「よし! 食った食った! さて、んじゃあ、次の町とやらに向かうか!」
ルナは馬車へと戻ろうとするが、すでに日は西に傾き、夕焼けが空を赤く染め始めていた。風がひんやりと肌を撫でる。
「ルナ様、申し訳ございません。この時間からでは、『緑風の村』まではたどり着けません。道も夜間は魔物の危険が……」
ゼフィロスの言葉に、ルナは面倒くさそうに溜息をついた。
「チッ、仕方ねぇな。じゃあ、今日はここで野宿だ。ゼフィロス、あたし様が快適に眠れるように、ちゃんと準備しとけよ。寝心地が悪かったら、この馬車ごとぶっ飛ばしてやるからな!」
そう言い残し、ルナはガタつく馬車の中へと消えていった。ゼフィロスは再び天を仰ぎ、もはや痛みを感じなくなった胃のあたりをそっと撫でた。夕焼けに染まる空の下、彼は一人、野営の準備に取り掛かる。遥か彼方に吹き飛ばされたルクリアが、無事に帰ってくるのかどうか、そして、明日の朝、ルナが何のトラブルも起こさずに目覚めるのかどうか、ゼフィロスには全く想像がつかなかった。彼の胃袋は、今日もまた、安息の地を見つけられないまま、夜の闇に沈んでいくのだった。
夜の帳が降り、満天の星が夜空に瞬き始めた頃、ゼフィロスは簡易的な野営の準備を終えていた。馬車は、一応「最高級」という触れ込みだっただけあって、最低限の寝具は備わっている。ルナは既に馬車の中で、すやすやと寝息を立てているようだった。あの破壊の後で、よくもまあ呑気に眠れるものだと、ゼフィロスは内心で呆れる。
彼の胃は、昼間の衝撃とストレスで完全に麻痺していた。もはや空腹感も、胃痛も感じない。ただひたすらに、無の境地に達していた。それでも、騎士としての使命感が、彼を動かしていた。周囲に不審な動きがないか、警戒しながら、彼は静かに焚き火に薪をくべる。燃え盛る炎が、闇夜に揺らめく影を落とし、彼の疲れ切った横顔を照らす。
その時、森の奥から、けたたましい咆哮が響き渡った。
「グオオオオオオオオオオォッ!!」
それは、紛れもない魔物の雄叫びだ。ゼフィロスは、反射的に剣の柄に手をかけた。周囲の木々がざわめき、夜行性の鳥たちが一斉に飛び立つ。やがて、暗闇の中から、巨大な影が姿を現した。それは、毛むくじゃらの巨体に鋭い牙と爪を持つ、森の番人『グラウンド・ベア』だった。その巨体は、馬車の倍はあろうかという大きさで、赤い眼光が暗闇で不気味に光る。
「くっ……よりにもよって、グラウンド・ベアとは……!」
グラウンド・ベアは、縄張り意識が強く、不用意に近づいた者を容赦なく襲う凶暴な魔物だ。しかも、並みの攻撃では傷一つつけられない、強靭な皮膚を持つ。ゼフィロスは、冷や汗を流しながらも、冷静に状況を判断した。これでは、ルナを起こさずに、この魔物を退けるのは困難だろう。
「おーっほっほっほっ! なんて愚かで滑稽な獣ですこと!」
その時、馬車の屋根から、甲高い高笑いが響き渡った。見上げると、そこには、いつの間にか新しい衣装に着替えたルクリアが、両腕を広げて立っていた。彼女の肌は、夜の星光を受けて、一層白く輝いている。
「わたくしの氷晶絶景で、この醜い獣を凍りつかせて差し上げますわ! ゼフィロス、わたくしの華麗なる魔術に、酔いしれるがよいのですわ!」
ルクリアは、グラウンド・ベアに向かって、右手を突き出した。その掌から、凍てつくような冷気が噴出し、鋭い氷の槍が嵐のようにグラウンド・ベアへと降り注ぐ。それは、まさに芸術的な魔法だった。氷の槍は正確にグラウンド・ベアの皮膚に突き刺さり、その動きを鈍らせていく。しかし、グラウンド・ベアは、その巨体と強靭さで、氷の攻撃をものともせず、咆哮を上げながら馬車へと突進してきた。
「おーっほっほっほっ! わたくしの魔法を甘く見ると、痛い目を見ますわよ!」
ルクリアは、さらに強力な氷魔法を発動しようと、魔力を集中させる。彼女の周りに、氷の結晶が舞い始めた。だが、その時、馬車の扉が内側から勢いよく開いた。
「うるっせぇえええええええええええええええええええええええええ!!」
ルナの怒声が、夜の森に響き渡った。彼女は、寝癖でぼさぼさの金髪を揺らし、恐ろしい形相で馬車から顔を出す。その目は、まだ眠気を含んでいるものの、怒りで燃え盛る炎のように輝いていた。
「てめぇ、このクソアマ! 人がせっかく気持ちよく寝てたってのに、何が高笑いだ! うるせぇんだよ! そして、このデカい毛玉も何だ! あたし様の睡眠を邪魔しやがって、タダで済むと思うなよ!」
ルナは、グラウンド・ベアとルクリアを交互に睨みつけながら、激しく罵倒した。彼女にとって、魔物の襲撃も、ルクリアの高笑いも、全ては睡眠を妨害する不愉快な「邪魔」でしかなかった。
「おーっほっほっほっ! ルナ! わたくしはわたくしの魔法を披露しているのですよ! あなたの睡眠など、二の次ですわ!」
「黙れクソアマ! 後でてめぇはぶっ飛ばしてやる! まずはこいつだ!」
ルナは、そう言うと、グラウンド・ベアに向かって、何のためらいもなく右手を振り下ろした。その掌から、閃光と共に紫色の稲妻が迸る。それは、まるで生き物のように蠢きながらグラウンド・ベアの巨体に命中した。
「グオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッ!!!」
グラウンド・ベアは、断末魔の叫びを上げた。ルナの魔法は、強靭な皮膚など関係なく、その肉体を内部から焼き尽くすかのように、瞬く間に灰に変えてしまった。数秒後、そこには、巨大な灰の塊と、焦げ付いた地面だけが残っていた。
ゼフィロスは、口をあんぐりと開けて、その光景を呆然と見つめた。彼は、これまでもルナの破壊力を何度も目の当たりにしてきたが、目の前で巨大な魔物が塵となる様は、何度見ても衝撃的だった。彼の胃は、再び痛み出す兆候を示していた。
「ったく、これで静かになっただろ。まったく、寝る邪魔ばかりしやがって……。ゼフィロス、あとは頼んだぞ。あたしは寝る」
ルナは、そう言い残すと、あっという間に馬車の中に引っ込み、再び静かな寝息を立て始めた。
「ルナ様! 待ってください! あなた、今とんでもない魔法を……!」
ゼフィロスの呼びかけにも、ルナは全く反応しない。彼は、残された灰の塊と、口元で引きつった笑いを浮かべるルクリアを交互に見つめ、途方に暮れた。
「おーっほっほっほっ! ルナは少しばかりやりすぎですわね! わたくしの芸術的な魔法の方が、よほどスマートで美しいのですわ! ゼフィロス、あとはわたくしにお任せくださいまし! おーっほっほっほっ!」
ルクリアは、そう言いながら、またしても高笑いを始めた。その高笑いは、夜の静寂を打ち破り、森の動物たちを再び騒がせる。ゼフィロスは、その高笑いを聞きながら、胃が再びキリキリと痛み出すのを感じていた。
「ルクリア様……頼むから、もう静かにしてください……」
彼の小さな呟きは、ルクリアの高笑いにかき消されて、夜空へと消えていった。ゼフィロスは、夜が明けるまで、一睡もできずに、その場で立ち尽くすしかなかった。彼の胃は、今や完全に悲鳴を上げている。
夜が明け、東の空が白み始めた頃、ゼフィロスは疲労困憊の顔で、ようやく野営の後片付けを終えていた。空気はひんやりとして、朝露が草の葉の上で宝石のように輝いている。ルナは、未だ馬車の中でぐっすりと眠っている。その寝息は、まるで何もなかったかのように穏やかだ。ルクリアは、朝日に照らされて、より一層輝く自身の美貌に満足げな表情で、得意げに周囲を歩き回っている。彼女の金色の髪が、朝の光を浴びてキラキラと輝く。
「ゼフィロス! あなた、もっとわたくしの美しさを称賛するべきですわ! 夜中に魔物を退けたのは、わたくしのおかげなのですから! おーっほっほっほっ!」
ルクリアは、ゼフィロスに近づき、自慢げに胸を張る。その表情は、徹夜で準備を整えたゼフィロスの疲労を嘲笑っているかのようだ。
「ルクリア様……昨夜は、ルナ様が……」
「おーっほっほっほっ! 何をおっしゃいますの! ルナはただ、わたくしの魔法のおこぼれを貰っただけですわ! わたくしの氷晶魔法が、魔物の動きを封じたからこそ、ルナの魔法が効果を発揮できたのですわよ! おーっほっほっほっ!」
ルクリアは、ゼフィロスの言葉を完全に無視して、自分の手柄をこれでもかとばかりに主張し始めた。彼女の瞳は自信に満ち溢れ、まるで自分が世界を救った英雄であるかのように振る舞う。ゼフィロスは、これ以上反論する気力もなかった。彼の胃は、もう限界を通り越して、諦めの境地に入っていた。
