2 ベーコンチーズのマヨトースト
二人はとりあえずダイニングの椅子に座った。静かな部屋の中、アレックスの体からグーッと大きな音が響いた。
「俺か、こんな時でも腹減るのか…」
アレックスの体に入った純はつぶやいた。
脳と体が別々の感覚になっていて、実際にお腹が鳴っているのに、なぜかお腹が空いていないように感じる。それは不思議な体験だった。
アレックスはさっきから落ち着かず、もじもじして何か言いたそうにしていたが、言葉に詰まっていた。
純はラーメンの様子を確認しにキッチンへ向かい、器を見下ろすと、その中には胡椒が大量に振りかかっていた。
「これは食べられそうにないな…」
「アレックス!」と呼びかけると、「自分」の体がゆっくりと歩いてくるのを見て、純は妙な気分になった。
(俺ってこんな歩き方してたんだ…)
「ラーメン食べられないから、これをここに流してくれる?」
明らかに背が高い「自分」の体なら、簡単に排水溝へ流せるだろう。
「OK」
アレックスは排水溝に胡椒まみれのラーメンを流し始めた。スープと麺があっけなく流れていく様子を見ながら、純は黙って新しい料理の準備を始めた。パンを取り出し、マヨネーズ、ベーコン、スライスチーズをのせてトースターに入れた。
「アレックス、俺がここを掃除するから、ポットでお湯を沸かしてコップを二つ出して」
「OK」とアレックスが返事をすると、純はさっと台所の台を拭き、床を掃き、胡椒の瓶を元の場所に戻した。器を洗い、排水溝に流されたラーメンの残骸をビニール袋に詰め、ゴミ箱に捨てた。先ほどまで期待に満ちていたラーメンが、あっけなくゴミになったことが少し虚しかった。
その間も、自分の小さな手で台を拭く感覚に、純は違和感を覚えていた。蛇口も背伸びしないと届かないのが何とも言えず、嫌な感じだったが、今は体を動かしていることで少しでも現実を忘れようとしていた。
「チン!」
トースターの音が鳴り、純がそれを開けると、焼けたマヨネーズの香ばしい香りが漂ってきた。イギリス人らしいエリザベスのキッチンには紅茶が豊富に揃っていたが、今の純には普通のティーバッグの紅茶がちょうどよかった。
「とりあえず食べよう」
純はアレックスに声をかけた。
その時、アレックスがついに口を開いた。
「純兄ちゃん、…入れ替わったのって、僕のせいと思う…」
純は「自分」がウルウルと泣きそうにる姿に驚きつつも、冷静に言った。
「おい、おい、落ち着け。まずは食べよう」
・・・・・・・・・・・・・・・
純はパンにかじりついた。
うまい。肩の力がようやく抜けるような感覚がし、続けざまにもう一口食べた。
対面のアレックスもパンを一口食べたが、突然ぽろぽろと涙を流し始めた。
「泣くなよ…」純は視線を逸らしながら言った。「自分」が泣く姿を見るのが耐えられなかったからだ。
純は、母親の病気が悪化していく過程をすべて目の当たりにしていた。長い闘病生活の末、彼女がこの世を去る瞬間まで、彼はずっとその姿を見守り、耐え続けた。元気になってほしいと願っても、叶わないし、現実を受け入れることだけが、純ができる事だった。母親の葬儀でも、泣くことさえできなかった自分が、今でもどこかで冷静でいられる理由だった。
だから、今も他人の涙に簡単には心を揺さぶられることはない。しかし、自分が涙を流すことを封じ込めたその感情が、今、アレックスの体で表に出ている姿を見るのは奇妙で、複雑な感情が胸の奥にくすぶっていた。
その時、テーブルの下から小さな鳴き声が聞こえてきた。
「ミャオ―…」黒猫のオインクが、足元でくるりくるりと回っている。アレックスである「自分」の膝に飛び乗ると、彼の顔をじっと見つめた。
「僕が、僕が…言わんかったけん…」
アレックスは泣きじゃくりながら、途切れ途切れに話した。
純は紅茶を一口飲み、眉をひそめた。
「何を言わなかったって?」
「くしゃみしたら…『Bless you』っち言わんといけん。でも、僕…言わんかった…」
アレックスはすすり泣きながら、言葉を絞り出した。
「なに?ブレ…ブレスユー?」
純は訝しげに聞き返した。九州弁と英語が混ざって聞き取りずらい。
アレックスはコクンと小さく頷いた。
「うん。『Bless you』っち言わんと、soul…魂、入れ替わると…」
そう言いながら、「自分」の心臓を拳で軽く叩いた。
「はぁ――――?」
純は呆れたように大きな声を上げた。アレックスが何を言っているのかさっぱり理解できなかった。
「あの、なに、つまりそれって…呪文とか、おまじないとかそういう…」
純が言いかけると、オインクがアレックスの膝の中で伸びをしてゴロゴロと喉を鳴らした。
「うん、魔法」
アレックスは小さな声で答えた。
純はしばらく黙り込んだ。信じられない話を聞いているが、素直なアレックスがこんな時に泣きながら嘘を言うはずがない。
「…魔法って、お前、魔法が使えるのか?」
純は驚きながら、思わず身を乗り出した。
「うん、そう」
アレックスはまるで当たり前のことを言うように、うなずいた。
「は?えぇっと…そうなんだ…」
純は混乱しつつも、いったん落ち着こうと紅茶をもう一口飲んだ。
「じゃあ、さ、お前の魔法で元に戻せるんだろ?簡単だよな?」
純は希望を込めてそう言ったが、アレックスは顔を曇らせた。
「…No!…僕、わからない…ごめんなさい…」
