第72章 ふたつの伝説
「「決ッ着ッ!
ひとつの伝説が終わり、またひとつの伝説が今!始まりましたッッ!!
ひとりの青年!『持たざる者』が切り拓いた新時代ッ!!」」
「「いや強いわ。鳥肌立った」」
喚くような大声が聞こえている。誰だ?と思ったら、それも地鳴りのような人々の大歓声に飲み込まれていった。
この力、緩めていいのか?
「マット!んっ」
俺の頭が抱えられ、さっきまで左眼のあった部分に、何かが触れた気がした。
その刹那、俺のなかを激しく暴れ回っていた痛みは消え、左眼に柔らかな光が射し込んだ。続いて右眼のあたりにも、柔らかな感触。
「……クロノ様?」
視界が開けた瞬間、クロノの唇が映った。
あ、今のって。
「ごほん。眼は神経が細やかだから、きちんと治しておかなきゃ。
ほ、ほら、イリスも言っておったじゃろう?」
「あのー」
口づけると、治りが良くなるんですかね?
……からかってやろうとして、ふとクロノの顔を見た。
汗だくのおでこに、頬っぺたに張り付いた乱れ髪、泣き腫らした眼。
「殴られすぎじゃ、おぬし。
ほんとに、心配……してたんだよ。マット、死んじゃうかも知れない、って」
その大きな瞳の淵に、また涙が溜まっていく。
俺は何も言い出せないまま、クロノを抱き寄せた。
「う、うぅ……ふえええええ」
糸が切れたように泣き出すクロノの全身は、尋常でない震え方をしていた。背中も、腋のあたりも、びしょびしょに汗をかいている。
「ははは、大丈夫っすよ。
何回生まれ変わってもまた、あなたの元に辿り着きますから。来世だろうと、来来来世だろうと。
……えー、こんな感じでしたっけ?あの名台詞」
「ぐじゅ、ぐすっ……ばか。大好き」
「あっ。そういえば俺、負けたんですかね?」
それを聞いた途端、クロノは困り顔になって首を傾げ、俺を見た。
「……は?お、おぬし、我の後ろが見えておらんのか?」
そう言われた俺は、クロノから視線を外し、その奥を見た。
倒れているクライスが数人に取り囲まれ、魔法によって治療されているところだった。
「とりあえず、死なない程度には我が治しておいたからな。あとは人間の力で何とかなるじゃろう」
「この試合、どうやって決まったんですか?」
「……胴を絞めつけて、おぬしがクライスの体を砕いたんじゃぞ。本当に覚えておらんのか?」
クロノは再び俺に抱きつき、頭に何度も口づけた。
「もっと、しっかり治してやらねばならぬようじゃな。ほれ、ちゅっちゅ」
「ちょ、それ汗とか諸々で絶対汚いんでダメです。ダメですからマジで!恥ずかしいんですけど!」
「……思い出した?」
「も、もう全部思い出してますよ。
っていうか、決着の時に眼が潰れてたんで、判定がどうだったのかが見えなかっただけですから」
「なら、良かった。
……じゃあ、わたしのことも、ちゃんと覚えてるよね?」
俺の頭を抱えたまま、クロノが訊いた。
まだ不安の色が消えていない、本気で心配している表情が、唇が、眼の前に在った。
「……ん」
「ん、んぅ!?」
我慢できなかった。
思わず、俺もクロノの黒髪を抱き寄せ、唇を重ねてしまう。
首から上の全てを火照らせ、じたばた体を捩らせていたクロノは、俺が本気だとわかると、次第に抵抗する力を失っていった。
……俺は名残惜しく、唇をゆっくりと離す。
「……もう、ばか。マットのばか」
「自分に正直なだけですよ。俺は」
「「さあ、それでは皆様!勝利者インタビューですッ!
この地、オプティマ闘技場の、歴史そのものとなった若き英雄ッッ!
『最強の凡人』『持たざる者の誇り』『物理の究極形』マット・クリスティ!!どうぞこちらへッッ!」」
「「あー。どうも、すんません」」
「「400戦目、無敗のクライス・カルミエを撃破!大変なことを、やってのけましたねッッ!!」」
「「やらかしちゃいましたね、色々と」」
「「観ている側は最後まで、どちらが勝つのか全く読めませんでした!
マット選手の試合プランは、如何でしたか!?」」
「「長引くとヤバいっていうのは予想できてたんで、早めに終わらせようと思ってたんですけど。
完全に失敗でしたね。とにかくボッコボコにされました」」
「「観る者、この場に居る全ての人々を釘付けにする名勝負でしたッッ!!
……しかし、マット選手の闘いも、これで見納め、ということになるんでしょうか!?」」
「「そうですね。とりあえず、やりたいことができたので。旅立とうかと考えてます」」
場内に悲鳴。そうか。皆、けっこう楽しみにしてくれてたんだな。故郷を離れるのは、俺も少し寂しい。まあその間、怒った神様に300年も監禁されてたけど。
「「またいつか、ここで、闘う勇姿を!期待してもっ、よろしいでしょうか!?」」
実況の人まで、涙声になってしまっている。
「「えー……はい。またいつか、帰ってきます。その時まで、俺、もっと強くなりますッッ!」」
この空気に、言わされた感。
正直、今は闘技のことなんて考える気にもならない。マジで怖いし痛いからね。
「「皆様、ご期待ください!この伝説の二人が、再びオプティマ闘技場の舞台で、相見える日をッッ!!」」
俺は手を挙げ、振った。大観衆が一斉に立ち上がり、声をあげる。
その一瞬、オーケストラの指揮者になったような気分だった。
……さあ、メシを食おう。とにかく腹が減った。