ようやくルナが馬車から出てきたのは、朝日が完全に昇りきって、あたりが明るくなった頃だった。彼女は、大きく伸びをすると、不機嫌そうな顔でゼフィロスを睨んだ。寝癖でボサボサになった金髪が、太陽の光を浴びて、どこかコミカルに見える。
「おい、ゼフィロス! 早く出発しろ! 腹減っただろうが!」
ルナの容赦ない言葉に、ゼフィロスはうなだれた。彼は、昨夜から何も口にしていない。胃袋は、すでに機能停止寸前だ。しかし、ルナの言葉に逆らうことはできない。彼は重い体を引きずり、馬車の御者に指示を出す。
馬車は再び、ガタゴトと音を立てながら、森の中の道をゆっくりと進み始めた。夜間の魔物の襲撃で、道は荒れている箇所がいくつかあった。馬車の車輪が轍にはまる度に、ギシギシと不穏な音を立てる。ゼフィロスは、馬車の揺れで胃が刺激される度に、思わず顔を歪める。その顔色は、朝日に照らされても、まだ青白いままだ。
窓の外の景色は、徐々に変化していた。鬱蒼とした森を抜け、開けた平原に出ると、遠くに見える丘陵の起伏が、緑色の絨毯のように広がっている。空気は澄み切っていて、草木の匂いが鼻腔をくすぐる。どこからか、甘い花の香りが風に乗って運ばれてくる。鳥のさえずりが心地よく、蝶がひらひらと舞う。昨晩の喧騒が嘘のように、平和な光景だった。小鳥たちが楽しそうにさえずり、野花が風に揺れている。日の光が暖かく降り注ぎ、旅路を優しく包み込んでいるかのようだ。
「ほう……なるほどな。これが『緑風の村』か」
ルナが、馬車の窓から顔を出し、呟いた。彼女の金色の瞳には、すでに失踪事件の影はなく、ただただ「風の木の葉パイ」への期待で満ち溢れている。その顔は、まるで子供が遠足で目的地に到着するのを心待ちにしているかのようだ。彼女の心の中には、今、美味しいパイへの期待が、他のどんなことよりも優先されていた。
遠くに見える村は、その名の通り、豊かな緑に囲まれていた。村全体が、生命の息吹に満ちている。風がそよぐ度に、村の周囲を囲む木々が葉を揺らし、まるで歓迎の舞を踊っているかのようだ。村の中央には、ひときわ高くそびえる大きな木が見える。その枝には、風に揺れる小さな飾り物がいくつもぶら下がっている。あれが、きっと「風の木」だろう。その木からは、微かに甘い香りが漂ってきているような気がした。まるで、村全体が、美味しいパイの香りに包まれているかのような錯覚を覚える。
「ゼフィロス、急げ! 早く『風の木の葉パイ』を食わせろ! あたしの究極の美食ツアー、最初の関門だぞ!」
ルナの容赦ない言葉に、ゼフィロスはうなだれた。彼の胃は、もう限界だった。これから始まるであろう、緑風の村での「美食ツアー」という名の騒動を考えると、彼はただひたすらに、静かな眠りを求めていた。
「おーっほっほっほっ! ルナ! 『風の木の葉パイ』はわたくしが先にいただきますわよ! わたくしの美貌を称えるような、素晴らしい味わいを期待していますわ!」
ルクリアも、馬車の窓から顔を出し、高笑いを響かせた。彼女の瞳は、ルナと同じく、パイへの期待でキラキラと輝いている。ルナは、ルクリアの言葉に眉をひそめ、すぐにでも魔法を放ちそうな素振りを見せる。
「てめぇ、抜け駆けしようたってそうはさせねぇぞ! このパイは、あたし様の美食ツアーの第一歩なんだよ!」
二人の口論が、馬車の中に響き渡る。ゼフィロスは、その口論を聞きながら、胃が痙攣するのを感じた。
馬車が村の入口に差し掛かると、村人たちが珍しげにこちらを見ているのが見えた。彼らは、王都からの馬車がこれほど早く到着したことに驚いているようだった。素朴な笑顔で馬車を見つめる村人たち。彼らの表情には、都会の喧騒とは無縁の、穏やかな生活がにじみ出ている。しかし、彼らが本当に驚くべきは、これから村で巻き起こるであろう、嵐のような出来事だということを、彼らはまだ知る由もなかった。
こうして、ルナとルクリア、そしてゼフィロスの最初の目的地である緑風の村へと到着した。平和に見える村の風景は、これから巻き起こる破壊の序曲に過ぎない。ゼフィロスの胃は、すでに覚悟を決めていた。彼の騎士としての誇りも、この旅の終わりには、胃袋と共に消滅してしまうのではないか、そんな予感さえしていた。
緑風の村に到着した馬車は、村の広場に静かに停まった。朝日にきらめく露に濡れた石畳が、ひっそりと村の目覚めを告げている。村は、その名の通り、豊かな緑に抱かれ、穏やかな風が木々の葉を揺らしていた。遠くで、どこかの家の煙突から細い煙が立ち上り、焼きたてのパンのような、優しい香りが漂ってくる。しかし、この平和な光景が、まもなく魔女たちの食欲によって一変することになるとは、村人たちは夢にも思っていなかっただろう。
「よし! やっと着いたぜ、緑風の村!」
馬車から勢いよく飛び出したのは、待ちかねたように目を輝かせたルナだった。彼女の顔には、長旅の疲れなど微塵も感じさせず、むしろこれから始まる“美食ツアー”への期待に胸を膨らませているかのようだった。金色の髪が、朝の光を浴びてキラキラと輝き、まるで村の風景に溶け込むかのような自然な美しさがあった。しかし、その内には、強欲な食欲という名の破壊衝動が渦巻いている。
「おーっほっほっほっ! ゼフィロス、ご覧なさい! この村は、わたくしの美貌と才能を最大限に引き出すための、絶好の舞台ですわ! まずは、この村の美食で、わたくしの魔力を満たして差し上げましょう!」
続いて馬車から降り立ったのは、朝日に照らされてさらに輝きを増したルクリアだった。彼女は、村の広場に立つやいなや、両手を広げて大仰なポーズを決めた。その露出度の高い衣装は、村ののどかな風景にはあまりにも不似合いで、通りかかった村人たちは、目を丸くして彼女を見つめていた。ルクリアの瞳は、美食への期待で、ルナとはまた異なる、奇妙な煌めきを放っている。彼女にとって、美食は単なる空腹を満たすものではなく、自身の「美貌」と「才能」を輝かせるための「燃料」のようなものなのだろう。
「お、おい、ルナ様、ルクリア様! まずは、宿泊場所の手配と、失踪事件の情報収集が先では……」
ゼフィロスは、疲労困憊の顔で二人に近づき、弱々しく提案した。彼の胃は、昨夜の徹夜と魔物との遭遇で、すでに限界を迎えている。胃酸が逆流するような感覚が、常に喉の奥にへばりついていた。しかし、彼の言葉は、二人の耳には全く届いていないようだった。
「うるせぇな、ゼフィロス! 腹が減っちゃ、事件なんか解決できるわけねぇだろ! まずは腹ごしらえだ! この村の名物『風の木の葉パイ』を食いまくるぞ!」
ルナは、ゼフィロスをにらみつけ、迷いなく村の商店街へと足を進めた。彼女の嗅覚は、すでに美味しいものの匂いを捉えているようだった。
「おーっほっほっほっ! まったくですわルナ! わたくしは、この旅のために、特別な胃袋を調整してきましたのよ! ゼフィロス、わたくしの食事の用意は、完璧になさいませ!」
ルクリアもまた、ルナの後に続き、自信満々に胸を張る。その高笑いは、村の静寂を打ち破り、あちこちで驚きの声が上がる。村人たちは、目の前の二人の「美少女」から漂う、尋常ではない雰囲気に、ただただ圧倒されていた。
村の商店街は、小さな店が軒を連ねており、朝早くから活気が満ちていた。パン屋からは香ばしい匂いが漂い、八百屋には採れたての新鮮な野菜が並んでいる。そんな中、ルナが目指したのは、ひときわ多くの客で賑わう、一軒のパイ専門店だった。店の前には、甘く香ばしい匂いが漂い、すでに数人が列を作っている。
「ここか! 『風の木の葉パイ』の店は!」
ルナは、列に並ぶことなく、店の入口へと向かった。ゼフィロスは慌ててその後を追う。
「ルナ様! 並んでください!」
「うるせぇな! あたし様が並んでる時間なんかねぇんだよ!」
店の中は、焼きたてのパイの香りで満ち溢れていた。カウンターに並べられたパイは、どれも黄金色に輝き、食欲をそそる。ルナは、メニューをざっと一瞥すると、迷うことなく店員に告げた。
「おい! そこのメニュー、全部だ! それと、名物の『風の木の葉パイ』は、とりあえず10個だ!」
店員は、突然の大量注文に目を丸くした。普通の客なら、一度に頼むのはせいぜい1、2個だ。
「へ? え、全部でございますか? そして、木の葉パイが10個……?」
「ああ、そうだ! さっさと用意しろ!」
ルナの容赦ない言葉に、店員は戸惑いながらも、慌てて準備に取り掛かろうとする。その時、ルクリアがルナの隣に割り込んだ。
