4D is for?
コンココン、と彼は扉をノックした。これが映画であるならば――いや実際のところ、観客を前にして既に映画は上映されているのであるが――製作会社や配給会社のロゴ、それらが画面内に映り始めたタイミングで、彼はその扉をノックしたのである。
登場人物の一人、主役級の役柄を担っている彼は、歳の二つ離れた妹の自殺を目にするという、いわば起承転結の『起』の悲劇的な場面にこれから差し当たる所だった。BGMとして、明快で朗らかなカントリーソングらしきものが流れているのだが、この選曲はカルト的人気を持つとある監督兼演出家が、この場面を個性的なものとすべく、更には悲壮感を際立たせるというポストモダン的な辣腕を発揮して取り入れたものである。
「ルイコー」
彼はそう呼びかけて、再度妹の部屋の扉をノックした。脚本に従えば、曲がサビに入ると同時に彼は、宙づりになった妹を目撃するのだ。カメラは彼の背中越しに、妹の姿を捉え、それでツカミはばっちりと言った具合に暗転して、次の場面へと移行する。しかしこの時、曲がサビを迎えても、彼は妹の部屋に足を踏み入れなかった。それから神隠しよろしく、彼は画面内から唐突に姿を消した。
スクリーンは突然真っ暗になった。次いで、人工知能が読み上げでもしたみたいな上映中断のアナウンスが響き渡ると共に、照明がゆっくりと灯り出した。観客は各々の席で、批難のこもった眼差し後ろの映写機の方へ向けたり、溜息をついたり、腕時計を執拗に見たり、肘掛けを指で叩いたりと、苛立たしさを露骨に示し始める。あちらこちらで不満が零され、劇場は騒がしさを増してゆく。
しかし数分の時間が経過した後で、突然何の前触れもなく劇場内の照明が落とされた。映画が再開されることを客人たちは悟ったか、不平を混じらせた溜息や、鑑賞前の準備態勢といった具合の咳払いを口から零した。彼らの表情から見るに、映画が中断されたことの不快感が未だに尾を引いているような様子ではあったが、スクリーンに再び制作会社と配給会社のロゴが現れると、彼らは瞬く間にその劇中世界へと入り込んだ。
が、その時である。スクリーンの一部に、何か飛沫のようなものの影が映った。そしてそれと同時、劇場内に甲高い悲鳴が響き渡った。
その数分前、上映中断のトラブルの報告を受けた館長は、館内スタッフの一人を連れて映写室へと向かっていた。従業員専用通路を駆け足で抜け、今や人員を割く必要のなくなった無人の映写室の前に辿り着くと、館長はそのドアを開けた。が、そこへ足を踏み入れようとしかけたところで、彼の脚は釘を打たれたように固まった。映写機の傍に見知らぬ男が、こちらに背中を向けて佇んでいるのを、彼は目にした。
「おい! 何してる!」と館長は言い、引き連れていたスタッフの一人に「警備員」とすかさず耳打ちした。スタッフは唖然とした表情を浮かべつつ、後ろ髪を引かれながらと言った按配に、急ぎ足で通路を戻って行った。
よく見ると、どこかしら見覚えのある男だと、そう館長は思った。が、この男が誰なのかということにはっきりと思い当たるまでには至らず、今度は高圧的な声で言い放った。
「お前、おい! もう遅いぞこのクソ犯罪者。こんなことで一生を棒にふりやがって!」
館長の顔が、みるみるうちに憤激の色に染まっていった。彼は映写室と通路の敷居の所に立っていたが、不意に一歩退くと、警備員の到着が遅すぎると言った感じに、首を回して通路の左右を忙しげに見やった。その途端に、男はゆっくりと振り返った。そして、館長の全身を仔細に眺めやりながら、口を開いた。
「それ――その髪型と服、あと時計とか靴って、自分で選んだのか?」
低く落ち着いた声で、男はそう尋ねた。
「あ? 黙って待ってろ。何もするなよ、いいな?」と、館長は強く訴えるように、男の面上を突き刺すようにして指を差しながら言った。
