第8章 300年後の世界
「……ちょ、ちょっと待って。お願いっ」
クロノは袖で顔を隠している。
元々透き通るような白い肌だけに、いったん耳まで真っ赤になってしまうと、落ち着くまで時間を要するらしい。時の神なのに。
俺は余所見をして待っていた。床に彫った文字が、少し消えかかっているのをぼんやり眺めていた。
「……ごほん、もう大丈夫じゃ。待たせたな、愚かな人間よ」
その言葉が精一杯の仕返しらしい。ちょっとドヤ顔になってるあたり、いちいち可愛い。またからかいたくなったが今度は耐えた。
「クロノ様。この部屋は、どうやっても壊れたりしないんですか?」
「え、どういう意味?」
「俺が全力で動いても大丈夫なのか、って意味です。
ここ数年ずっと、筋肉を自分の内側でコントロールする練習をしていました。もう長い間、俺は全力を出していない」
この部屋の床は、クロノが魔力を与えた彫刻刀でなければ傷ひとつもつけられない材質であるはずだ。本来ならば。
しかし、筋トレを重ねているうちに、少しずつ床が削れてきていることに俺は気付いたのだった。
「むう……なるほど、ひょっとすると難しい問題であるかも知れんな」
「というのは?」
「おぬしの力が強くなりすぎていて、時空魔法の耐久性を超えてしまう可能性がないとも言えん。
そもそも魔法を『魔法』という名では呼んでおるがな、結局は『物理』なのじゃ。
例えば火の魔法が枯れ葉を焼くとか、雷の魔法が大木を二つに割く、というのは、結果として物理現象であろう?」
「……肉体と違って、俺には魔法の原理がわかりません。だから『魔法』という名前なんでしょうけど。
でも、その魔法の力が最終的に影響を与える世界は……この空間も、やはり物理的なものだってことですね」
「そう。よって、耐久に限界はあると思うよ。生身の人間がそれを破る可能性など、今まで考えたこともなかったがな」
やっぱりそうなのか。思い切り暴れてみたいけど、せっかく300年も暮らしてきた部屋が壊れたら嫌だな。
クロノは説明を続けた。
「この壁も、時空の理が働くことで壁への衝撃を瞬時に消し去るように創った。
ただ、魔力の作用が出始めるまでの一瞬におぬしの全力をぶつけてしまえば……どうなるか」
なるほど、そういう仕組みだったか。そういえば壁には傷が一切残っていない。クロノがくれた刀で彫ってもすぐに跡は消えてしまう。
「クロノ様、ちょっと一回やってみてもいいっすかね?全力発揮。
部屋の心配より、好奇心のほうが上回ってきたんで」
「むう……ほ、ほんとにやるの?なんか怖くなってきた」
「いつもみたいに、ここの時空の外から見ててください」
「部屋はいいけど、体は壊さないように気をつけるんじゃぞ」
「クロノ様のそういう優しいとこ、好きです」
「なっ……そんな急に、ずるい!むうううっ」
ばたばたと慌てながらクロノは消えた。
「もし部屋が壊れたら、修理お願いしますね。クロノ様」
俺は一人呟いた。たぶんクロノは聞いてくれているだろう。知らんけど。
……やはり、たまには力を出し切らないとダメだな。今から全力を発揮するとなったら、途端に体温が上昇するのを感じた。高揚しているのだ。
よし。やるか。
「ライウェイッベイベェェェッッ」叫んだ瞬間、俺の肉体を抑制していた精神の鎖が解き放たれた。
スクワットジャンプ、天井まで跳ぶ。刹那、眼前に天井が現れる。
ショルダープレス、天井を突き放す。また床まで跳ぶ。
筋肉が反射的にフルパワーを発揮するプライオメトリクスだ。この勢いを利用して、次はさらに強く床を蹴ろう。
ジャンプ、床が砕けた。音は聞こえなかった。俺が音速を超えているからだ。次に天井をプッシュした後で、俺のほうから音へ向かっていくだろう。
ショルダープレス、あ。天井も砕けた。右手だけが深く突き刺さり、バランスが乱れる。
まあ仕方ない。クロノには後で謝ろう。
今、俺は暴れたいんだ。
「マット、それ以上はダメっ」
急にクロノの声が聞こえたような気がして、俺は我に返った。集中しすぎてほとんど機能していなかった視界が、戻ってくる。
……そこには色があった。
匂いもあった。
その感覚を、俺の記憶の奥底にしまってあったものと照らし合わせてみる。
ここは、時の神を祀る小屋の中。
華美というほどでもない装飾が施された壁、天井、幕。そして部屋の中央、俺の足元には台座があった。クロノが石の姿で眠っていた場所。
俺は戻ってきたのか。元の世界に。
……それだと、あの永遠の部屋は?
「むううう、だからダメって言ったのに!」
「あ、クロノ様」
クロノが唐突に現れた。少し宙に浮かんでいたところから、ゆっくりと降り立った。柔らかな黒髪が、少し遅れてついてくる。
「直すヒマもなく壊したじゃん!あの部屋、頑張って創ったんだよ!?」
「すんません。申し訳ないんですけど、もう一回建てていいただけませんかね?」
「む、むううううっ」
その時、俺達は強烈な光に照らされた。目が眩んだ。
「動くな!貴様ら」
ようやく視力が戻った時には、6人に取り囲まれていた。その全てが、色とりどりに着飾った絶世の美女。
「へー、何か凄い豪華だな。クロノ様、元の世界ってこんなんでしたっけ?ああ300年経ってるのか」
思わず声が出てしまった。ここも人間の世界ではないような気さえしていた。
クロノは蒼白な顔で口をぱくぱくさせていたが、やっとのことで震える声を絞り出した。
「せ、先輩がた……」