「おーっほっほっほっ! ルナ! あなたはなんて控えめですの! 美食とは、大胆不敵に挑戦してこそ、真の悦びを得られるものですわ! ゼフィロス! わたくしは、ここのメニュー、全てと、それに加えて**『風の木の葉パイ』を特注で20個**用意させなさいませ!」
ルクリアは、自信満々に胸を張り、店員に指示を出した。その声は、店内に響き渡り、他の客たちも驚いて振り返る。
「と、特注で20個でございますか!? かしこまりました……少々お時間をいただきますが……」
「おーっほっほっほっ! もちろんですわ! 時間をかけて、わたくしが満足できる最高のパイを焼き上げるのですわよ! お金は、もちろん王室に請求でよろしくってよ! ゼフィロス、ちゃんと確認しなさいませ!」
ゼフィロスは、その言葉を聞いて、胃の痛みが限界を突破したのを感じた。王室への莫大な請求額が、彼の脳内で計算され、彼の顔はさらに青ざめていく。彼は、もはや言葉を発することさえできなかった。
「てめぇ、ルクリア! 抜け駆けしやがって! しかも特注だと!? ふざけんな! あたし様の方が先に注文したんだぞ!」
ルナは、ルクリアの行動に激怒し、今にも魔法を放ちそうな勢いで睨みつけた。しかし、そこは美食を前にして、なんとか理性が働いたようだった。
やがて、焼きたてのパイが次々とテーブルに並べられた。その中でもひときわ輝いていたのが、『風の木の葉パイ』だった。黄金色に焼き上げられた表面には、繊細な木の葉の模様が刻まれており、見る者を魅了する。皿に乗せられた瞬間から、甘く芳醇なバターと、爽やかな果物の香りが、ふわりとあたりに広がる。その香りは、食欲を極限まで掻き立てる。
ルナは、我慢しきれないといった様子で、パイを一つ手に取った。まだ温かいパイの表面は、サクサクとした音を立て、一口齧ると、中のバターがじゅわっと溶け出し、甘酸っぱい果物のフィリングと絶妙に絡み合う。
「うめぇ……! なんだこれ、すげぇうめぇじゃねぇか! バターの香りがたまらねぇ! 果物も新鮮で、甘すぎず、酸味も効いてやがる! これぞ究極のパイだぜ!」
ルナは、至福の表情で目を閉じ、その味を心ゆくまで堪能した。彼女の口元には、パイのカスが少しついていたが、そんなことさえ気にならないほど、彼女はパイに夢中だった。その様子は、まるで子供のように純粋な喜びに満ちている。
「おーっほっほっほっ! ルナ、わたくしが焼かせた特注品は、もっと素晴らしいですわよ!」
ルクリアは、誇らしげに特注のパイを手に取り、一口齧った。彼女のパイは、ルナのものよりも、さらに深い黄金色をしており、表面にはキラキラと輝く砂糖の結晶がまぶされている。一口齧ると、ルナのパイよりも濃厚なバターの香りが広がり、中の果物のフィリングは、より上品な甘さに仕上がっていた。
「くっ……! なんて完璧な味わいですこと! バターのコクと、果物の甘みが、絶妙なバランスで溶け合っていますわ! これぞ、わたくしの美貌に相応しい、芸術品ですわね!」
ルクリアは、恍惚とした表情で目を閉じ、自らのパイに酔いしれた。
「なっ……てめぇ、そんな姑息な手で!」
ルナは、ルクリアの特注パイの存在に気づくと、一瞬で不機嫌な顔になった。彼女は、自分のパイを高速で平らげると、ルクリアのパイへと手を伸ばそうとする。
「てめぇのパイも寄越せ! あたし様のパイの方が美味いに決まってるが、てめぇの特注品とやらも試食してやるよ!」
「おーっほっほっほっ! 何をおっしゃいますのルナ! これはわたくし専用のパイですわ! あなたのような野蛮な食べ方をする方に、この芸術品を味わう資格などありませんわ!」
ルクリアは、パイを胸元に抱え込み、ルナから守ろうとする。その表情には、普段の傲慢さとは異なる、子供のような純粋な所有欲が浮かんでいた。
「んだとぉ!? てめぇ、このクソアマ! あたし様に食わせねぇってのか!? いい度胸してやがるな! 爆裂撃滅弾でぶっ飛ばしてやる!」
ルナの掌から、再び紫色の魔力の光が集中し始める。店内の空気は一瞬で張り詰め、他の客たちは震え上がって後ずさる。
「ひぃぃぃぃぃぃ! ちょっとお待ちくださいませルナ様! わたくしはただ、あなたにわたくしの魔法の素晴らしさを知っていただきたかっただけでございますのよ! ほ、ほら、これ、一口だけ、一口だけですから!」
ルクリアは、慌ててパイの一部をルナに差し出した。ルナは、そのパイをひったくるように受け取ると、一口齧った。
「ちっ……まぁ、悪くはねぇな。だが、あたし様の焼き方の方が、もっとワイルドで美味いぜ!」
ルナは、そう吐き捨てると、すぐに自分のパイを再び平らげ始めた。結局、二人は、それぞれのパイを高速で食べ尽くし、テーブルの上に残ったのは、空になった皿の山だけだった。ゼフィロスは、その光景をただ見つめるしかなかった。彼の胃は、もはや完全に機能停止し、胃酸の泉と化していた。店員は、呆然とした顔で、大量の皿の山と、信じられないほどの請求額が記載された伝票を眺めていた。
情報収集と馬車のグレードアップ、そして新たな企み
食事を終えたルナは、ようやく落ち着いたようだった。彼女は、満足げに腹をさすると、ゼフィロスに指示を出した。
「よし、ゼフィロス。腹も満たされたことだし、次は情報収集だ。酒場に行けば、何か面白い情報が手に入るだろう」
「かしこまりました、ルナ様。この村で一番大きな酒場へ案内いたします」
ゼフィロスは、店員に王室への請求書を渡し、店を後にした。彼の足取りは、心なしか重い。
緑風の村の酒場は、昼間にも関わらず、多くの村人たちで賑わっていた。木製のカウンターには、様々な酒が並べられ、談笑する声が響き渡る。壁には、村の歴史や、近隣の森に生息する魔物たちの情報が張り出されている。
ルナは、酒場の片隅にある空いたテーブルに座ると、周りの客たちを観察し始めた。彼女の鋭い視線は、まるで獲物を探す猛禽のようだ。ルクリアは、その隣に座ると、早速ウェイターを呼びつけた。
「ゼフィロス! わたくしに最高級の果実酒を! もちろん、グラスはクリスタル製でよろしくってよ! おーっほっほっほっ!」
ルクリアは、ここでも自分の贅沢な要求を忘れない。ゼフィロスは、もはや諦めの境地でウェイターに注文を伝えた。
ルナは、耳を澄ませて、酒場の会話に聞き入る。村人たちは、農作物の収穫や、家族のこと、そして最近の不審な出来事について話している。その中に、わずかながら、令嬢失踪事件に繋がるような言葉が聞こえてきた。
「そういえば、隣村の娘さんも、最近姿が見えねぇって話だなぁ。王都の貴族の娘さんたちも、次々消えてるっていうし、なんか不気味だよなぁ」
「ああ、そうだな。俺たちの村じゃまだそんな話は聞いてねぇが、いつ何時、うちの娘も消えちまうかと思うと、気が気じゃねぇよ」
ルナの瞳が、僅かに輝いた。彼女は、ゆっくりと立ち上がると、その会話をしていた村人たちのテーブルへと近づいた。
「おっさんたち、ちょっといいか?」
ルナの突然の問いかけに、村人たちは驚いて振り返る。ルナのあまりにも可愛らしい容姿と、その口から発せられる「おっさん」という言葉のギャップに、彼らは戸惑っていた。
「あんたらが話してた、娘さんが消えるって話、詳しく聞かせてくれよ。あたし様が、その事件を解決してやるぜ!」
ルナの言葉に、村人たちは半信半疑の表情を浮かべた。しかし、ゼフィロスが王室の紋章が入った身分証を提示すると、彼らの態度は一変した。彼らは、ルナが王室から派遣された調査員であると知り、失踪事件に関する情報を語り始めた。
「そう言えば、先月、この近くだと、『霧降りの里』の商家の娘さんが消えたって話がありましたな……。朝には普通にいたってのに、夕方にはどこにも姿が見えねぇって。まるで霧に消えるように、って皆言ってましたぜ」
「ああ、あの娘さんなら、最近見慣れない男と会ってたらしいぜ。いつも顔を隠してて、夜遅くにこっそり会ってたって。そいつが怪しいって噂も……」
「そういや、その男、妙に顔が青白かったとか、喋り方が不自然だったとか、色々噂はありましたな。けど、誰も捕まえようとした奴はいねぇ。不気味すぎて近寄れねぇって」
村人たちは、それぞれが知っているわずかな情報を、熱心にルナに伝えた。彼らの顔には、事件への恐怖と、そしてわずかながらの希望が入り混じっていた。ルナは、それらの情報を注意深く聞き取り、頭の中で整理していく。彼女の頭脳は、金儲けと美食のことだけでなく、意外なほど優秀なのだ。失踪事件の背後にある、不穏な影を感じ取っていた。
「なるほどな……。見慣れない男か。それが今回の事件の鍵になりそうだな。『霧降りの里』か……」