その瞬間、アレックスはまた泣き始めた。オインクも心配そうにアレックスを見上げた。
純は頭を抱えながら、ふとひらめいた。
「おい、もしかして…くしゃみが原因だったんだよな?」
そう言うと、純は急に勢いづいた。
「もう一回くしゃみして、『ブレスユー』って言ったら、元に戻るんじゃないか?」
アレックスは涙をぬぐいながら、少しだけ目を見開いた。
「え、えっと…本当?」
「わかんねぇけど、やってみる価値はあるだろ!」
純は立ち上がり、アレックスの前にやってきて、「ほら、試してみろよ!」と促した。
アレックスはしばらく考えてから、鼻をすんすんと動かし、何とかくしゃみをしようと試みた。数秒後、「ハクション!」とくしゃみをすると、純はすかさず言った。
「ブレスユー!」
しかし、何も変わらなかった。二人はしばらく沈黙し、お互いを見つめ合った後、純が肩をすくめた。
「あー…ダメだったか」
その時、アレックスが何かを思い出したように口を開いた。
「あの時、たしか同時に3回くしゃみせんかった?」
純は記憶をたどっていた。
「確かに3回くしゃみしたような…。でも、同時にくしゃみを3回するなんて、そう簡単にはできねーよな。タイミングまで合わないといけないし、そのあと『ブレスユー』って言わないといけないし…」
その瞬間、アレックスは再び目に涙を浮かべ、ぽろぽろと泣き出してしまった。
「うぅ…もうどうしたらいいかわからない…僕、純兄ちゃんを元に戻したいのに…」
アレックスは再び不安と焦りを押し隠せず、目に涙を浮かべていた。そして、その涙はぽろぽろと頬を伝い始めた。
「いやいや、泣くなって!俺が適当に言っただけだからさ…」
純は焦りながら、慌ててアレックスをなだめたが、その言葉が逆効果だったのか、アレックスはさらに大きな声で泣き続けた。
「わかった、わかった!泣くなって!ほら、温かいうちにパンでも食べろよ!」
純は戸惑いながらも、何とかアレックスを慰めようと、目の前のパンを指さした。
しかし、アレックスはパンを見ても涙を止められず、ただ悲しそうに小さく震えたままだった。純はその姿に少し心が痛んだ。自分だってこの状況に混乱しているし、不安は山ほどある。だけど…母親が病気で倒れた時、自分はどうしても強がるしかなかった。その経験からか、こうした状況で冷静にいられる自分がいることに気づいた。
「泣いたって、どうにもならねぇんだよ。泣くくらいなら、次にできることを考えようぜ」
そう言って、純はパンをもう一口かじった。その様子を見たアレックスも、涙を拭い、少し落ち着いたのか、パンをかじり始めた。
「そうそう、それでいいんだ」
純は優しく微笑んで、少し安心した顔で「自分」の姿をしたアレックスを見つめた。
「僕、紅茶、甘いのが好き。お砂糖ほしい」
そう言って、アレックスはキッチンへ向かっていった。
オインクはその後ろをトコトコとついていった。
純は頭を抱えながら必死に考えた。
「えっと、つまり…アレックスは魔法使いで、くしゃみをしたら呪文を言わなきゃいけなかった…で…それを言わなかったから、魂が入れ替わった…ってことだよな?それで、戻るには同時に3回くしゃみしないといけないってことか。…いや、できるかよ!」
アレックスは棚から砂糖を持ってきた。
「セイロン、アールグレイ、アッサム、ダージリン、ニルギリ、ドアーズ、シッキム…」
アレックスはつぶやきながら砂糖を入れ、スプーンで紅茶を混ぜている。
「なんだよ、それ。また新しい呪文か?」
純は驚き、思わず椅子を後ろに引いて少し距離を取った。
「違うよ、おいしくなる呪文!Mumが教えてくれたと」
アレックスはニコリと笑った。
「マム?え、ちょっと待てよ。お前の母さんも魔法使いなのか?」
純はさらに混乱した。
「No、Mumは違うよ。前のDad(お父さん)が魔法、使えると」
アレックスはさらりと言った。
「ダッド?お父さんが使えるのか。…だったら連絡とれないか?」
純は期待を込めた。
「Dad、わからない。でもきっと本に書いてある」
「本?魔法の本が?なんだよ、早く言えよ!どこにあるんだ?早く持って来いよ!」
純は焦ったように詰め寄った。
「でもMumがどこかに隠した…。僕が使えんように」
アレックスはそう答え、困った顔をした。
「隠した?…おい、まさか、エリザベスさんが何か隠してるってことか?」
純は頭を抱えた。もうただ二人の問題じゃなく、魔法使い家族の秘密に巻き込まれていることを実感した。
オインクはそんなことお構いなしに、今度は純の膝に飛び乗り、また甘えた声で「ミャオ―!」と鳴いた。
「おい、オインク、ちょっと落ち着けよ…今、大事な話をしてるんだから」
純はオインクをなだめながらも、頭の中は混乱したままだった。
アレックスはそんな純とオインクのやり取りを見て、小さく笑った。
「オインク、感じてるとよ。僕たちが大事なことを話しとるって」
アレックスはそう言うと、優しくオインクを見つめた。
「まさか…お前もただの猫じゃ…ないんだな?」
アニメや漫画のように、猫がしゃべるのを想像した。アレックスは「普通の猫」と言ったが、ふとオインクの目を見ると、ゆっくりまぶたを閉じ目を開けた。それがなんだか「Yes」と言っているように思えた。
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