「なぁ、頼むから答えてくれって。ほんと、一生のお願いなんだ。今までにあった奴らなんかは答えてくれなかったし、こっちから聞くことだって出来なかったんだから。だからさ、それって、自分で選んだやつなのかどうか、頼むから教えてくれよ」
言葉とは裏腹に、そしてまた両手を顔の前で組み合わせる懇願の仕種とは裏腹に、男の口調は淡白なものだった。
「いいか、クズ野郎。俺が選んだのはそれだけじゃない。お前を刑務所送りにすることもこれから選ぶ。だからお前も、黙って大人しくする方を――」
「おお、いいね」と、男は驚嘆の表情を浮かべて言った。そして顔を綻ばせると「俺も、これから多分そうなって、何でも選べるようになるんだ。知り合いの台詞にさ『チューズライフ、チューズジョブ、チューズファミリー』だとかってのがあったけど、あいつだって、これからは本当にそれが実現できるってことだ。ほら、これだって――」言いながら、彼は映写機に手を伸ばしかけた。
「おい! 触るな!」
館長は声を荒げてそう言った。しかし、その言葉に大した効果は認められなかった。男が構わずに映写機に触れたところで、館長は怒り狂った表情を湛え、殴りかかろうとするような勢いで男の方に近付いた。
その瞬間、男は素早く身を翻して、館長の頭を掴んだと思う間もなく、その頭を力の限り映写機に叩き付けた。館長に苦痛の声を上げさせる暇さえ与えず、機械的な素振りでもって何度も、館長の頭部がものと形容するに相応しくなってもなお、それを繰り返し叩き潰した。
「なぁ、ルイコが何回死んだ? 俺の家族も、友達も、お前らの涙のために、どんだけクソみたいな扱いを受けた? お前らの演出のために、起承転結だとかのために、どれだけ俺たち『登場人物』の人生を滅茶苦茶にすればいい? 正義を引き立てるために、悪役らしい悪役になって、卑怯で傲慢な人間に仕立てられて、恋人はどいつもこいつも病弱で、死にかけで、決まったように儚げな表情ばっかり見せてくる。悲劇がそんなに好きかよ、なぁ――」と男は、館長がすでに息絶えてしまっているにも関わらず、平静な口振りでそれに問いかけた。そして、急に口を噤んだかと思うと、館長の頭を放り投げ、深く溜息をついてから大きく伸びをした。
数秒の間の後、男は目元に浴びた返り血を拭いながら、ゆっくりと映写窓の傍へ近寄って、そこから真っ暗になっている劇場内を見下ろした。そして、不意に電球色の照明が灯り出すと、男の眼下に劇場内の惨憺たる光景が広がった。
悲鳴や血が、ポップコーンよろしく弾けるように飛び交っていた。一匹の巨大なライオンが次々と血肉を食い荒らし、凄まじい咆哮を上げる。黒い甲冑を身に纏った何者かが、赤く光る剣のようなもので人々を客席ごと切り捨ててゆく。チェーンソーを持った仮面の男、人の骨格を模した機械、灰色の年老いた魔法使い、そうした素性不明の人物たちがどこからともなく現れ、劇場をいとも容易く深紅に染め上げた。館内のスピーカーから「怖い。怖いよデイブ。感じる。私は怖がってる」と、先ほどの人工知能が読み上げでもしたかのようなアナウンスが響いたかと思うと、次の瞬間にはショパンの『英雄ポロネーズ』が流れ始めた。
男はそこで、両腕を目いっぱい上に突き伸ばして、また伸びをした。それから深く呼吸をすると、微笑を浮かべ、両手の付け根の辺りを目元に強く押し付けた。その格好はまるで、心地よい匂いが立ち込めたり、爽やかな風が吹き抜けたりしている広大な草原の上に立って、そこで幸福の予感に満ちた自分の生を噛み締めているような、そんな様子だった。
「待ってろ、ルイコ」
男はそう呟いた。そうして彼は暫くの間、止めどなく溢れ出る深い陶酔に胸を膨らませながら、眼下で上映されている悲劇、または喜劇を鑑賞し続けた。
――ここに記したのは、俗に言う『4D現象』の発端の一つである。ご存知の通り、これと時期を同じくして、世界中の書店や映画館などで同じような事件が続発した。間もなく私も、彼らに襲われることになるだろう。私の場合、恐らく館長や観客に――