ルナは、そう呟くと、再びゼフィロスに視線を向けた。彼女の瞳には、新たな企みが宿っている。
「ゼフィロス! 馬車だが、もっと豪華なやつを用意しろ! さすがにあのオンボロ馬車じゃ、あたし様の美貌が霞むってもんだ! こんなガタガタ揺れる馬車で、次の美食ツアーまで移動するなんて、あたし様の美学に反するぜ!」
「は、はあ……しかし、ルナ様、すでに王室の予算は……」
ゼフィロスは、冷や汗を流しながら、必死に食い下がろうとする。彼の胃は、もう悲鳴を上げる気力さえ失っていた。しかし、ルナの言葉は、彼の抵抗を許さなかった。
「うるせぇ! 王室の予算なんか知ったこっちゃねぇんだよ! 事件を解決するには、最高の環境が必要なんだ! 最高の馬車、最高の食事、最高の寝床! これが揃ってこそ、最高のパフォーマンスが発揮できるってもんだ! お金は、もちろん王室へ請求だ! 今度は、寝台付きで、魔導炉で動く最新型の豪華馬車にしろ! 揺れ一つ感じさせない、まるで雲に乗っているような乗り心地のやつだ! あと、車内には、いつでも焼きたてのパイが食べられるように、小型の魔導オーブンも積んでおけ!」
ルナは、そう言い放つと、ニヤリと口角を吊り上げた。その表情は、まさに悪魔的だった。ゼフィロスは、頭を抱え、その場で崩れ落ちそうになった。彼の胃は、もはや胃酸の海で溺れている。
「おーっほっほっほっ! まったくですわルナ! やはり、わたくしのような美貌の魔導師には、最高の移動手段が不可欠なのですわ! ゼフィロス! わたくしの部屋は、広々としたスイート仕様で、最高級のシルクのシーツと、豪華なシャンデリア付きでよろしくってよ! もちろん、専属の執事と、専属のシェフも忘れずに! あと、わたくしの美貌を保つための、最高級の化粧品と、朝晩のスペシャルフェイシャルエステも忘れずに手配するのですわよ!」
ルクリアも、ルナに負けじと、さらに上を行く要求を突きつける。その高笑いは、酒場全体に響き渡り、村人たちは呆然と二人の魔女を見つめていた。彼らの目には、恐怖と呆れが入り混じったような感情が浮かんでいる。
「てめぇ、どこまで調子に乗ってやがる! あたし様の要求に便乗しやがって! 後で、てめぇもぶっ飛ばしてやるからな!」
ルナとルクリアの新たな言い争いが始まり、酒場は一瞬にして騒然となった。ゼフィロスは、その喧騒の中で、ただ静かに胃を抱え込み、天を仰いだ。彼の胃は、もはや痛みを感じない。彼の心の中には、ただただ絶望だけが広がっていた。王室の財政は、今回の旅で確実に破綻するだろう。そして、彼の胃袋も。彼は、この旅が終わる頃には、抜け殻のようになっているかもしれない、そんな予感さえしていた。
こうして、緑風の村での情報収集は、新たな美食と、さらなる豪華要求、そしてゼフィロスの胃の悲鳴と共に幕を閉じた。彼らの旅は、事件解決の道へと進むどころか、王室の財政破綻への道をまっしぐらに進んでいるようだった。次の目的地、『霧降りの里』では、一体どんな騒動が待ち受けているのだろうか。
緑風の村での騒動を終え、ゼフィロスは疲労困憊の体で、次の目的地である**『霧降りの里』**への道程を思案していた。彼の胃は、もはや痛みさえ通り越して、諦観の境地に達している。しかし、彼の心には、騎士としての微かな使命感と、そしてルナとルクリアという二人の「魔女」をどうにかする、という途方もない任務が残されていた。
馬車の前では、ルナとルクリアが、これから購入する食料品のリストについて、またしても口論を繰り広げていた。
「いいかルクリア! 今回はあたし様がメインシェフだ! 『霧降りの里』に着くまでの道のりは長いんだ。ここはあたし様の好物を中心に選ばせてもらうぞ!」
ルナは、腕組みをして、威張ったように告げた。彼女の瞳は、まるでこれから始まる戦いを前にした猛者のように、ギラギラと輝いている。その戦いとは、美食の買い込みという名の、財布(王室の)を巡る戦いだった。
「おーっほっほっほっ! なんと愚かなことをおっしゃいますのルナ! この麗しの美貌を持つわたくしが、旅路の食料を全てあなたの好物でまかなうなど、言語道断ですわ! わたくしの洗練された舌に合わせた、上品で繊細な食材こそ、この旅には不可欠なのですわ!」
ルクリアは、胸を張り、高笑いを響かせた。彼女の手には、どこからともなく取り出したのだろう、真っ白なレースの扇子が握られており、優雅にパタパタと扇いでいる。その仕草は、一見すると上品だが、その実、ルナへの対抗意識を燃やしているのがありありと見て取れた。
「うるっせぇな! てめぇの好みなんか知ったこっちゃねぇんだよ! 大体、上品で繊細なもんばかり食ってて、腹が膨れるのか!? 旅路には、ガッツリと腹にたまるものが一番なんだよ!」
ルナは、そう言い放つと、ゼフィロスに振り返った。
「ゼフィロス! この村で手に入る美味いもん、全部リストアップしろ! そして、それを全部買い占めるんだ! お金は、もちろん王室請求でよろしくな!」
ゼフィロスは、その言葉に思わず膝から崩れ落ちそうになった。胃が悲鳴を上げる。
「ルナ様! 全部でございますか!? この村の食料品全てとなると、かなりの量になりますし、王室の財政が……」
「なんだと!? ケチケチすんじゃねぇぞ! 旅の途中で腹が減って、あたし様の機嫌が悪くなったら、どうなるか分かってんだろうな!?」
ルナの掌から、すでに紫電が迸り始めている。ピリピリとした空気が、ゼフィロスの肌を刺す。彼は、全身から冷や汗を吹き出しながら、必死に頭を下げた。
「は、はい! かしこまりました! 全力で手配させていただきます!」
「おーっほっほっほっ! そうですわゼフィロス! あなたの使命は、わたくしとルナに最高の美食を提供することですわ! わたくしは特に、村の特産品である『朝露の果実ジャム』を大量に買い込んでいただきますわよ! それと、『黄金小麦のハードパン』も忘れずに!」
ルクリアもまた、得意げに注文を追加した。彼女の瞳は、ジャムとパンを思い浮かべているのか、うっとりと夢見がちな表情を浮かべている。
ゼフィロスは、その要求に、もはや何も感じなかった。彼の胃は、感情の限界を超え、無に帰している。彼はただ、人形のように首を縦に振るしかなかった。
村の商店街は、昨日とは比較にならないほどの活気に包まれた。ゼフィロスの指示を受けた村人たちは、目を丸くしながらも、王室からの莫大な注文に喜び、競うように商品を運び出す。
パン屋からは、焼きたての『黄金小麦のハードパン』が次々と運び出される。その香ばしい匂いは、村中に広がり、食欲をそそる。八百屋からは、色とりどりの新鮮な野菜や果物が。肉屋からは、香辛料で下味をつけられた肉の塊が。そして、加工品店からは、ルクリアが熱望する『朝露の果実ジャム』が、樽ごと運び出されていく。
「おーっほっほっほっ! これでこそ、わたくしの旅路に相応しい食料ですわ!」
ルクリアは、大量のジャムの樽を見て、満足げに高笑いした。その高笑いは、村中に響き渡り、村人たちは呆れたような、しかし嬉しそうな表情で、その光景を見つめていた。
ルナは、運び込まれる肉の塊や、ずっしりと重いパンを見て、ニヤリと笑った。
「フン、いいんじゃねぇか。これで道中、退屈しねぇで済むな!」
馬車には、積みきれないほどの食料品が山積みになった。ゼフィロスは、会計を済ませる際、村長から手渡された請求書を見て、思わず卒倒しそうになった。王室の年間予算の半分は、この二人の「美食ツアー」で消えるだろう。彼の胃は、すでに麻痺しているため、痛みを感じることはないが、代わりに冷たい汗が背中を伝っていた。
緑風の村を後にした馬車は、食料を満載し、重々しい音を立てながら進んでいく。村から続く道は、徐々に緑が深くなり、木々が道を覆い隠すように生い茂っていた。空気はひんやりとして、森の奥からは、微かに鳥の声や、風の音が聞こえてくる。
「さて、出発するぞ! ゼフィロス、あたし様が腹減ったって言ったら、すぐに飯を用意しろよ!」
馬車の中では、ルナが早速、昼食の準備を命じた。彼女は、馬車の中に積まれた食料品を、まるで宝の山のように目を輝かせながら眺めている。
「かしこまりました、ルナ様。どのようなお食事をご所望でございますか?」
ゼフィロスは、もはや慣れた様子で尋ねた。彼の口調は、感情を失ったロボットのようだ。
「フン、そうだな……。まずは、あの『黄金小麦のハードパン』だ! あれを丸ごと一つ、あたし用に焼いて、それに肉を挟んで食うぞ!」
ルナは、豪快なメニューを言い渡した。ゼフィロスは、小型の魔導オーブンを取り出し、パンを温め始める。香ばしい匂いが、馬車の中に広がる。
「おーっほっほっほっ! ルナ、わたくしはそんな野蛮な食事は好みませんわ! ゼフィロス、わたくしには、『朝露の果実ジャム』をたっぷり塗ったパンと、香り高いハーブティーをお願いしますわ!」
ルクリアは、優雅な姿勢で、ティーカップを手に持っている。彼女の指には、いつの間にか、煌びやかな指輪がはめられていた。
ゼフィロスは、ルクリアの要求にも従い、ハーブティーを淹れ、ジャムを塗ったパンを用意する。彼の動きは、もはや思考を伴わず、ただひたすらに命令を実行する機械のようだった。
ルナは、焼きたてのハードパンに、香ばしく焼かれた肉を挟み、豪快にかぶりついた。肉汁が口いっぱいに広がり、パンの香ばしさとの相乗効果で、至福の表情を浮かべる。
「うめぇぇぇぇ! これだよこれ! 旅の食事はこうでなくっちゃな! 野蛮だとかなんだか知らねぇが、この美味さの前には、どんな上品なものも霞むぜ!」
ルナは、満足げに肉を平らげると、次々とパンを平らげ始めた。その食べっぷりは、まさに圧巻だ。
一方、ルクリアは、ジャムを塗ったパンを一口ずつ丁寧に味わっていた。彼女の白い指が、パンの表面を優しくなぞる。
「くっ……! なんて芳醇な香りですこと! このジャムは、まるで朝露の輝きを閉じ込めたようですわ! 口の中で広がる果実の甘みと酸味のバランスが、完璧ですわね!」
ルクリアは、うっとりと目を閉じ、至福の表情を浮かべる。彼女は、一口食べるごとに、自分の美貌が磨かれていくかのように、満足げな高笑いを響かせた。
「おーっほっほっほっ! やはり、美食はわたくしの美貌をさらに輝かせる、最高の秘薬ですわ!」
ルナは、その高笑いに眉をひそめた。
「うるせぇな! 自分の美貌だなんだか知らねぇが、食いすぎたらデブになるだけだろうが!」
「なんですってぇ!? このわたくしがデブですって!? 無礼な! わたくしのこの完璧なプロポーションは、美食によって保たれているのですわ!」
ルクリアは激怒し、ティーカップを勢いよくテーブルに置いた。ティーカップから、ハーブティーがこぼれ落ちる。
「フン! そんなもん、てめぇの気のせいだろうが! あたし様は、食いてぇもん食って、暴れてりゃ、勝手に体型維持できるんだよ!」
二人の言い争いは、馬車の中に延々と響き渡った。ゼフィロスは、その喧騒の中で、ただひたすらに食事の準備を続ける。彼の胃は、もはや何も感じない。しかし、彼の心の中には、この旅路の終焉を願う、かすかな祈りが芽生えていた。
道中、馬車は様々な風景の中を進んだ。緑豊かな平原から、深い森へと入っていくと、木々の間から差し込む木漏れ日が、まるで幻想的な光の絨毯のように地面を照らしていた。時折、小鳥のさえずりが聞こえ、遠くには鹿の群れが草を食む姿が見える。
しかし、ルナとルクリアは、その美しい風景には目もくれず、ひたすらに美食を貪り続けていた。ルナは、肉の塊を豪快に齧り付き、その度に満足げな唸り声を上げる。ルクリアは、様々な種類のチーズやドライフルーツを、まるで宝石のように指でつまみ、優雅に口に運ぶ。彼女は、一口食べるごとに、詩的な言葉でその味を表現し、高笑いを響かせる。
「くっ……この『森の恵みチーズ』は、熟成された深いコクと、微かな土の香りが、わたくしの舌を刺激しますわ! まるで、森の精霊が、わたくしに語りかけているようですわね!」
「うるせぇ! ただのチーズだろうが! あたし様は、この『野猪のソーセージ』の方が美味くて好きだぜ! 炭火で焼いた香ばしさがたまらねぇんだよ!」
二人の食べ方は対照的だが、その食欲は底なしだった。馬車に積まれた大量の食料品は、あっという間に減っていく。ゼフィロスは、減っていく食料品の量と、王室への請求額を頭の中で計算し続け、その度に顔を青ざめさせた。
「ルナ様、ルクリア様……そろそろ、食料の補給も考えないと……」
ゼフィロスが恐る恐る提案すると、ルナは不機嫌そうな顔で振り返った。
「何言ってんだ、ゼフィロス! まだ半分も食ってねぇだろうが! まだまだ食えるぞ!」
「おーっほっほっほっ! そうですわゼフィロス! わたくしは、まだデザートを頂いておりませんわ!」
ルクリアは、どこからともなく取り出した、色とりどりの菓子を手に、優雅に微笑んだ。その菓子は、緑風の村の特産品ではなかった。おそらく、ルクリアがどこかでこっそり購入していたのだろう。
ゼフィロスは、馬車の外の風景に目を向けた。森の木々は、次第に背が高くなり、鬱蒼とした雰囲気を増していた。地面には、湿った苔が生え、空気が重く感じられる。遠くからは、カラスの鳴き声のような、不気味な音が聞こえてくる。
「そろそろ、『霧降りの里』に近づいているようですね……」
ゼフィロスは、内心で呟いた。彼の胃は、もはや空腹感も満腹感も感じない。ただ、漠然とした不安だけが、彼の心を支配していた。霧降りの里は、その名の通り、常に深い霧に覆われているという。そこで、どのような危険が彼らを待ち受けているのだろうか。
日が傾き、あたりが薄暗くなってきた頃、馬車は、一本の細い山道へと差し掛かった。道の両脇には、高くそびえる木々が鬱蒼と生い茂り、昼間でも薄暗い。そして、あたりには、白い靄が立ち込め始めていた。まるで、道の先が、霧の向こうに消え去ってしまいそうな、幻想的な光景だった。
「おーっほっほっほっ! ゼフィロス! これが『霧降りの里』ですのね! なんて神秘的な場所でしょう! わたくしの美貌が、この霧の中で、より一層輝くこと間違いなしですわ!」
ルクリアは、馬車の窓から身を乗り出し、霧の風景に感嘆の声を上げた。彼女の顔には、美への飽くなき探求心が浮かんでいる。
「チッ、気味悪ぃな。こんな薄気味悪い所で、美味しいもんがあるのかよ」
ルナは、不機嫌そうな顔で、霧の立ち込める風景を睨みつけた。彼女の視線は、霧の向こうに隠された美食を求めているかのようだ。彼女にとって、神秘的な風景よりも、美味しい食べ物の有無の方が重要だった。
馬車は、霧の中をゆっくりと進んでいく。霧は次第に濃くなり、視界は数メートル先までしか見えなくなった。周囲の木々は、霧の中にぼんやりとシルエットを浮かび上がらせ、まるで亡霊のようにも見えた。
「ゼフィロス……道、合ってるんだろうな? こんな霧の中で迷ったら、どうするんだよ」
ルナは、不安げな声で尋ねた。彼女の表情には、いつもの傲慢さはなく、少しだけ焦りの色が見て取れた。
「大丈夫でございます、ルナ様。この道は、里へと続く唯一の道ですので。ただ、霧が深いので、慎重に進みます」
ゼフィロスは、手綱を握る御者に指示を出し、速度を落とさせた。彼の心臓は、薄暗い霧の中で、ドクドクと音を立てていた。
その時、霧の中から、微かに奇妙な音が聞こえてきた。それは、まるで誰かがすすり泣いているような、か細い声だった。
「ひぃっ! な、なんですの、この声は!?」
ルクリアは、恐怖で顔を青ざめさせ、ゼフィロスの腕にしがみついた。普段の傲慢な態度はどこへやら、彼女の瞳は恐怖に震えている。
「くっ……魔物か!?」
ゼフィロスは、剣の柄に手をかけ、警戒した。しかし、彼の胃は、極度の緊張で再び痙攣を始めた。
「うるせぇな! 泣き声なんか気にしてる場合か! 食うもんねぇなら、さっさと里に着け!」
ルナは、そう言い放つと、魔導炉の火力を上げさせ、馬車の速度を速めさせた。馬車は、轟音を立てて霧の中を突っ走る。その様子は、まるで霧の海を切り裂く、巨船のようだった。
そして、しばらく進むと、霧の中に、ぼんやりと建物の影が見えてきた。
「あれが……『霧降りの里』か……」
ゼフィロスは、安堵の息を漏らした。同時に、彼の胃も、極度の緊張から解放されたのか、再び激しい痛みを訴え始めた。
馬車が里の入口に差し掛かると、霧の中から、数人の人影が現れた。彼らは、顔に布を巻き、警戒した表情で馬車を見つめている。彼らの視線は、まるで異邦人を見るかのような、冷たいものだった。
ルナは、馬車から降りると、不機嫌そうな顔で里の入口を睨んだ。
「フン、やっと着いたな。さっさと美味いもんを出せよ!」
ルクリアは、ルナに負けじと、優雅な仕草で馬車から降り立った。彼女は、霧の中で自分の美貌が際立つことを確信しているかのように、高笑いを響かせた。
「おーっほっほっほっ! ゼフィロス! わたくしの美貌が、この霧の中で、一層輝いているでしょう!? まずは、この里の美食で、わたくしの美貌をさらに磨き上げるのですわ!」
ゼフィロスは、里人たちの冷たい視線と、二人の魔女の暴走を前に、ただひたすらに胃を抱え込むしかなかった。彼の胃は、もう限界を通り越して、静かに魂を失いかけていた。
こうして、ルナとルクリア、そしてゼフィロスの旅は、次の目的地である『霧降りの里』へと到着した。
馬車が『霧降りの里』の入り口に到着した瞬間、ゼフィロスの胃は、これまでにないほどの激痛に襲われた。まるで、胃の奥底に、溶岩が流れ込んできたかのような灼熱感だ。それは、疲労とストレスが極限に達したことで、彼の胃がもはや消化活動を放棄したことを示す、最後の悲鳴だった。あたりは、その名の通り、深い霧に覆われ、視界は数メートル先までしかない。里の建物は、ぼんやりとした影となって、まるで水墨画の世界に迷い込んだかのようだった。湿った冷気が肌を刺し、ひんやりとした空気が肺を満たす。
「うわぁ……何だか薄気味悪いところだな……」
ルナは、馬車から降りるなり、顔をしかめた。彼女の金色の髪も、霧の中で心なしかくすんで見える。美食への期待に満ちた瞳も、この不穏な雰囲気には、さすがに少しばかり戸惑いを隠せないようだった。しかし、その戸惑いは一瞬で吹き飛んだ。
「おーっほっほっほっ! なんて神秘的な里ですこと! この霧が、わたくしの美しさをさらに引き立ててくれますわ! ゼフィロス、わたくしの麗しい姿を、この霧の中で心ゆくまで堪能なさいませ!」
ルクリアは、馬車から優雅に降り立つと、両腕を広げてポーズを決めた。彼女の白い肌と、煌びやかな衣装は、灰色の霧の中で異様なほど鮮やかに浮かび上がる。彼女の言葉は、まるで霧を切り裂く高笑いのように、里全体に響き渡った。里人たちは、その突然の闖入者たちに、驚きと警戒の視線を向けている。彼らの表情は、霧のように重く、どこか陰鬱な雰囲気が漂っていた。
「ゼフィロス! ぼやぼやしてないで、さっさと美味いもんを探しに行くぞ! 腹が減って、霧が余計に気味悪く感じるんだよ!」
ルナは、ゼフィロスを振り返り、命令した。彼女の食欲は、どんな不穏な空気にも打ち勝つ、最強の原動力だった。彼女にとって、この里の神秘性よりも、腹を満たすことの方がはるかに重要だった。
「かしこまりました、ルナ様……。しかし、まずは宿の手配と、情報収集を……」
ゼフィロスは、か細い声で食い下がろうとする。しかし、ルナの耳には、彼の言葉は届いていない。
「うるせぇ! 宿なんか後だ! まずは、食う! 食って、元気を出さなきゃ、事件なんざ解決できるか!」
ルナは、里の通りを歩き始めた。その足取りは、まるで獲物を探す猛獣のように迷いがない。彼女の鼻は、すでに美味しそうな匂いを嗅ぎつけているようだった。
「おーっほっほっほっ! まったくですわルナ! わたくしは、この里の美食で、わたくしの魔力をさらに満たさなければなりませんわ! ゼフィロス、この里で一番の美食を、わたくしに提供しなさいませ!」
ルクリアも、ルナの後を追う。彼女の瞳は、美食への期待でキラキラと輝いている。ゼフィロスは、二人の背中を見つめ、深いため息をついた。彼の心は、もはや絶望の淵に沈んでいた。
里の中央には、ひときわ大きな建物があった。そこは、食事処と酒場を兼ねた場所のようで、中からは香ばしい匂いと、人々のざわめきが聞こえてくる。ルナは、迷わずその店の扉を開けた。店の中は、温かい光と、食欲をそそる匂いで満ちていた。霧の里の寒さとは対照的に、中は活気に満ちている。
「おい! そこの店主! ここのメニュー、全部だ! それと、この里の名物は何だ!? あるもん全部出せ! 金は王室持ちで頼むぞ!」
ルナは、席に着くなり、威張ったように告げた。店主は、突然の言葉に目を丸くし、他の客たちも、一斉にこちらを振り返った。彼らの顔には、驚きと、そしてどこか警戒の色が浮かんでいる。
「へ? え、全部でございますか? そして、王室……?」
「ああ、そうだ! さっさと用意しろ! あたし様は腹ペコなんだよ!」
ルナの容赦ない言葉に、店主は戸惑いながらも、慌てて準備に取り掛かろうとする。その時、ルクリアがルナの隣に割り込んだ。
「おーっほっほっほっ! ルナ! あなたはなんて控えめな注文ですこと! 店主! わたくしは、ここのメニュー、全てと、それに加えて、この里でしか手に入らない幻の食材を使った料理を特別に用意させなさいませ! もちろん、お値段は問いませんわ! おーっほっほっほっ!」
ルクリアは、自信満々に胸を張り、店主を指差した。その声は、店内に響き渡り、客たちはざわめき始めた。
「げ、幻の食材でございますか!? それは少々……」
「おーっほっほっほっ! 何をおっしゃいますの! わたくしの美貌と、王室の財力を前にして、できないなどと言うはずがありませんわ! お金は、もちろん王室に請求でよろしくってよ! ゼフィロス、ちゃんと確認しなさいませ!」
ゼフィロスは、その言葉を聞いて、胃の痛みが限界を突破したのを感じた。王室への莫大な請求額が、彼の脳内で計算され、彼の顔はさらに青ざめていく。彼は、もはや言葉を発することさえできなかった。ただ、かすかに胃の奥から「助けてくれ……」という叫び声が聞こえるような気がした。
「てめぇ、ルクリア! 幻の食材だと!? ずるいぞ! あたし様もそれに便乗させろ!」
ルナは、ルクリアの行動に激怒し、今にも魔法を放ちそうな勢いで睨みつけた。しかし、そこは美食を前にして、なんとか理性が働いたようだった。
やがて、熱々の料理が次々とテーブルに並べられた。この里の料理は、香草をふんだんに使った、独特の香りが特徴的だった。特に、ルクリアが注文した「幻の食材」を使ったという料理は、美しい盛り付けが施されており、見る者を魅了する。それは、透き通るような白身魚のソテーで、上に色鮮やかなハーブと、小さく刻まれた宝石のような実が添えられていた。
ルナは、まず豪快に、里の特製シチューを口に運んだ。とろとろに煮込まれた肉と野菜の旨味が、口いっぱいに広がる。
「うめぇぇぇぇ! このシチュー、体が温まるぜ! 寒い霧の里には、ぴったりだな! 香草の香りが食欲をそそるぜ!」
ルナは、満足げにシチューを平らげると、次々と他の料理にも手を伸ばし始めた。彼女の食べっぷりは、まるで飢えた獣のようだ。
一方、ルクリアは、幻の白身魚のソテーを、フォークで丁寧に切り分け、一口ずつ味わっていた。彼女の白い指が、皿の表面を優しくなぞる。
「くっ……! なんて完璧な味わいですこと! この魚は、まるで霧の妖精が姿を変えたかのようですわ! 口の中でとろけるような舌触り、そして、この繊細なハーブの香りが、わたくしの美貌をさらに磨き上げますわね!」
ルクリアは、うっとりと目を閉じ、至福の表情を浮かべる。彼女は、一口食べるごとに、詩的な言葉でその味を表現し、高笑いを響かせた。
「おーっほっほっほっ! やはり、美食はわたくしの美貌をさらに輝かせる、最高の秘薬ですわ!」
「うるせぇな! 自分の美貌だなんだか知らねぇが、食いすぎたらデブになるだけだろうが!」
「なんですってぇ!? このわたくしがデブですって!? 無礼な! わたくしのこの完璧なプロポーションは、美食によって保たれているのですわ!」
二人の言い争いは、店中に響き渡る。里人たちは、その喧騒を前に、ただ呆然と見つめるしかなかった。彼らは、王都から来た貴族の娘が、こんなにも傍若無人だとは思ってもみなかっただろう。
食事を終え、ようやく落ち着いたルナは、ゼフィロスに指示を出した。
「よし、ゼフィロス。腹も満たされたことだし、情報収集だ。村長に会って、消えた娘の家族の家を聞き出すぞ!」
「かしこまりました、ルナ様。既に宿の手配も済ませておりますので、まずはそちらへ……」
ゼフィロスは、力なく答える。彼の胃は、もはや悲鳴を上げる気力さえ失っていた。
里の村長は、物腰の柔らかい老人だった。彼は、ルナたちが王室からの調査員であることを知ると、快く応対し、失踪した商家の娘の家へと案内してくれた。
商家の家は、里の奥まった場所に位置していた。木製の重厚な扉には、古びた彫刻が施されており、どこか寂しげな雰囲気が漂っている。家の中に入ると、香草の香りが漂い、清潔に保たれているのがわかる。しかし、そこには、娘を失った悲しみが、重くのしかかっているようだった。
商家の当主である老夫婦は、ルナたちを見ると、憔悴しきった表情で頭を下げた。彼らの目には、涙の跡がはっきりと見て取れる。
「娘が、突然姿を消してしまって……。王都の貴族の娘さんたちも、同じように消えていると聞いて、どうすればいいか分からずにおりました……」
老婦人が、すすり泣きながら語る。その声は、震えていた。
ルナは、腕組みをして、老夫婦の顔をじっと見つめた。彼女の表情は、いつになく真剣だった。
「安心しろ。あたし様が、その娘を必ず探し出してやる。ただし、その代わり、あたし様には報酬が必要だ」
老夫婦は、驚いてルナの顔を見た。彼らは、王室からの調査員が無償で助けてくれるものだと思っていたのだろう。
「お、報酬でございますか……? どのようなものがよろしいでしょうか……?」
老当主が、恐る恐る尋ねる。
「フン、そうだな……。お前らの家には、代々伝わる『霧降りの秘宝』ってのがあるんだろ? それを、あたし様によこせ」
ルナの言葉に、老夫婦は絶句した。彼らは、まさか、王室からの調査員が、家宝を要求するとは思ってもみなかったのだろう。
「そ、それは……代々伝わる、我らの一族にとって、かけがえのないものでございます……」
老当主が、震える声で答える。
「うるせぇな! てめぇの娘の命と、家宝と、どっちが大事なんだ!? あたし様が本気を出せば、娘なんざすぐに見つかるんだぞ! 早く決めろ!」
ルナの掌から、再び紫色の魔力の光が集中し始める。その光は、老夫婦の顔を青白く照らした。彼らは、ルナのただならぬ雰囲気に、恐怖で震え上がった。
「ひ、ひぃぃぃぃぃぃ! か、かしこまりました! 娘が無事に戻って参れば、必ず『霧降りの秘宝』を、あなた様にお渡しいたします!」
老当主は、観念したように頭を下げた。ルナは、満足げに頷くと、口角を吊り上げた。
「おーっほっほっほっ! ルナ! あなたはなんて強欲なことを! わたくしは、報酬など一切求めませんわ! ただ、わたくしの美貌と才能が、人助けに役立つことこそが、わたくしへの最大の報酬なのですわ!」
ルクリアは、優雅に扇子を広げながら、高笑いを響かせた。その言葉は、まるでルナを嘲笑っているかのようだった。しかし、彼女の瞳の奥には、どこか満足げな色が宿っている。
「うるせぇ! てめぇは黙ってろ! あたし様は、欲しいもんは欲しいんだよ!」
ルナは、ルクリアをにらみつけ、再び二人の口論が始まった。ゼフィロスは、その喧騒の中で、老夫婦の前に深く頭を下げた。彼の胃は、もう何も感じない。ただ、漠然とした疲労感だけが、彼の全身を支配していた。
商家の家を出たルナたちは、再び酒場へと戻った。今度は、情報収集に専念するためだ。里の酒場は、昼間よりもさらに多くの客で賑わっていた。
ルナは、カウンターに座り、ゼフィロスに命じた。
「ゼフィロス! この里で一番耳の早い奴を見つけ出して、消えた娘が会っていた男について、詳しく聞き出すぞ! 金はいくらでも使っていいからな!」
「かしこまりました、ルナ様。しかし、あまり目立つ行動は……」
ゼフィロスが言いかけたが、ルナは彼の言葉を遮った。
「うるせぇ! 目立って何が悪い! 目立てば、情報が集まるんだよ!」
ゼフィロスは、ため息をつくと、酒場の隅でひそひそと話している老人たちに近づいた。彼は、王室の身分を明かし、丁寧に話を聞き始めた。
「そう言えば、あの商家の娘さん、最近、妙な男と会ってたって噂があったな……」
「ああ、あの男なら、顔を布で隠してて、どこから来たのかも分からねぇって話だ。いつも夜遅くに、里の外れの古い祠で会ってたらしいぜ」
「噂では、そいつは人間じゃねぇって話も……。まるで影のように現れて、霧のように消えるってな」
「そうそう! 娘さんも、会うたびに、なんだか生気がなくなっていくような気がしたって、親が心配してたんだよ」
村人たちは、それぞれが知っている噂を、次々とゼフィロスに語った。彼らの顔には、恐怖と不安が入り混じっていた。ゼフィロスは、それらの情報を注意深く聞き取り、頭の中で整理していく。彼の心の中には、不気味な男の姿が、次第に鮮明に描かれていく。
ルナは、ゼフィロスが情報を集めている間、黙って酒場の様子を観察していた。彼女の鋭い視線は、客たちの顔から顔へと移り、わずかな変化も見逃さない。彼女の頭脳は、既にいくつかの仮説を立てているようだった。
「なるほどな……。影のように現れて、霧のように消える男、か。そして、会うたびに生気がなくなる……。どうやら、今回の事件は、ただの誘拐事件じゃなさそうだな」
ルナは、そう呟くと、ニヤリと口角を吊り上げた。彼女の瞳には、新たな「獲物」を見つけたかのような、狩人のような光が宿っていた。彼女にとって、この不気味な事件は、新たな挑戦であり、そして新たな美食への道標となるかもしれない。
「おーっほっほっほっ! ゼフィロス! わたくしは、この里で最高の酒を手に入れましたわ! これぞ、わたくしの美貌をさらに引き出す、最高の美酒ですわ!」
ルクリアは、どこからともなく取り出した、光り輝く瓶に入った酒を掲げ、高笑いを響かせた。その酒は、この里でしか作られない、幻の酒だとゼフィロスは知っていた。当然、莫大な値段がする。
「てめぇ! また勝手なことしやがって! 後でぶっ飛ばしてやるからな!」
ルナの怒鳴り声と、ルクリアの高笑いが、霧降りの里の酒場に響き渡る。ゼフィロスは、その喧騒の中で、ただひたすらに胃を抱え込み、天を仰いだ。彼の胃は、もはや痛みさえ通り越して、静かに魂を失いかけていた。彼らは、事件解決へと向かうのか、それとも王室の財政を破綻させるのか。霧の中で、その未来はまだ見えない。
『霧降りの里』の夜は、その名の通り、深い霧に包まれていた。宿の窓の外は、真っ白な靄に覆われ、まるで何も存在しないかのように静まり返っている。しかし、ゼフィロスの胃は、決して静かではなかった。彼は、宿の一室で、熱い蒸しタオルを胃に当てながら、ベッドの上でうめいていた。
「くっ……この胃の痛み、いつになったら治まるんだ……」
彼の胃は、ルナとルクリアによる連日の美食攻撃と、王室財政への不安から来るストレスで、完全に限界を超えていた。胃酸が逆流するような灼熱感が、常に喉の奥にへばりついている。彼は、ベッドの硬い感触が、まるで彼の心の状態を映し出しているかのように感じた。
その隣の部屋からは、ルナのいびきと、ルクリアの寝言、そして時折響き渡る高笑いが聞こえてくる。
「むにゃむにゃ……究極のパイ……もっと、もっとだ……」
「おーっほっほっほっ! わたくしの美貌は、夜になっても輝きを増しますわ……」
ゼフィロスは、その声を聞きながら、頭を抱えた。この旅の終わりには、自分が一体どうなってしまうのか、想像もつかなかった。彼の脳裏には、王室の財政が破綻し、自分が牢獄に繋がれる未来がちらついていた。
翌朝、ゼフィロスは、ほとんど眠れていないにもかかわらず、気力だけで起き上がった。外はまだ深い霧に包まれていたが、東の空がわずかに白み始めているのがわかる。里の空気は、前日よりも冷たく、肌を刺すような感覚があった。
「ゼフィロス! 早く準備しろ! 腹減っただろうが!」
ルナの声が、廊下から響き渡った。彼女の顔には、長旅の疲れなど微塵もなく、むしろ朝から漲るような活力が宿っている。彼女の金色の髪は、昨夜の寝相の悪さからか、あちこち跳ね上がっていたが、それさえも彼女の奔放さを際立たせていた。彼女の瞳は、次の美食への期待で、キラキラと輝いている。
「おーっほっほっほっ! ゼフィロス! わたくしの朝食は、昨日と同じく、この里の幻の白身魚のソテーと、最高級のハーブティーでよろしくってよ! もちろん、グラスはクリスタル製で、ハーブティーは、この霧の里の朝露で淹れたものに限りますわ!」
ルクリアもまた、優雅な仕草で廊下に現れた。彼女は、霧の中でも決して揺らぐことのない美貌を誇示するかのように、胸を張り、高笑いを響かせた。彼女の言葉は、ゼフィロスの胃をさらに抉る。
「は、はい! かしこまりました……」
ゼフィロスは、よろよろと食堂へと向かった。彼の胃は、もはや痛みさえ通り越して、無感情に機能していた。
朝食は、昨日と同じく、大量の料理が並べられた。ルナは、肉料理を豪快に平らげ、ルクリアは、幻の白身魚のソテーを優雅に味わう。二人の食欲は、昨夜の事件の捜査など、全く頭にないかのように旺盛だった。ゼフィロスは、もはや食事をする気力もなく、ただ黙って二人を見つめていた。彼の心の中には、この旅路の終焉を願う、かすかな祈りが芽生えていた。
朝食を終え、馬車は『霧降りの里』を後にした。里から続く道は、次第に霧が晴れていき、周囲の景色が見え始めた。鬱蒼とした森の中を進むと、木々の間から差し込む朝の光が、地面に美しい光の模様を描いていた。空気はひんやりとして、湿った土の匂いが鼻腔をくすぐる。
「さて、次の目的地は『湖畔の町ミストラル』だったな」
ルナは、馬車の窓から外の景色を眺めながら呟いた。彼女の表情には、美食への期待と、そして微かな探求心が入り混じっていた。
「かしこまりました、ルナ様。『湖畔の町ミストラル』までは、この道をまっすぐ進めば、およそ半日で到着いたします」
ゼフィロスは、疲れた声で答えた。彼の胃は、馬車の揺れで再び痛み始めていた。
馬車は、森の中の道を、ガタゴトと音を立てながら進んでいく。木々の間からは、小鳥のさえずりが聞こえ、時折、遠くで動物の鳴き声が響く。ルナとルクリアは、馬車の中で、次なる美食について楽しそうに会話していた。
「おーっほっほっほっ! ミストラルという町には、湖で採れる新鮮な魚を使った料理が豊富にあると聞きましたわ! わたくしの美貌をさらに輝かせる、素晴らしい料理がきっとあるはずですわ!」
ルクリアは、夢見るような瞳で、ミストラルでの美食を想像していた。
「フン、魚か。あたし様は、肉の方が好きだけどな。まぁ、美味いなら食ってやるよ」
ルナは、不機嫌そうな顔で答える。しかし、その瞳の奥には、魚料理への微かな期待が宿っているようだった。
しばらく進むと、道は開けた場所へと出た。そこは、小さな渓谷になっており、岩肌がむき出しになっていた。渓谷の底には、細い川が流れており、清らかな水の音が聞こえてくる。しかし、その渓谷の奥まった場所に、不穏な空気が漂っているのをゼフィロスは感じ取った。
「ルナ様、ルクリア様、少々お待ちください」
ゼフィロスは、馬車の御者に指示を出し、馬車を停めさせた。彼の視線は、渓谷の奥へと向けられている。
「どうした、ゼフィロス? こんなところで立ち止まって、腹でも減ったのか?」
ルナは、不満げな顔で尋ねた。
「おーっほっほっほっ! ゼフィロス、もしかして、わたくしへのサプライズですの!? この渓谷には、隠された秘宝でもあるのかしら!」
ルクリアは、目を輝かせ、期待に満ちた表情でゼフィロスを見つめた。
ゼフィロスは、二人の言葉には答えず、警戒しながら馬車を降りた。彼は、渓谷の奥から、微かに人々の声と、金属のぶつかるような音が聞こえてくるのを感じていた。
「この先に、何かいます……」
ゼフィロスは、剣の柄に手をかけ、ゆっくりと渓谷の奥へと足を踏み入れた。ルナとルクリアも、興味津々といった様子で、彼の後を追う。
渓谷の奥へと進むと、岩陰に隠された、小さな洞窟が見えてきた。洞窟の入り口からは、酒の匂いと、粗暴な男たちの話し声が漏れ聞こえてくる。
「ここか……盗賊のアジト、のようですね」
ゼフィロスは、そう呟いた。彼の胃は、再び痛み始めていた。彼の心の中には、新たなトラブルへの予感と、そして王室への請求額が増えることへの絶望が入り混じっていた。
ルナは、洞窟の入り口から漏れ聞こえる男たちの声を聞くと、ニヤリと口角を吊り上げた。彼女の瞳は、まるで獲物を見つけた猛獣のように、ギラギラと輝いている。
「フン、盗賊のアジトか。ちょうどいい。あたし様が、このストレスを発散させてやるぜ!」
ルナは、そう言い放つと、何のためらいもなく洞窟の中へと足を踏み入れた。ゼフィロスは慌てて彼女の後を追う。
「ルナ様! 危険です!」
「おーっほっほっほっ! ゼフィロス、わたくしの華麗なる魔術で、この粗暴な盗賊どもを、一瞬で凍りつかせて差し上げますわ! わたくしの美しき氷晶魔法に、酔いしれるがよいのですわ!」
ルクリアもまた、自信満々に胸を張り、洞窟の中へと入っていった。彼女の手には、すでに氷の魔力が集中し始めている。
洞窟の中は、薄暗く、カビ臭い匂いが漂っていた。奥には、粗末なテーブルと椅子が置かれ、数人の盗賊たちが、酒を飲みながら騒いでいた。彼らは、突然現れたルナたちに気づくと、一斉に武器を構えた。
「な、なんだ貴様ら! ここは、お前らが来ていい場所じゃねぇぞ! 命が惜しけりゃ、さっさと帰るんだな!」
盗賊の一人が、剣を構え、脅しつけるように叫んだ。
「うるせぇな! 貴様らごとき下等な盗賊が、あたし様に指図するんじゃねぇ! あたし様の胃袋を刺激するような美味いもんも持たずに、ただ酒を飲んでるだけとは、本当に下らねぇな!」
ルナは、そう言い放つと、盗賊たちに向かって、何のためらいもなく右手を振り下ろした。その掌から、閃光と共に紫色の稲妻が迸る。それは、まるで生き物のように蠢きながら、盗賊たちへと襲いかかった。
「ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!」
盗賊たちは、悲鳴を上げ、その場に崩れ落ちた。ルナの魔法は、強靭な肉体など関係なく、その肉体を内部から焼き尽くすかのように、瞬く間に灰に変えてしまった。数秒後、そこには、数体の灰の塊と、焦げ付いた地面だけが残っていた。洞窟全体が、一瞬にして静まり返る。
ゼフィロスは、口をあんぐりと開けて、その光景を呆然と見つめた。彼は、これまでもルナの破壊力を何度も目の当たりにしてきたが、目の前で人間が塵となる様は、何度見ても衝撃的だった。彼の胃は、再び痛み出す兆候を示していた。
「なっ……なんだと!? たった一撃で、全滅だと!?」
ルクリアは、驚きのあまり、目を丸くしていた。彼女の掌から放たれる氷の魔力は、すでに消え失せている。彼女は、ルナの圧倒的な力に、ただただ呆然と立ち尽くしていた。
「フン、こんなもんか。まったく、つまらねぇな」
ルナは、そう言い放つと、満足げに鼻を鳴らした。彼女の顔には、ストレスを発散できたことへの満足感と、そして次の美食への期待が入り混じっていた。
「ゼフィロス! ぼやぼやしてないで、こいつらのアジトを漁るぞ! どーせ、ろくなもん持ってねぇだろうが、あたし様の金になるもんがあるかもしれねぇからな!」
ルナは、そう言い放つと、洞窟の奥へと足を踏み入れた。彼女の視線は、宝の山を求めてギラギラと輝いている。
「おーっほっほっほっ! ルナ! なんて強欲な! わたくしは、あなたのような野蛮な行為は好みませんわ! わたくしは、ただ、正義のために戦うのみですわ!」
ルクリアは、そう言いながらも、ルナの後を追う。彼女の瞳の奥には、どこか期待の色が宿っている。
洞窟の奥には、粗末な木箱がいくつか積まれていた。ルナは、容赦なく木箱を蹴破り、中身を漁り始めた。中からは、使い古された武器や、ボロボロの衣類、そして少量の金貨が見つかった。
「ちっ、たいしたもんじゃねぇな。やっぱり、下等な盗賊はこれだから困るぜ」
ルナは、不満げに舌打ちをした。しかし、その時、彼女の足元に、隠し扉のようなものがあるのを見つけた。
「ん? なんだこれ……」
ルナは、隠し扉を蹴破った。すると、その奥には、小さな空間が広がっており、そこには、金銀財宝の山が築かれていた。きらびやかな宝石が光を反射し、金貨が山のように積み上げられている。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!」
ルナの瞳が、これまでにないほど大きく見開かれた。彼女の顔には、欲にまみれた、狂気じみた笑みが浮かんでいる。
「おーっほっほっほっ! なんて素晴らしい宝の山ですこと! ゼフィロス! これぞ、わたくしの美貌と才能に相応しい、最高の報酬ですわ!」
ルクリアもまた、宝の山を見て、目を輝かせた。彼女の高笑いが、洞窟全体に響き渡る。
「ゼフィロス! このお宝、全部あたし様がいただく! 王室には、盗賊を全滅させた褒美として、報告しとけ!」
ルナは、そう言い放つと、金貨を袋に詰め始めた。彼女の動きは、まるで熟練の泥棒のようだった。
「ルナ様! ルクリア様! これは、盗賊が奪ったものですので、本来であれば、被害者に返還すべきかと……」
ゼフィロスは、震える声で訴えかけた。彼の胃は、もはや痛みさえ通り越して、ただただ虚しさに満ちていた。
「うるせぇな! こんなもん、あたし様が奪い返してやったんだから、あたし様のもんだろ! 文句があるなら、王室に言え!」
ルナは、ゼフィロスをにらみつけ、威圧的なオーラを放った。ゼフィロスは、その言葉に、もはや何も言えなくなった。
結局、ルナとルクリアは、盗賊のアジトに隠されていたお宝を全て没収し、馬車に積み込んだ。馬車は、金貨の重みで、ギシギシと不穏な音を立てていた。ゼフィロスは、その光景を見ながら、王室の財政担当官が悲鳴を上げている姿を鮮明に想像した。彼の胃は、もはや痛みを感じない。ただ、漠然とした絶望だけが、彼の心を支配していた。